第一話:その「追放」は、最強のママへの「解放」だった
カツーン、カツーン、と無駄に重々しい足音が、大聖堂の静寂を切り裂いた。
アリス・エインズワースは、フードの中で小さく眉をひそめた。
(……うるさい。もう少し静かに歩けないのかしら。リラが起きちゃうじゃない)
彼女の胸元、生成りのスリングの中には、生後三ヶ月程の愛娘・リラがすやすやと眠っている。
場所は、世界樹セフィロトの根元に位置する聖都の大聖堂。
本来なら、世界を救った英雄を称える神聖な場所だが、今ここで繰り広げられているのは、感動のフィナーレではなく、ドロドロとした断罪劇だった。
「アリス。貴様を、この勇者パーティー『神威の光』から追放する!」
リーダーのヴィルヘルムが、大聖堂中に響き渡る大声で宣言した。
彼の背負う聖剣『バルムンク』が、窓から差し込む光を反射してギラギラと輝いている。
無駄に眩しい。
(声が大きい……!この『音響拡張』のかかった大聖堂で大声を出すなんて、赤子の聴覚への配慮が欠片もないわね)
アリスは内心で舌打ちをした。
彼らは気づいていない。
アリスが今、心配しているのは「自分の将来」ではなく、「娘の昼寝」であることに。
ヴィルヘルムの隣で、聖女フィオナが冷ややかな笑みを浮かべて一歩前に出た。
「聞こえなかったの、アリス? 貴女はもう不要なのよ。魔王は討伐されたわ。これからの私たちに必要なのは、王侯貴族との華やかな交流と、聖なる威光。貴女のような、一日中鍋をかき混ぜているだけの地味な錬金術師は、英雄の隣に相応しくないの」
フィオナの言葉に、他のメンバーも同意するように頷く。
彼らにとって、錬金術師とは「ポーション係」か「荷物持ち」程度の認識でしかない。
アリスが、戦闘のたびに世界樹の地脈からマナを抽出し、彼らの身体強化バフを維持していたことも。
フィオナが「私の祈りが通じた!」と誇っていた奇跡の回復が、実はアリスがこっそり散布していた『世界樹の朝露 (エリクサー級ミスト)』の効果だったことも、彼らは一切知らないのだ。
「……そうですか」
アリスは、極めて事務的に答えた。
「つまり、解毒剤の調合も、装備の自動修復も、野営時の結界展開も、すべて自分たちでできる自信がある、ということですね?」
「ふん、当たり前だ!」
ヴィルヘルムが鼻を鳴らす。
「今は平和な時代だ。そんな泥臭い作業は、街の三流商人にでも任せればいい。我々が欲しいのは『金』と『名誉』だ。貴様への報酬をカットすれば、その分我々の取り分が増える」
(ああ、よかった……)
アリスの胸中に広がったのは、絶望ではなく、圧倒的な「解放感」だった。
これで、夜泣きする娘をあやしながら、彼らの装備のサビ落としをしなくて済む。
離乳食の準備をしている最中に、「おい、筋肉痛の薬!」と呼びつけられることもない。
「わかりました。謹んで、追放をお受けします」
アリスは頭を下げた。
口元がニヤけそうになるのを必死に堪えて。
「では、私はこれで。娘の授乳の時間がありますので」
踵を返そうとした、その時だった。
「待て。誰がタダで帰してやると言った?」
フィオナの鋭い声が、アリスの足を止めさせた。
「貴女が胸に抱えている、その『汚らわしいモノ』……置いていきなさい」
ピクリ、と。 アリスの空気が変わった。
「……なんですって?」
「とぼけるな!」
ヴィルヘルムが怒鳴る。
「魔王城の地下で拾った、その赤子のことだ!魔族の落とし子か、生贄の生き残りか知らんが……そんな不気味なガキを連れ歩かれては、英雄としての外聞に関わる。ここで処分していくのが筋だろう!」
ヴィルヘルムの手が、聖剣の柄にかかる。
ジャリ、と金属が擦れる音がした瞬間。
――オギャアアアアア!!
アリスの胸元で、リラが火のついたように泣き出した。
殺気と騒音。
敏感な赤ん坊が、それを感じ取らないはずがない。
「あーあ……」
アリスは深いため息をついた。
それは、追放されたことへの嘆きではない。
必死に寝かしつけた努力を無にされた、母親の底冷えする静かな怒りだ。
「ヴィルヘルム。フィオナ。あなたたち、一つだけ勘違いをしているわ」
アリスは泣き叫ぶリラを優しくトントンとあやしながら、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、大聖堂のステンドグラスよりも冷たく、そして鋭く光っていた。
「私が錬金術を極めたのは、魔王を倒すためじゃない。『この子の泣き声を、世界で一番幸せな音色に変えるため』よ」
「は? 何を訳のわからないことを……」
「抜けるものなら、抜いてみなさい、その聖剣」
アリスは挑発すらしない。
ただ、事実を告げるように言った。
「貴方が剣を鞘から一ミリ抜く間に、私はこの大聖堂の空気中の組成を書き換えて、貴方たち全員を窒息させることだってできるのよ?」
「なッ……!?」
ヴィルヘルムが動きを止めた。
ハッタリではない。アリスを中心とした空間が、歪んでいる。
世界樹の根から吸い上げられた膨大なマナが、彼女の周囲で目に見えるほどの密度となって渦巻いていた。
それは「魔法」というより、自然現象の操作に近い。
「それに、この子の前で暴力的なものを見せたくないの。教育に悪いから」
アリスはポケットから、小さな小瓶を取り出した。
中に入っているのは、アリスが夜なべして作った『安眠誘導アロマ・改(対ドラゴン用)』だ。
パリン!
アリスがそれを足元に叩きつけると、甘く濃厚な香りの霧が爆発的に広がった。
「ぐ、なんだこれ……力が、抜け……」 「眠……い……?」
歴戦の勇者たちが、まるで糸の切れた人形のように、次々とその場に崩れ落ちていく。
物理的な攻撃ではない。
強制的な「お昼寝」の強要だ。
「さようなら、元・仲間たち。せいぜい、いい夢を見てね」
アリスは意識が朦朧とする彼らを尻目に、足元の石畳に錬金術式を描いた。
『地脈渡り(ルート・トラベル)』。
世界樹の根が張り巡らされた場所ならどこへでも一瞬で移動できる、アリス独自の転移術だ。
光が彼女を包み込む。
最後に彼女が見たのは、床に転がって間抜けな寝息を立て始めた「英雄」たちの姿だった。
* * *
視界が開けると、そこは緑の匂いが満ちる静かな森の中だった。
足元には柔らかい苔。頭上からは木漏れ日が優しく降り注いでいる。
アリスがあらかじめ用意していた、隠れ家の前だ。
「……ふぅ。着いたわね、リラ」
胸元のスリングを覗き込むと、リラは再びすやすやと眠りについていた。
その柔らかい頬は、焼きたてのパンのように白く、ほんのりと温かい。
ミルクの甘い匂いが、先ほどまでの殺伐とした空気を上書きしていく。
アリスは、リラの小さな手に自分の指を添えた。
ぎゅっ、と無意識に握り返してくる力強さ。
その感触だけで、アリスの心にあったわだかまりは、雪解けのように消え去った。
「もう、あんなうるさい人たちはいないわ」
アリスはリラの額にそっとキスを落とす。
「これからはママと二人きり。錬金術はぜんぶ、リラの『気持ちいい』と『おいしい』のために使うからね」
最強の錬金術師は、今日で廃業。
ここから始まるのは、世界一過保護で、世界一幸せな、最強ママのスローライフだ。




