第31話:白檀の香りと黒き炎
春霞が遠く楼閣を包み込む、静かな朝。
まだ薄明かりのなか、後宮の一隅にある調薬所に、ひとりの女官が早足で駆け込んできた。
「リン様──お客様です。……〈あのお方〉が」
「〈あのお方〉?」
眉をひそめて問うと、女官はこくりと頷いた。
やがて襖が静かに開かれ、現れたのは──
「しばらくぶりね、リン。ずいぶんと良い顔になったわ」
涼やかな声、そして鋭い眼差し。
現れたのは、政の中枢を仕切る女官長・カサネだった。
「今日は、ちょっとばかりあなたの“目”を借りに来たの」
リンは眉をわずかに上げただけで、手にしていた薬草の仕分けを続けた。
「わたくしの目で、何を見ればよいのでしょう」
「死体よ」
あまりにさらりと言って、カサネは扇子を口元に当てる。
「また……ですか」
「一人の宦官が、昨夜、離宮で死んだの。表向きは病死。でも、あの部屋の“匂い”がどうにも妙でね。香炉に白檀、壁には墨──ただの供養にしては奇妙すぎる」
──白檀と墨の香り。
仏事のようでいて、どこか“祓い”のような意味を持つ組み合わせだ。
「その宦官、名前は?」
「サイカ。東棟の文庫を管理していた者よ。記録好きでね、誰がいつ、何を読んだかまで丁寧に書き残していた。……あの文庫が“焼ける”前までは」
「焼けた?」
リンの手が止まる。
「ええ。宦官の遺体が発見された数刻後、突然、文庫に火が出たの。中にあった巻物も、帳面も、すべて灰に」
火事──証拠隠滅か、それとも偶然か。
「現場は、まだ封鎖されていますか?」
「すぐ案内するわ。貴女の“診たて”が欲しいのよ、リン」
リンは静かにうなずいた。
焼け焦げた文庫の残骸。
煤けた壁に、ほんのわずか残る“何かの印”。そして──
「これは……印可状の一部?」
焦げ跡の中から拾い上げた小さな紙片には、確かに見覚えのある筆致。
「薬司の印だわ」
それは、薬の調合許可を示す文書の断片。
だが不思議なことに──死んだ宦官・サイカは、薬司とは何の関係もなかったはず。
「なぜこの紙片が、文庫に?」
答えはすぐには出ない。だが、リンの中でひとつの像が、徐々に形を取り始めていた。
──誰かが、“消そうとした”。
記録を、文書を、そして“痕跡”を。
その夜、リンは密かに文庫の裏手に足を運んだ。
焼け跡の陰に、小さな鉄箱が埋められていたからだ。
「鍵は……ここに」
彼女が取り出したのは、宦官・サイカが死の直前に身につけていた櫛。
その柄の奥に、小さな鍵が仕込まれていたのだ。
鉄箱の中には──日記。
そして、ある高官の名と、謎めいた文字列が記されていた。
《カミシモ・ノ・ヤクノ・コエ》
(──“上下の薬の声”……?)
その瞬間、リンは理解する。
この言葉は暗号だ。
そして、そこに潜んでいるのは「禁忌の処方」。
毒にも薬にもなりうる配合。
それを記録した者を──誰かが消したのだ。
「──これで終わりじゃないわね」
焚火の明かりに照らされ、リンの瞳が静かに揺れる。
燃えたのは記録だけではない。
後宮の“深層”に沈められた、過去の罪。
それがいま、ゆっくりと水面に浮かび上がろうとしている。
そしてリンは、その最前に立っているのだった。




