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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
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第34話:蝶の夢と、隠された式薬

 夜の帳が降りると、宮廷の回廊は、白く灯る提灯の光に、うっすらと浮かび上がる。ひとの姿はなく、風すらも息をひそめているようだった。


 ──けれど、そんな静寂の中に、密かに忍び寄る気配がある。


 リンは、薬司の裏庭にある小さな倉の扉をそっと開いた。手にした燭台の灯りが、闇の奥に浮かび上がらせたのは、乱雑に積まれた薬籠と、乾燥されたまま放置された薬草の束。そしてその奥に、細い硝子瓶が一列に並べられている棚があった。


「──式薬しきやくだわ」


 瓶の中には、透明な液体が満たされていた。それは毒とも薬ともつかぬ、用途不明の調合薬──。先帝の代に研究され、今では禁じられた技術の名残だ。


 リンは視線を泳がせながら、ひとつひとつの瓶を確認した。印が付けられていないものもある。それはつまり、何に使われるか記録が残されていないということ。


「誰かが……今もこれを、使おうとしている」


 彼女は瓶の一つを取り上げた。その底に、見覚えのある印が刻まれていた。


 ──〈蝶〉の紋。


 その印は、数ヶ月前に亡くなったある女官の懐紙に残されていたものと一致する。


 あのとき、女官の死は「病死」とされた。だが、リンは微かな違和感を捨てきれず、その遺体に残された薬の痕跡を独自に調べていた。そして、今夜──その違和感が、一本の瓶によって証明されたのだ。


 だが、何故この薬がここにある? そして、何故いま再び〈蝶〉の紋が現れるのか。


 彼女が沈思していると、背後から音もなく、気配が近づいた。


「お探しのものは見つかったかしら?」


 静かな声。振り向くと、そこに立っていたのは、女官頭のセイだった。


「……あなたでしたか。やはり、この倉に鍵をかけることができるのは、あなただけ」


「そう。でも、開けるのも、あなたのような者だけ。私たちは、似ているわね」


 セイの眼差しはどこか遠くを見ていた。


「私はね、ただ……蝶の夢を、もう一度見たかっただけなの。あのひとが生きていた頃の、あの香の中に包まれたような宮中を」


 セイの声に、わずかに滲んだ哀しみがあった。


「あなたは、毒でそれを再現するおつもりですか?」


「毒じゃない。……式薬よ。人の感情や記憶を、揺り動かす薬。あのときの夢を、皆にもう一度──」


 それは狂気に見えた。だが、同時にそれは、失われたものに縋ろうとする、ひとりの人間の執念の姿でもあった。


「……わかりました。セイ様、私はあなたを、捕らえることも、告発することもしません。ただ、その薬を処分させてください。それが終わったら、あなたが消えたいなら……私も止めません」


 長い沈黙が落ちた。


 やがてセイは、ふっと笑った。


「あなたも、蝶の夢を見たのかしらね」


 翌朝、倉には鍵がかけられていた。棚に並んでいた瓶は、すべて姿を消していた。


 そして──女官頭セイは、翌日を境に、姿をくらませた。


 それが誰かの指示だったのか、それとも、彼女自身の選択だったのか。リンは追いかけなかった。いや、追わなかったのだ。


「蝶の夢は、過去に咲いたまぼろし……その香を、いま必要とする人は、いないのだから」


 彼女はそう呟きながら、新しい処方箋に筆を入れた。


 ──春の風が、薬司の庭に吹き抜けていた。

2話更新が終わったので、一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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