第32話:鸞(らん)の涙
高楼から吹き下ろす風が、朱の帷を揺らす。月はまだ中天にあったが、王城の一角、紅蓮殿には明かりが灯っていた。
──宦官がひとり、失踪した。
その話は、今朝方、表向きには「持病の発作による急逝」として処理されていた。しかし、実際には血の一滴も残さず、人間がまるごと掻き消えたかのようだった。
「また、ですか……」
リンはその報を聞くと、深くため息をついた。薄紫の衣をまとった彼女の目元には、疲れが滲んでいたが、それでも理性は濁っていない。
──これで三人目。
全員、夜間に姿を消していた。共通点は、いずれも「鸞妃」の私的な業務に関わっていたということ。
「鸞妃さまの御座所、また調べてきましょうか?」
ミヤが提案する。軽い調子だが、どこか不安げな眼差しを浮かべていた。
「いいえ。私が行く。あなたは……医局に。昨晩、鸞妃さまが飲んだ薬湯、まだ残っているはず」
リンは首を傾けながら、静かに歩き出した。
紅蓮殿は夜でも人の気配が薄く、どこか薄暗く、冷たい。白檀の香がほのかに漂う奥の部屋で、鸞妃が一人、香を焚いていた。
「まあ、リンさま。こんな時間にどうなさいましたの」
にこやかに迎える鸞妃。だが、笑みは表情だけで、目には凍りついた感情があった。
「昨夜のことを少し伺いたくて」
「宦官のことかしら? あれは、あの者自身の問題。私にはどうしようもありません」
「……失踪なさった宦官の一人が、書きかけの帳簿を残していました。中には、鸞妃さまがお使いになった薬の明細も記録されていて」
リンは鸞妃の前に小さな布袋を置いた。中には白い粉末。
「これは?」
「サフラン。……ただし、この量で服用すれば、流産を誘発するほどの毒です」
鸞妃の手が一瞬止まった。沈黙。だが、そのあと彼女は、まるで舞を舞うかのように扇を開いた。
「……それが何か、罪になると?」
「妃が懐妊したと噂されたのは、三か月前。その後、誰にも気づかれぬうちに“御身の調子が悪い”と公表され、御身籠りの話は自然消滅しました。でも、鸞妃さま……」
リンは静かに言葉を継いだ。
「妃は……自ら、命を消したのではありませんか。お腹の中の命を」
鸞妃の笑みが、少しだけ揺らいだ。
「私の身に、何が宿ろうと、私の意志でしかないわ。女が、この後宮で生きるには、時に血のような選択が必要になる。……あなたも、いずれわかるわ」
そう言いながら、鸞妃は立ち上がり、背を向けた。
「でも、それが誰かの命を奪ったなら。黙っているわけにはいきません」
その言葉に、鸞妃は微かに肩を震わせた。
「──あの子の名は、知っていたのよ。“月燈”。父上が名付けたの。私には、許されぬ名だったわ」
初めて流れた涙が、扇の端を濡らした。
「私の中にいた、あの子だけが……私の望みだった」
リンは、言葉を失った。
鸞妃の罪は、確かにある。だが、その中に渦巻く想いと、後悔の深さも、リンの胸に爪を立てた。
風が、また帷を揺らす。
夜が明けるころ、鸞妃は自ら出頭した。
その後、宦官たちの失踪はすべて「事件」として扱われ、長く深い後宮の闇に一つの区切りが打たれた。
だが、リンの胸の中には、扇にこぼれたあの涙の重さが、消えることはなかった。
2話更新が終わったので、一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。




