第11話:予兆と仮面
その日、王宮には奇妙な噂が流れていた。
「庭園の泉が、朝には赤く染まっていたらしい」
「いや、今朝の霧が血の匂いだったと聞いたぞ」
「地下牢の看守が、一晩で白髪になったんだとか……」
いつの世も、噂というものは尾ひれをつけて広がっていく。だが、今回に限っては、リンも無視できなかった。なぜなら、それらの“異変”が、彼女の読み解いた古文書に記された「災厄の前兆」と、驚くほど一致していたからだ。
その古文書にはこう記されていた。
『兆しはまず、水と空に現れる。清きものが濁り、軽きものが重くなる時、星の声が囁きを始めるだろう』
(……星の声、か)
リンは新たに与えられた執務室で、膨大な記録と古文書の山に囲まれながら、眉根を寄せた。
机の上には、庭園の泉の成分を調べた報告書。赤みを帯びた水は、自然の変化では説明のつかない金属成分を多く含み、古代文書に記された「血の泉」に酷似していた。
さらに、昨夜から発生した“耳鳴り”の報告。誰にも聞こえない高音が、深夜の宮廷を包んでいたという。従者のひとりは、怯えながらこう話した。
「……誰かが、私の耳元で囁いていたんです。“目覚めるな”と……」
それは、単なる悪戯や幻聴で片づけるには、あまりに奇妙で、符号が合いすぎていた。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します、宮廷薬司のリリィです」
リンが促すと、リリィは小瓶をひとつ机に置いた。中には、例の泉の水が入っている。
「やはり、これは“自然の水”じゃないわ。薬草でも中和できなかった。何か……人の手を介さずして、変質している。まるで、“意思”があるみたい」
「“意思”……」
リンは、小瓶越しに揺れる液体を見つめた。深紅に染まった水の奥に、なにかの“目”が潜んでいるような気さえした。
「リリィ、この水の変質が、古文書にある“星の目覚め”と関係しているとしたら?」
「星?……あの、古の星ってやつ? けど、星なんて何も起きてないじゃない」
たしかに、空は曇りがちとはいえ、星がどうこうという様子はない。だが、リンにはひとつ、思い当たる節があった。
──第二王子の寝室にあった、蒼玉石。
あれが、病の元凶であり、同時に「封印の鍵」でもあった可能性は?
そのときだった。リリィが声を潜めて囁く。
「……実は、第二王子殿下の付き侍が、昨夜、“同じ耳鳴り”を訴えて倒れたの」
「!」
「発作の直前に、“蒼玉の瞳がこちらを睨んだ”って……正気じゃなかったけど、殿下の寝具に縫い込まれていた布地が、一部、消えていたらしいの」
リンは、無意識に立ち上がっていた。蒼玉の瞳──それは、サイラス帝国の古文書で「目覚めた星の象徴」とされる、災厄の媒介だった。
(封印は……まだ解けていなかった?)
危機感が、冷たい雨のように背筋を伝う。第二王子は回復した。だが、それは一時的な症状の抑制に過ぎず、根本の“封印”は、まだ揺らいでいる。
思考を巡らせるリンのもとに、今度は使者が駆け込んできた。
「宮廷書司殿! 緊急です。第一王女殿下が……ご気分を崩されました」
「王女殿下が?」
「はい、寝所に謎の紋様が浮かび、同時に高熱と震えを……!」
リンとリリィは、無言のまま目を見交わした。
──第二王子のときと、まるで同じだ。
災厄は、すでに動き始めている。しかも今回は、より複雑で、より深く、王族の血筋そのものに関わっている可能性があった。
リンは、机の引き出しからサイラス帝国の禁書を取り出し、震える手でページを繰る。
そこには、こう記されていた。
『血に連なる者は、“声”を受け継ぐ。災厄は、星の力と交わりし血脈に宿り、鍵を開く者となる』
血脈──王族。
つまり、災厄は王家の中にある。そして、それを呼び覚ましたのも、封印を破ったのも、彼ら自身かもしれない。
「……“仮面”を被っていたのは、災厄ではない。私たちの方だったのね」
リンの呟きに、リリィがうなずく。
「真実は、いつも一番近くにあるのよ。見えないふりをしてるだけ」
ランプの光が揺れた。古の知識は、また一歩、彼女たちを真実の中心へと導こうとしていた。
王女の症状、泉の変化、耳鳴り、そして“目覚めた星”。
全ては、より深い“封印”へと通じる糸──。
書庫の奥で、リンは静かに決意を固める。
この国の血に、何が封じられているのか。真の災厄とは何か。そして、自分は何のために知識を与えられたのか。
宮廷書司としてではない。ただの少女、リンとして、彼女は再び、「真実」と対峙する準備を始めていた。




