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薄明かりの書庫番  作者: 朝陽 澄
31/64

第31話:白檀の香りと黒き炎

春霞が遠く楼閣を包み込む、静かな朝。

まだ薄明かりのなか、後宮の一隅にある調薬所に、ひとりの女官が早足で駆け込んできた。


「リン様──お客様です。……〈あのお方〉が」


「〈あのお方〉?」

眉をひそめて問うと、女官はこくりと頷いた。


やがて襖が静かに開かれ、現れたのは──


「しばらくぶりね、リン。ずいぶんと良い顔になったわ」

涼やかな声、そして鋭い眼差し。

現れたのは、政の中枢を仕切る女官長・カサネだった。


「今日は、ちょっとばかりあなたの“目”を借りに来たの」


リンは眉をわずかに上げただけで、手にしていた薬草の仕分けを続けた。


「わたくしの目で、何を見ればよいのでしょう」


「死体よ」

あまりにさらりと言って、カサネは扇子を口元に当てる。


「また……ですか」


「一人の宦官が、昨夜、離宮で死んだの。表向きは病死。でも、あの部屋の“匂い”がどうにも妙でね。香炉に白檀、壁には墨──ただの供養にしては奇妙すぎる」


──白檀と墨の香り。

仏事のようでいて、どこか“祓い”のような意味を持つ組み合わせだ。


「その宦官、名前は?」


「サイカ。東棟の文庫を管理していた者よ。記録好きでね、誰がいつ、何を読んだかまで丁寧に書き残していた。……あの文庫が“焼ける”前までは」


「焼けた?」

リンの手が止まる。


「ええ。宦官の遺体が発見された数刻後、突然、文庫に火が出たの。中にあった巻物も、帳面も、すべて灰に」


火事──証拠隠滅か、それとも偶然か。


「現場は、まだ封鎖されていますか?」


「すぐ案内するわ。貴女の“診たて”が欲しいのよ、リン」


リンは静かにうなずいた。


焼け焦げた文庫の残骸。

煤けた壁に、ほんのわずか残る“何かの印”。そして──


「これは……印可状の一部?」


焦げ跡の中から拾い上げた小さな紙片には、確かに見覚えのある筆致。


「薬司の印だわ」


それは、薬の調合許可を示す文書の断片。

だが不思議なことに──死んだ宦官・サイカは、薬司とは何の関係もなかったはず。


「なぜこの紙片が、文庫に?」


答えはすぐには出ない。だが、リンの中でひとつの像が、徐々に形を取り始めていた。


──誰かが、“消そうとした”。


記録を、文書を、そして“痕跡”を。


その夜、リンは密かに文庫の裏手に足を運んだ。

焼け跡の陰に、小さな鉄箱が埋められていたからだ。


「鍵は……ここに」


彼女が取り出したのは、宦官・サイカが死の直前に身につけていた櫛。

その柄の奥に、小さな鍵が仕込まれていたのだ。


鉄箱の中には──日記。

そして、ある高官の名と、謎めいた文字列が記されていた。


《カミシモ・ノ・ヤクノ・コエ》


(──“上下の薬の声”……?)


その瞬間、リンは理解する。


この言葉は暗号だ。

そして、そこに潜んでいるのは「禁忌の処方」。


毒にも薬にもなりうる配合。

それを記録した者を──誰かが消したのだ。


「──これで終わりじゃないわね」


焚火の明かりに照らされ、リンの瞳が静かに揺れる。


燃えたのは記録だけではない。

後宮の“深層”に沈められた、過去の罪。

それがいま、ゆっくりと水面に浮かび上がろうとしている。


そしてリンは、その最前に立っているのだった。

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