第18話:死人の目と、封じられた夢の回廊
書庫の薄闇の中、金色の目をした“緑衣の女官”は、静かに階段を上ってきていた。
──カツ、カツ、カツ。
その足取りは一定で、まるで生者と変わらぬ歩みだった。
だが、リンは覚えている。
彼女は先月、毒死の報告を受けていたはずだ。
(……これは、夢?)
額に汗がにじむ。
だが、頬をつねると、ちゃんと痛みがある。夢ではない。
女官は立ち止まり、低い声でこう囁いた。
「返して……あの夢を、返して……」
リンは、とっさに手元の灯籠を掲げた。
光が女官を照らす──その肌は土気色で、口元には黒い血の痕が残っていた。
明らかに“死後の姿”だ。
(けれど、なぜ……動いて、話している?)
「夢を、誰かに……盗まれた。私はまだ、生きていたのに……」
女官の言葉は断片的で、意味をなさない。
だが、どこか哀しげで、痛ましかった。
そのとき、風が書庫の天窓から吹き込み、灯籠の火が消えた。
暗闇に包まれた瞬間──女官の姿は、すうっと、煙のように消えた。
……残されたのは、床に落ちた一本の髪。
毒にやられた者特有の、黒く焦げた髪だった。
(現実だ。幻なんかじゃない)
リンは震える指で髪を拾い上げながら、思考を組み直す。
──記憶の移し替え。夢を伝って侵食される現実。
そして、死者の夢が、まだ生きている者に何かを訴えようとしている。
翌朝、リンは王宮内の文書保管所へ足を運んだ。
目的は、「緑衣の女官」──名は、ユエの死亡記録を確認すること。
だが、閲覧簿に記された彼女の名は、数日前に“取り消し線”が引かれ、「不在調査中」とだけ添えられていた。
(どういうこと? 死亡届が出されていたはず……)
担当役人に尋ねても、あいまいな返事しか返ってこない。
「ええと……正式な死亡確認が取れなかったので、処理が保留されてますね」
「遺体はあったはずです。梅香妃付きの侍女で、毒死……」
「ああ、あのときの……でも妙ですね。遺体、どこかへ移されてて、いま行方不明になってるそうです」
(──誰かが、記録を操作した?)
情報を追ううちに、リンの中で、点と点がつながっていく。
夢日記の“記憶交換”の契約。
そして、王家の血が媒介になるという条件。
もしも、王家の人間が誰かと契約を結び、“他者の記憶”を我が物として取り込んでいるのだとしたら?
その「交換された側」は、“現実から消えた者”になる。
だが記憶だけが、「夢」という形で残る──
──ふと、背後から声がした。
「君、最近……夢をよく見るだろう?」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、そこには、あの青年宦官──ユイがいた。
彼は微笑を浮かべながら、そっと懐から小瓶を取り出した。
中には、銀色に光る液体。
「これを飲むと、夢が安定する。毒じゃない」
「……あなた、何を知っているの?」
ユイは答えず、ただ問い返した。
「“誰の夢”を見ている?」
その問いに、リンは言葉を失った。
──誰の夢?
それは、自分のものだと信じていた。
けれど今、彼女の頭の中には、知らない誰かの過去。
知らない誰かの感情。
知らない誰かの“罪”すら、断片として染みついている。
──これは、他人の夢だ。
そう気づいたとき、視界が揺れた。
背後で、ユイがそっと囁いた。
「目覚めたとき、すべてが“変わって”いたとしても……君だけは、忘れないように」
そう言って、ユイは静かに立ち去った。
リンの手の中には、銀の瓶が残されたまま──。




