第21話:沈黙の書庫、囁く地下
一
――“もう一人の書庫番”。
その言葉が、リンの耳に残響のように繰り返されていた。
「十年前の火災のあと、“仮面の管理責任者”だけが記録から消されている……。本当に、誰一人覚えていないのかしら」
「記録を改竄した者がいたとすれば、口封じが行われていてもおかしくはありません」
ユエの言葉に、リンは仮面の失踪がただの盗難でないと確信する。
そして──
「地下へ行きます」
そう言った瞬間、空気が凍った。
「……あそこは立ち入り禁止のはずです。王家の儀礼室と並ぶ、最深層。書庫の記録には“忌区”と書かれている」
「禁じられているのは、“知ること”だけ。なら、なおさら、確かめなきゃならないじゃない」
リンの瞳に宿る決意を前に、ユエは一瞬、息を呑み、そして微かに頷いた。
二
夜、無人となった書庫。
ふたりは灯を最小限にし、奥の階段を静かに降りた。
埃のにおい。冷たい石の壁。誰も通らぬ時間が、空気そのものを腐らせていた。
地下三階、古文書の保管区を抜けた先に、封印された鉄扉がある。
「この先が、忌区……?」
ユエが鍵を差し込み、静かに回す。
ギィ……という音が、耳に痛いほど響く。
扉の向こうには、まるで“誰かの部屋”のような空間があった。
「……これは……」
木製の机。椅子。棚には手記の山。朽ちかけた羽根ペンが斜めに突き立っている。
空気に、人の生活の“余韻”がある。
「ここ、本当に……書庫番の……?」
リンが壁の一角に目を留める。そこに、何かが掘られていた。
──【名を消されし者、沈黙の番人となる】。
「……まさか、ここに“もう一人の書庫番”が閉じ込められていた?」
ユエが棚から一冊の手記を取り出した。封蝋が劣化して、すぐに開いた。
その冒頭に、震える筆跡で書かれていた。
『彼らは私の名を奪った。理由も知らぬまま、“仮面”を預かる者にされた。そして……沈黙が義務になった。私の言葉は、王家にとって毒だったらしい』
「……仮面を被ったまま、この部屋に閉じ込められていたのか……?」
「まるで、“生きたまま封印”されたみたいだ……」
三
ページをめくるたび、言葉は次第に錯乱し、意味をなさなくなっていく。
「光が」「声が」「外に出して」「仮面が外れない」「誰か、誰か──」
そして、最終頁には、わずか一文。
──【仮面の裏には、まだ“誰か”がいる】。
「どういう……意味……?」
リンが囁いた瞬間、突然、棚の奥で“コトリ”と音がした。
ユエが素早く懐から短剣を抜く。リンも息を殺す。
静寂が戻った。……はずだった。
壁に貼られていた布が、するりと床に落ちる。
そこには、もうひとつの仮面があった。
……仮面に、黒い液体が垂れている。
「……インク? それとも──血?」
恐る恐る裏返すと、裏に文字が彫られていた。
──【“黙する者”は、未だ宮廷を歩く】。
四
部屋を出たあとも、リンの足は重かった。
沈黙の書庫、忘れられた書庫番、仮面、そして“今も黙したまま生きている誰か”。
「……生きてる?」
そう考えるだけで、背中に氷を流されたような感覚になる。
あの仮面は、ただの儀礼具ではない。
“意志を奪い、沈黙を強いる道具”だった。
そしてそれを使って、十年前、王宮は何かを隠した。
「ユエ……わたし、どうしても知りたいの」
「知って、どうするのです?」
「“誰か”が奪われたものを、取り戻したいの。たとえそれが──王に背くことになっても」
ふと、ユエが一瞬だけ目を見開き、そして小さく微笑んだ。
「あなたは、きっと、記録より強いです」
夜の帳が再び落ちる。
だがリンの中には、はっきりとした光が灯っていた。




