034 「連続訓練後」
・竜歴二九〇四年二月某日
「時間です」
「状況終了」
黒を基調とした軍服の男性が、懐中時計を手にした同じく軍服姿の女性の声を受けて命令を下すと、近くにいた者がそれを復唱。さらに「状況終了!」と呼びかける声が方々でやまびこの様に響いてくる。
場所は、アキツ本国で随一の霊峰とされる、優美な姿を持つここ200年ほど沈黙している巨大火山の裾野の一角。そこには軍の広大な演習場が広がり、通称「天狗の庭」と呼ばれている。
しかし彼らが使っている地区は、演習場と言っても開けた場所ではなく原生林が生い茂る。また、火山に由来する岩石が方々で露出しているなど地形も複雑だ。しかも一部では火山岩の影響で磁気が乱れ、方位磁石があてにならない。
普通なら入り込まないし、使われることのない区画だ。
そんな自然のままの演習場の各所で、号令を受けて様々な変化が現れる。
茂みから一人、大きな木の根元から一人、岩陰から一人、その場の景色が少し揺らめいたと思ったら黒い軍服姿に小銃や刀など多くの装備を担いだり手に持った兵士達が次々に姿を現す。
しかしその軍服は、裾の各所に魔力を帯びた銀糸をあしらった黒地に、赤や黄色のあしらいが詰襟、肩口などに入れられた自然とは相反する色合い。
しかも姿を見せた者達は、単に伏せたり隠れたりするだけでなく、戦闘時の待機姿勢を取っていた。
それらが忽然と姿を見せたという事は、何かしらの幻影の魔術によりその場の風景に溶け込んでいたか潜んでいた事になる。
中には、風景に溶け込む布か外套を被っていた者もいる。また何かしらの札を手にした者もいた。
魔法的な手段は様々だ。
もっとも、魔法に頼ることなく擬装用の網に多数の枝や草を挿して周囲に溶け込んでいる者もいる。
そしてさらに、それぞれの間隔が大きく開いていた。10メートルどころか平均で50メートル以上。100メートル離れている場合も少なくない。
数は軽く見渡した限りでは7、80名ほど。隠れていた以前に、相当視力が良くないと把握は難しい距離間だ。
そしてそれを、他より見晴らしの良い場所から、小さな無袖外套付きの派手めの黒い軍服を纏った男女が見ていた。
男女以外での違いは、男は頭の上に2本のツノが、女は耳が上に長く伸びていること。ただし男があくまで凡庸な外見なのに対して、女は非凡過ぎる容姿を持っていた。
甲斐『凡夫』特務大佐と鞍馬『天賦』特務大佐だ。
「24時間の伏在訓練は成功だな」
「はい。ですが全員に号令が届いていないのでは?」
二人とも前を見ているだけで、お互いに視線を向けたりはしない。その視線も、目の前の状況をつぶさに追っている。
二人の目線の前では、姿を見せた兵士達が二人の方へと駆け始めていた。
「確かに数が足りないな。だが、状況は見えているだろ」
「『念話』は禁じています。距離を取り過ぎて木々が視界を遮り、風や木の音などで号令が届いていないのではないでしょうか」
「となると、少し面倒だな」
「『念話』を使いますか?」
「伏在訓練の後に魔力を使うのは締まらないな。術の使用を最小限にする為、離れ過ぎるなと注意した筈なんだが」
「私か吉野なら、魔力使用量を規定以下に抑えられます。どこかで見物している陸軍の将校達に気取られる事もないかと」
「大声で探し回るよりマシか。では頼めるか? ただし、この程度なら腕立て以上の罰はなしだ」
「……手ぬるくはありませんか?」
「あまりやる気のない訓練を丸4日だ。それに僕も、これ以上は無駄な事に労力は使いたくない。いいな」
「了解しました」
答えるなり、女の方が懐から複雑な模様や記号、文字が描かれた札を一枚取り出す。
そしてそれに何かを命じる様な仕草を見せると、札が淡く輝き始める。
『状況終了。繰り返す、状況終了』
札で何かをしている女は何も口にはしていないが、分かる者には分かる何かの波動の様なものが、指向性を持って伝わっていく。
何本もの波動は半円状に伸びていき、何かを見つけるかの様にそこを目指す。
「念の為、即時集合も伝えてくれ」
「了解」
男の追加命令にも女は対応し、何かの波に『即時集合せよ』と付け加える。
それを横目で見つつ、斜め後方に控えていた年嵩の鬼に「曹長、司令部も移動だ」と軽く指示を出す。彼らの周りでは数名の兵士が様々な作業をしていたが、それが一斉に撤退の動きへと変化した。
その後、訓練していた茂みから数キロメートル離れた数千名が並べるであろう広場の一角に、数十名の男女が規律正しく整列する。普通の者達ならもっと時間がかかるだろうが、並みの者達とは動きが違っているので短時間での到着だった。
そうして整列した集団は大きく4つ。うち3つは2列で12名。一番前の2名と他数名が、襟章、肩章、腕章、腕章の模様が少し違っている。
残る一つは他よりも人数が多く、4列縦隊で約50名。肩などの徽章の模様が他の列の者より単純な者ばかり。前の2人だけが、他の集団のものと同じ模様だ。
そして全員が同じ銀糸を縫い込んだ、他より派手目な黒い軍服を着用していた。
一方で整列した者達に向かい合うのは、その場に設けられた小さな壇上の男女だけではない。
二人の後ろには幾つかの木造の小屋があり、数名の兵士が様々な任務に就いていた。最初に命令を受けて大声で命令を発したのも、その中の一人。常に甲斐のそばにいる、曹長の階級章を付けた年嵩の鬼の大男だった。
その男が斜め後ろより甲斐に声がけする。
「総員揃いました、大隊長殿」
「よろしい。……大隊諸君、72時間に渡る長期連続訓練、続く24時間の伏在訓練、誠にご苦労。小官は結果に十分満足している。ただし、満点とはいかなかった様だな。大隊副長」
「ハッ」
甲斐の声に、名前を呼ばれた鞍馬が答えつつ半歩前に出る。
隊長が労ったので、あとは副長のお小言というわけだ。
「伏在訓練の最後、号令及び視認で状況を掴めない距離にいた者、同様にその様な状態にあった者、合わせて9名。その場にて腕立て100回。加えて、本日中に始末書を提出。各中隊長と副長は、解散後に司令部に集合。他は翌朝6時起床まで自由とする。以上、解散」
凛とした声が終わると、敬礼と答礼が行われる。
そして甲斐が敬礼を解くと、整列していた兵士達、将校達が緊張を解いて解散していく。中には談笑している者もいる。風呂、暖かい食事、そして睡眠が彼ら彼女らを待っている。
既に支援の者達が、彼らが休息を取る準備を整えていた。
だが上に立つ者は別で、もう少し給料分の仕事をする必要があった。
甲斐らが壇上から降りて小屋へ向かうと、それぞれの列の先頭にいた者達も司令部のある小屋へと続く。
小屋の真ん中に長方形の大きな机があるので、10名ほどが入ると中はあまり余裕がなかった。このため全員が立ったままで机を囲む。その机には、大きな地図を中心に地図が何枚か置かれている。それ以外にも、何かの書類と思われるものも数枚あって重しで固定されていた。
また上座の後ろには移動式の黒板が置かれている。
甲斐と鞍馬が小屋の入り口から一番奥の机の上座に位置すると、机の左右に8名の様々な種族の男女が並ぶ。
アキツに住む大半の種族の大半が揃い、いないのは多々羅くらい。
実にアキツらしい多種族さだが、天狗がいるというのは軍では珍しい。加えて、戦闘部隊に女性将校がいるのも珍しい事だった。
甲斐は、そんな部下達に一人ずつに目を向けてから正面を向く。
正面は出口側で誰もいない。そして出口の外には、甲斐らに付いていた曹長が位置する。衛兵も解散させたので、彼が歩哨代わりを務める為だ。
つまり周囲に他の者はいない。
しかも野外なので、本当に彼らだけだった。




