第37話:冷たい指と沈黙の密室
火輪宮の西廊を抜けた先にある「星見の間」は、夜ごと天文官たちが星の動向を記録する場として知られている。だが今は、その扉の前に番兵が立ち、物々しい気配が漂っていた。
「中には、誰も入れぬよう申しつかっております」
そう兵が言う一方で、周囲には噂好きの女官たちが距離を保ちつつもそわそわしている。
「昨夜、誰もいないはずの星見の間で……灯が消えなかったとか」
「星を読む老爺が、声もなく倒れていたと……」
そんな話が広がるなか、呼び出されたのは例の如く、宮廷医局の使いっぱしり――否、薬師のリンである。
「また妙な話ね……死人に口なし、ってわけ」
小声でつぶやきながら、リンは封鎖された扉の前に立った。検死の許可が下りるまで、宮廷医としての資格を持つ彼女でも室内には入れない。その間、彼女は扉の格子から中を覗き、崩れた書架や転がった香炉、そして奥に見える横たわる男の影に目を細める。
(これ、ただの倒死じゃない……)
すでに鼻をつく鉄錆の臭い――つまり、血の匂いが、格子の隙間からうっすらと漏れていた。
やがて、遅れてやってきたのは尚医局長のユフだった。背筋を伸ばし、涼やかに言う。
「リン、あれは“密室”だった。誰も入れぬ、誰も出ていぬ。にもかかわらず、殺されていた」
「……なるほど、密室殺人ね。面白くなってきた」
「そういう反応はやめたまえ」
だが、リンはすでに周囲の足跡の有無、扉の鍵の構造、香炉に残る香の種類に至るまで目を走らせていた。
そしてふと、彼女の視線が地面の一点で止まる。
「――凍ってるわ」
「なに?」
「部屋の入口、石板の目地……この部分だけ、ほんのわずかに霜が降りてる。七月に? こんなこと、普通は起きないわ」
その言葉に、ユフも顔をしかめた。
「薬物か? あるいは、冷却剤を用いた術か?」
リンは否定も肯定もせず、黙って扉に手を添えた。
「ねえ局長。誰も中に入らなかったとしたら、もしかして“外から冷やされた”のかもしれない」
「冷やす? 建物ごと?」
「例えば、扉を完全に密閉した上で、外部から空気を通さない特殊な香を炊いて……人体の呼吸を、少しずつ止めていく。凍死ではなく、窒息に近いかたちで、冷たさで錯覚させながら」
ユフはため息をついた。
「君の発想はいつも突飛だ」
「でも、この匂い……“沈香”と“龍脳”の組み合わせ。沈香は香りで心を鎮め、龍脳は極微量なら麻痺作用がある。古くは刑罰に使われたそうよ?」
ユフの表情が微かに強張った。
「まさか、それを知っていて使ったのか?」
「ええ。犯人は“香”で殺したの。だから凶器はどこにもない。事件の痕跡も香と共に空に消える」
リンは、懐から布に包んだ小瓶を取り出す。
「……密室に必要なのは、鍵じゃない。誰も疑わない“空気”なのよ」
*
その夜、リンは調香に携わっていた宦官に面会し、「沈香」と「龍脳」の納品記録を手に入れる。帳簿の中で、ある奇妙な一致が浮かび上がった。
(この名前……この配合……)
記録のなかに、かつてリンが一度だけ診察した“病弱な姫君”の名があった。その姫は、星を読む老爺に未来を否定されたとされていた。
「……じゃあ、これは“予言に殺された”事件」
天に星がある限り、人は運命を見たがる。
けれど、誰かに「未来はない」と言われた瞬間――未来を否定された者は、その言葉を“呪い”に変える。
(殺したのは、星の言葉か。言葉に殺された彼女か)
リンは、香の残り香を嗅ぎながら、ぽつりとつぶやいた。
「……面白くない、わね」
そしてまた、新たな薬の配合に取りかかった。




