第38話:金絲桃(きんしとう)の毒
事件の報告を終えた帰路、リンは医局の渡り廊下を歩きながら、ふと足を止めた。
「……あの姫は、何を願ってあんな香を使ったのかしら」
星読みに“未来がない”と断じられた姫は、その夜、何を考えていたのか。事件は一応の決着を見たものの、胸の奥にひっかかる小骨のような違和感が、リンの思考を離れなかった。
「星なんて信じるから、振り回されるのよ」
そう呟いたとき、背後から気配が近づいた。
「毒にも薬にもならぬ言葉ね」
それは、玉葉妃付きの宦官・シンだった。彼は相変わらず冷ややかで整った顔をして、真っ直ぐにリンを見ていた。
「何の用?」
「あなたに届け物がある。玉葉妃より」
手渡されたのは、一束の小さな薬草。黄金色の花弁が乾燥され、薄く香りが残っていた。
「……金絲桃」
それは古くから、“婦人薬”として用いられた草で、精神を安定させる反面、多量で摂ると幻覚を誘発することもある、扱いに慎重を要する植物だった。
「妃さまがこれを? 何のために?」
「“記憶が薄れゆく前に、香を調えたくて”とのことだ」
それだけ言い残して、シンは歩き去っていく。
リンは金絲桃を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……まったく、女って面倒」
*
翌日、玉葉妃のもとを訪れると、妃は柔らかな光の中で、香を炊きながら静かに微笑んでいた。
「金絲桃の香りは、昔、私の母がよく使っていましたの。気が乱れた夜、決まってこの香を」
「妃さまにしては、珍しく感傷的ね」
「いえ……これは、備えです。いずれ私は、忘れていく。あなたの名も、きっと、もう少ししたら」
その言葉に、リンの目がかすかに揺れた。
「妃さま、まさか……」
玉葉妃はかぶりを振った。
「違います。ただ、記憶の揺らぎが最近とても多くて。“夢”と“現”の境が、曖昧になるのです」
リンは静かに歩み寄り、妃の手首に指を当てた。
脈は、正常。ただし、異様に細く、遠い。まるで内側から空洞になっていくような。
「……これは、薬の影響か?」
「わかりません。誰にも、はっきりとは」
玉葉妃は微笑んだが、その目はどこか過去に向けられているようだった。
「妃さま、この金絲桃。確かに鎮静の作用はあるけれど、併用している香が何かによっては、記憶を蝕む可能性があります」
「蝕む、というと?」
「“忘れさせる”んじゃなくて、“書き換える”の。もっと危険な副作用。……妃さまの症状、誰かに“操作”されてる可能性があるわ」
玉葉妃は目を細め、視線を落とした。
「それを、誰が?」
「――調べてみます」
リンは立ち上がった。宮廷の空気が変わりつつある。毒は、もはや身体だけでなく、記憶と精神にも及び始めている。
*
医局に戻ったリンは、香の調合帳と、過去の処方箋を照らし合わせた。
「……これは、奇妙ね」
玉葉妃のもとに届けられていた香の原料に、「ナツメ」と記されているものがあった。しかし、実際に焚かれていた香には、ナツメの成分が一切含まれていないことが判明する。
つまり、「偽装された香材」が使われていたということ。
(じゃあ、誰が……?)
帳簿の筆跡を見比べ、リンはある名前で手を止めた。
──ヨウ。後宮の調香係で、星読み殺人事件の姫に香を納めた人物と同一だった。
「……やっぱり、繋がってたのね」
記憶を曖昧にする香、未来を絶たれる言葉。そして今、玉葉妃の精神もまた、何者かの香に侵されようとしていた。
リンは筆を取り、書き記す。
「香は、静かに刺す毒。誰も気づかぬうちに、脳に、心に入り込む」
*
その夜、リンは一人、薬司の離れで香を調合した。
金絲桃、杜松、蘇葉、わずかな龍脳――。
(これは、毒じゃない。妃さまの記憶を護るための“盾”)
窓の外には、月が昇りかけていた。静かな夜風が吹き込み、花の香が、かすかに室内を流れた。




