第58話 男子禁制を進め!
あれほど猛り狂った観衆の声は、今、水を打ったように静まり返っている。この円形競技場には、万を超える人々が集まっているにも関わらずだ。
皆、目の前で起きたことを信じられないでいる。隣で立ち上がり布を振り回していた男は、そのままの形で凍り付いたように動かなかった。
剣を翳したマトゥラー国の戦士は一直線にクリシュナの兄、バララーマへと走った。その俊足と乱れぬ肢体に、オレは歴戦の戦士であることを感じ固唾を呑んだ。
だが……。その剣先がバララーマに届くことはなかった。大きな体の真ん中に突き立てにいったはずの剣は、バララーマの腕にはめられた籠手に弾かれ、吹っ飛んだ。軽く触れただけのように思えたのだが、戦士はその光景に『あっ』と声を漏らすことも許されなかった。彼の体は宙高く舞い、そのまま地面に頭から突き刺されてしまった。
恐怖と落胆と衝撃が入り混じったようなうめき声が、静寂の後に続いた。オレは握っていた拳をようやく緩めることができた。
――――強い……。いや、そんな言葉で形容できない……。
そのまま試合場にはバララーマが立ち続けている。交互に戦うわけではないらしい。恐らくアルジュナは可能な限りバララーマに託すつもりなのだろう。
この試合は、あくまでもバララーマ、クリシュナ兄弟の戦いだ。文字通り瞬弥は体を貸すことになる。戦うのはクリシュナ自身であって彼の意識だ。だから瞬弥は、クリシュナの動きや相手からの攻撃に耐えられるよう、この日まで体を作ってきた。それについてはアルジュナがしっかりと鍛えてくれたはずだ。
瞬弥は元々現代高校生の中で、類まれな運動神経と鍛錬の賜物である見事な肉体の持ち主だ。それはさらに磨かれていると信じていい。オレはそう何度も言い聞かせる。
――――それでも……一秒でも早く、クリシュナの体を見つけなければ。出来れば瞬弥が試合場に立つ前に。
『兄さん、アンバリー妃の部屋がわかったよ』
弟たちの報告が入る。オレは静かに立ち上がった。バララーマが次なる相手も倒したのだろう、既にやけ気味な罵声が飛び交っている。その騒音を振り切るように、オレは弟たちの元へと飛んだ。
所謂、喫煙所にたむろするおっさんたちが持つ、携帯灰皿。弟達はそれにやや手を加えて『時渡りの粉』炙り器を作ってくれた。オレは人の目のないところでそれを使うと、あっという間に男子禁制の後宮に入ることができた。
「大丈夫か? 何もされていないか?」
オレの前に現れた弟達は、そろいの女官服を着ていた。背中まである布がついた帽子を被り、膝下丈のワンピースに太い帯を施した衣服を纏っている。どこかの女子高生の制服みたいだ。連れられた部屋に置いてあったのを着てきたらしい。そのうえで、二人はそれぞれ持ってきた道具をリュックに詰め背負っていた。
「これはここの女官服みたいだから、歩いていても怪しまれないよ。兄さんは見つからないようにしてね」
翔にそう言われたが、高い樹々や林に囲まれている後宮の周りならともかく、中に入れば、建物以外何もないのだ。つまり、隠れるところは少ない。二重の回廊の間は草一本生えていない白っぽい砂に覆われている。
「とにかく、そのアンバリー妃の部屋は?」
回廊にはいくつもの個室が連なっているが、一軒家くらいの屋敷がその奥にいくつか建っているのが見える。アンバリー妃はその一つに住んでいる。やはり、この中では有力者ということなのだろう。
アンバリー妃の屋敷に通じる路地を抜けると、ちゃんとした玄関もあった。そこには、見張りの護衛兵が仏頂面をして立っている。双子がこの屋敷の持ち主をアンバリー妃と確信したのは、彼らの不用意な会話だった。
「あの人たちも武芸大会に行きたいんだよ。アンバリー妃の悪口言いまくってたよ。でもここでの待遇は酷いらしくてちょっと可哀そう。まるで舞踏会に行けないシンデレラだね」
なんちゅう可愛い表現をするのか。女官の制服も似合ってるし。いや、和んでいる場合じゃない。
「よし、いい考えがある」
オレは双子に耳打ちする。少々危険だが、ここでひと騒ぎ起こして中に警戒されるよりいいだろう。
五分後、オレは護衛兵の恰好をして、アンバリー妃の屋敷へと入ることができた。二人とも気絶させて屋敷の床下に放り込んだ。オレは双子に、武芸大会があらぬことになっていると告げさせた(まあ、本当のことだが)。今まさにカンサ王側の戦士が負けに瀕していると。奴らは当然のことながら、賭けに参加している。試合そのものよりも自分の掛け金に気もそぞろだ。
「大丈夫ですよ。ここは私たちがうまくやっておきます。試合会場にお急ぎください。でも護衛兵とばれるといけません。武器防具はお預かりしましょう」
その甘言に、居ても立っても居られない護衛兵はさっさと武具を解き、双子に預けて試合場に行こうとした。そこで、オレの登場。ちょっと卑怯だけど、背後から手刀をお見舞いした。
オレはそっと扉に手を掛ける。鍵は護衛兵が持っていたので問題ない。地続きの部屋には人の姿はない。左右の蛇腹窓から差し込む光に映し出されたのは、この屋敷の居間になるのだろうか。人を迎える部屋は、このところ誰も訪れていないかのように埃っぽく、ソファーのクッションも薄汚れたまま放置されている。
「お許しください。もう、無理です!」
「兄さん……」
双子が不安気な瞳をオレに投げかける。奥に続く廊下の向こうから、息も絶え絶えの悲鳴が聞こえてきた。




