第35話:しるしを持たぬ書
書庫に春の朝日が差し込み、古い羊皮紙の端が金色に光っていた。
「この巻子……おかしいわ」
リンは広げた文献の余白を指先でなぞりながら、眉間にしわを寄せた。
目の前には『遺方草録』と題された古医書。だが、どう見てもその構成や記述は、王都に伝わる正統な写本とは異なっていた。
「表題は合ってる。でも、この薬草の記述――順番が違う。それに、名前の漢字が、旧い形のまま」
王宮にある書物は、皇子の教育の一環として、何代にもわたって書写と訂正が繰り返されてきた。だからこそ、書庫の中で“ただ一つだけ違う本”は、逆にとても目立つ。
「誰かが、わざと間違えた?」
そう呟いたとき、棚の影から現れたのは、文官のリウだった。
「書庫番さん、また難しい顔してるな。何か珍しい薬でも探してるのかい?」
「いえ。むしろ……薬のふりをした“何か”を、探しているの」
「ほう。それは興味深い」
リウは目を細め、リンの前に腰を下ろした。その動作が自然すぎて、この人が時にとんでもない嘘を平然とつくことを、つい忘れてしまいそうになる。
「ところで、最近また“失踪”があったね。内典庫の副官が一人、音もなく消えたとか」
リンはページを閉じた。
「あなた、知っているのね。何があったのか」
「それを聞きに来たのは、君じゃないのかい?」
互いに言葉を交わしながら、頭の中では別の思考が同時進行する――それがこの男との会話の癖だった。
リンは、さりげなく話題を変えるように見せかけて、核心に寄せていった。
「この写本、どう思います?」
リウは文を一瞥し、すぐに口を開いた。
「異本だね。しかも……これは、書写の間違いじゃない。“写し直す前の版”だよ」
「前の版?」
「つまり、正式に採用される前。時代や政治の都合で“なかったこと”にされた文献。……たとえば、“処刑された医師”の手になるもの、とかね」
その瞬間、リンの脳裏に、ある名前が閃いた。
──藍蓮博士。
五十年前、王宮の薬理改革を主導した人物。だが、ある事件ののち“謀反”の疑いで断罪された。
「でも……博士の書は、全て焼却されたはず」
「“焼却されたことになっている”だけさ。実物の一部は、どこかに残っていてもおかしくない」
リウは声を潜めた。
「今、王宮の中で動いてる連中がいる。あの時代の知識を掘り起こし、禁じられた方法を蘇らせようとしてるんだ。君が見つけた式薬も、その一端だろう?」
リンは黙っていた。
言葉にしたら、真実が動き出してしまいそうで、口を閉じるしかなかった。
「……その写本、私が預かります。写しを取ったら、保管場所を変えた方がいいわ」
「用心深いな、相変わらず」
リウは肩をすくめて立ち上がる。
「でも、気をつけるんだ。知識には、血が通っている。誰がどんな理由で、それを求めるのか。読み間違えると……噛まれるよ」
そう言って去っていく背に、リンは返事をしなかった。
残された書物を抱え、静かに立ち上がる。
写本の表紙には、確かに『遺方草録』と書かれている。
──だが、それは「見せかけの名」だった。
この書が扱うのは、薬草の使い方ではない。
《人を操る方法》だ。
そしてその知識を、今もなお手にしようとする者がいる。
リンはそっと、灯りを吹き消した。
本の中で眠るものが、再び目を覚まさないように。




