第36話:廃文庫の眠り人
「この文献、どこから持ち出したのですか?」
静かな声で、リンは問いかけた。指先でなぞっていたのは、先日リウから受け取った異本『遺方草録』の写し。文字の隙間に忍び込むようにして──ある不可解な印が浮かび上がっていた。
〈花開くがごとき記号〉
それは“花印”と呼ばれ、王宮にあった「廃文庫」の蔵書にのみ使われていた符号だった。廃文庫──今は使われることのない旧薬庫の名である。
返答はなかった。ただ、背後から、書庫に差し込む陽の光が、扉の向こうに誰かの気配を映していた。
「あなたね、監査院の書吏と名乗っていたけど、あの夜以降、帳簿にその名は記されていなかった」
振り返ると、そこに立っていたのは、数日前に一度だけ顔を合わせた男だった。灰色の官服に、妙に目立たない顔立ち。だが、書に関する所作は無駄がなく、隠しようのない訓練の痕跡を感じた。
「……あなた、廃文庫をまだ使っているのですか?」
しばらく沈黙の後、男は口を開いた。
「“使っている”わけではない。“守っている”のです」
「何を?」
「過ちを。再び繰り返さないために」
男の言葉に、微かな苛立ちと責任がにじんでいた。──それは、役目を越えた記憶の重さだ。
リンは机に写本を置き、静かに訊いた。
「藍蓮博士のこと、知っているのですね」
「……あの人は、先を見すぎた。薬を人のために用いようとしすぎた。だが、王は“管理”を選んだ」
「だから、博士の知識は焼かれた」
「焼かれたことにされた。実際は──文字の半分が、別の倉に保管されていた。“誰か”の手によって」
リンの心臓が、一度だけ脈を強く打った。
「あなたが、その“誰か”?」
男は、かすかに笑った。
「私は、守人にすぎません。正しく読める者が現れるまで、文字を繋ぎ止める役割を与えられたにすぎない」
「正しく……?」
「文字は人を助けもするが、誤読すれば刃にもなる。藍蓮博士はそれを理解していた。ゆえに、博士の知識は“試される者”にしか渡らぬよう、書に印を仕込んだ」
リンの視線が、写本の余白にある微細な点々へと移った。それは、文字ではなく、計算式にも見える配置だった。
──否。これは、「順番」だ。
ページを入れ替えるべき、順序の暗号。
「……これを解けば、博士の“意図”に辿り着けるの?」
「可能ならば。だが、読む者の覚悟が問われる。“何のために読むのか”、それがなければ、たどり着いても意味はない」
「私は……知りたい。薬を人のために使おうとした人が、なぜ捨てられたのか。そして、それがいま、誰によって掘り返されようとしているのか」
男は一瞬、黙ってリンを見つめた。
そして一歩近づき、静かに囁く。
「廃文庫の扉は、明け方しか開かない。火を灯してはならぬ。文字は、“闇の中でだけ浮かび上がる”ように書かれている」
その言葉を残し、男は扉の向こうへと姿を消した。
リンは深く息を吐き、ページの順をひとつひとつ組み替え始めた。
ページの綴じ目の隙間に、誰かの祈りにも似た「筆圧の痕」が残されている。
──これは、罠ではない。
これは、託された知。
そして、読む者の決意を試す問いなのだ。
「だったら、受けて立つわ。書庫番の役目として、ではなく、私自身の意志で」
薄暗い書庫に、書の音だけが響いていた。




