表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
37/64

第37話:冷たい指と沈黙の密室

火輪宮の西廊を抜けた先にある「星見の間」は、夜ごと天文官たちが星の動向を記録する場として知られている。だが今は、その扉の前に番兵が立ち、物々しい気配が漂っていた。


「中には、誰も入れぬよう申しつかっております」


そう兵が言う一方で、周囲には噂好きの女官たちが距離を保ちつつもそわそわしている。


「昨夜、誰もいないはずの星見の間で……灯が消えなかったとか」


「星を読む老爺が、声もなく倒れていたと……」


そんな話が広がるなか、呼び出されたのは例の如く、宮廷医局の使いっぱしり――否、薬師のリンである。


「また妙な話ね……死人に口なし、ってわけ」


小声でつぶやきながら、リンは封鎖された扉の前に立った。検死の許可が下りるまで、宮廷医としての資格を持つ彼女でも室内には入れない。その間、彼女は扉の格子から中を覗き、崩れた書架や転がった香炉、そして奥に見える横たわる男の影に目を細める。


(これ、ただの倒死じゃない……)


すでに鼻をつく鉄錆の臭い――つまり、血の匂いが、格子の隙間からうっすらと漏れていた。


やがて、遅れてやってきたのは尚医局長のユフだった。背筋を伸ばし、涼やかに言う。


「リン、あれは“密室”だった。誰も入れぬ、誰も出ていぬ。にもかかわらず、殺されていた」


「……なるほど、密室殺人ね。面白くなってきた」


「そういう反応はやめたまえ」


だが、リンはすでに周囲の足跡の有無、扉の鍵の構造、香炉に残る香の種類に至るまで目を走らせていた。


そしてふと、彼女の視線が地面の一点で止まる。


「――凍ってるわ」


「なに?」


「部屋の入口、石板の目地……この部分だけ、ほんのわずかに霜が降りてる。七月に? こんなこと、普通は起きないわ」


その言葉に、ユフも顔をしかめた。


「薬物か? あるいは、冷却剤を用いた術か?」


リンは否定も肯定もせず、黙って扉に手を添えた。


「ねえ局長。誰も中に入らなかったとしたら、もしかして“外から冷やされた”のかもしれない」


「冷やす? 建物ごと?」


「例えば、扉を完全に密閉した上で、外部から空気を通さない特殊な香を炊いて……人体の呼吸を、少しずつ止めていく。凍死ではなく、窒息に近いかたちで、冷たさで錯覚させながら」


ユフはため息をついた。


「君の発想はいつも突飛だ」


「でも、この匂い……“沈香じんこう”と“龍脳”の組み合わせ。沈香は香りで心を鎮め、龍脳は極微量なら麻痺作用がある。古くは刑罰に使われたそうよ?」


ユフの表情が微かに強張った。


「まさか、それを知っていて使ったのか?」


「ええ。犯人は“香”で殺したの。だから凶器はどこにもない。事件の痕跡も香と共に空に消える」


リンは、懐から布に包んだ小瓶を取り出す。


「……密室に必要なのは、鍵じゃない。誰も疑わない“空気”なのよ」



その夜、リンは調香に携わっていた宦官に面会し、「沈香」と「龍脳」の納品記録を手に入れる。帳簿の中で、ある奇妙な一致が浮かび上がった。


(この名前……この配合……)


記録のなかに、かつてリンが一度だけ診察した“病弱な姫君”の名があった。その姫は、星を読む老爺に未来を否定されたとされていた。


「……じゃあ、これは“予言に殺された”事件」


天に星がある限り、人は運命を見たがる。


けれど、誰かに「未来はない」と言われた瞬間――未来を否定された者は、その言葉を“呪い”に変える。


(殺したのは、星の言葉か。言葉に殺された彼女か)


リンは、香の残り香を嗅ぎながら、ぽつりとつぶやいた。


「……面白くない、わね」


そしてまた、新たな薬の配合に取りかかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ