表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
36/64

第36話:廃文庫の眠り人

「この文献、どこから持ち出したのですか?」


静かな声で、リンは問いかけた。指先でなぞっていたのは、先日リウから受け取った異本『遺方草録』の写し。文字の隙間に忍び込むようにして──ある不可解な印が浮かび上がっていた。


〈花開くがごとき記号〉


それは“花印”と呼ばれ、王宮にあった「廃文庫」の蔵書にのみ使われていた符号だった。廃文庫──今は使われることのない旧薬庫の名である。


返答はなかった。ただ、背後から、書庫に差し込む陽の光が、扉の向こうに誰かの気配を映していた。


「あなたね、監査院の書吏しょりと名乗っていたけど、あの夜以降、帳簿にその名は記されていなかった」


振り返ると、そこに立っていたのは、数日前に一度だけ顔を合わせた男だった。灰色の官服に、妙に目立たない顔立ち。だが、書に関する所作は無駄がなく、隠しようのない訓練の痕跡を感じた。


「……あなた、廃文庫をまだ使っているのですか?」


しばらく沈黙の後、男は口を開いた。


「“使っている”わけではない。“守っている”のです」


「何を?」


「過ちを。再び繰り返さないために」


男の言葉に、微かな苛立ちと責任がにじんでいた。──それは、役目を越えた記憶の重さだ。


リンは机に写本を置き、静かに訊いた。


「藍蓮博士のこと、知っているのですね」


「……あの人は、先を見すぎた。薬を人のために用いようとしすぎた。だが、王は“管理”を選んだ」


「だから、博士の知識は焼かれた」


「焼かれたことにされた。実際は──文字の半分が、別の倉に保管されていた。“誰か”の手によって」


リンの心臓が、一度だけ脈を強く打った。


「あなたが、その“誰か”?」


男は、かすかに笑った。


「私は、守人にすぎません。正しく読める者が現れるまで、文字を繋ぎ止める役割を与えられたにすぎない」


「正しく……?」


「文字は人を助けもするが、誤読すれば刃にもなる。藍蓮博士はそれを理解していた。ゆえに、博士の知識は“試される者”にしか渡らぬよう、書にしるしを仕込んだ」


リンの視線が、写本の余白にある微細な点々へと移った。それは、文字ではなく、計算式にも見える配置だった。


──否。これは、「順番」だ。


ページを入れ替えるべき、順序の暗号。


「……これを解けば、博士の“意図”に辿り着けるの?」


「可能ならば。だが、読む者の覚悟が問われる。“何のために読むのか”、それがなければ、たどり着いても意味はない」


「私は……知りたい。薬を人のために使おうとした人が、なぜ捨てられたのか。そして、それがいま、誰によって掘り返されようとしているのか」


男は一瞬、黙ってリンを見つめた。


そして一歩近づき、静かに囁く。


「廃文庫の扉は、明け方しか開かない。火を灯してはならぬ。文字は、“闇の中でだけ浮かび上がる”ように書かれている」


その言葉を残し、男は扉の向こうへと姿を消した。


リンは深く息を吐き、ページの順をひとつひとつ組み替え始めた。


ページの綴じ目の隙間に、誰かの祈りにも似た「筆圧の痕」が残されている。


──これは、罠ではない。


これは、託された知。


そして、読む者の決意を試す問いなのだ。


「だったら、受けて立つわ。書庫番の役目として、ではなく、私自身の意志で」


薄暗い書庫に、書の音だけが響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ