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裁可

 仕事中に飛び込んだ知らせに取るものもとりあえず邸宅に戻り、侍女の言葉もあまり耳に入れずに義母がいるという居間へと飛び込むとヴァルファムは椅子に座っているその姿にやっと安堵の息をついた。


こちらの心配などどこふく風で寝椅子に座るその様子に、途端に安堵感と軽い怒りとがあふれ出るのを感じる。 


「義母うえっ、お怪我は? 何事があったのですっ」

 上着を脱ぐこともせずに義母の椅子の前で膝をついたのは、下半身の力が抜けてしまったというのも理由の一つで、その身を抱きしめると驚いたままの彼女は身じろぎしながら困ったように言葉をつむいだ。

「あの、ヴァルファム様……わたくしは平気です。それより、女史が」

「あなたの平気は信用ができない! 怪我は? 本当に怪我はないのですか? 医師はどうしたのですっ」

 言葉を乱暴に向けながら、そのぬくもりと心音にヴァルファムは神に感謝していた。

普段から神とは仲の良いほうではないが、今度ばかりは感謝の言葉を並べ立てて賛辞してもいい。


――ファティナ様が気の触れた暴漢に襲われました。

 

それ以降の言葉など耳に入る余地も無い。ただ世界は真っ白に塗り替えられ、耳鳴りと奇妙な空虚感で必死に馬を飛ばして戻ったのだ。誰がそんなことをしたとか、どうしてそんなことになったのかなど考えても意味が無い。

ファティナが生きている。それだけが今の現実だ。

「怪我をしたのは女史なのです。ごめんなさい、あなたの大事な方を守れない不甲斐無い義母で本当にごめんなさい」

「そんなのはどうでもいい」

 ヴァルファムはぶるりと身震いした。

ファティナが誰かを守る? それはどういう意味だろう。

誰も守らなくていい。むしろ、そんな真似をしてファティナが怪我でもしては目も当てられぬ。


「そんなの……」

 ヴァルファムの後ろで小さな声が落ちたが、ヴァルファムはまさにそんな(・・・)ことを気にかけたりしていなかった。


 しかし、自分の前で膝をつき、ぎゅっと自分を抱きしめている義息の腕の中でファティナはそれどころではない。

 義息ときたら完全に動揺しているのか他を視界にいれていないが、ファティナの視界にはしっかりとメアリ女史がうつっていた。

 反対側のソファで医師の治療を受けているメアリがどうにも微妙な顔をしているのだ。

 ファティナは血の気を引かせた。

自分などを心配するよりも先に、本来であれば自らの求婚相手を危惧するべきだ。それこそが正しい。

 女史の心がヴァルファムに無いというのであれば尚更、こんなことをしていてはますます嫌われてしまう。

 焦るファティナは軽く混乱しそうになっていた。

「ヴァルファム様っ、女史がわたくしを庇って怪我をしたのですよ」

 ほら、慌てて!

そういう思いを込めて言うが、ヴァルファムはやっと安堵した様子で息をついて身を起こすと、何故か胡散臭いものでも見るように後ろを振り返り、医師によって包帯を巻かれている女史と、その横で医師の手伝いをしているクレオール、ついで治療を受けている求婚相手を見た。


「義母を庇って怪我を?」


やっとメアリへと向けられた言葉に、ファティナはほっとうんうんっとうなずいた。

「そんなことより、ドクター。義母に本当に怪我などはないのか? どうして義母より先に女史の治療をしている」

 苛立たし気な言葉に、メアリは思わずちらりとその視線をファティナへと向けた。まるで「それみたことか」と言われたような気がして、その視線を受けたファティナはわたわたとヴァルファムの袖を引っつかんだ。


「私のことはどうでも良いでしょう! ご自身の愛しい方が怪我をなさったのですよ! あなたときたらどうしてそう冷静なのですっ」

先ほどまではあからさまに動揺していたというのに。

 怒るファティナを制するように、包帯を巻かれた現状のメアリがやけに冷静な口調で言った。

「ヴァルファム様」

「なんだ?」

「私の名前、ご存知ですか?」


 メアリはにっこりと微笑んで問いかけた。

包帯を巻かれた腕をそっと撫でて、しばらくじっくりとヴァルファムを見つめる。

何故かその場に重い緊張が満ちた。


 ファティナはメアリの言葉の意味が判らなかった。

彼女は突然何を言い出したのだろう。当然、メアリの名前など誰もが知っている。ヴァルファムだとてそれは理解しているだろう。何といっても相手はもうずっと同じ屋敷で暮らしていた相手だし、何より、自分が愛して求婚した相手なのだ。その相手の名前を知らぬ筈が……

「ヴァルファム様?」

 まさかとファティナが声を掛けると、ヴァルファムは眉を潜めつつ「それに何の意味があります?」と低く言葉にした。

「そんなことより、クレオール。今回の件はいったいどういうことだ? 義母うえを襲ったというのは誰だ? まさか愚かにもまた義母うえを外に連れ出した訳ではないだろうな?」

「ヴァルファム様っ」

 ファティナは声を荒げた。


「そんなことではお嫁様は来てくださいませんからね!」


 突然怒り出したファティナに、ヴァルファムはまったく理解できなかった。


***


「もう本当に情けないです」

 ヴァルファムと医師とクレオールとが部屋を出て行くと――ファティナが追い出したのだが――ファティナはぎゅっとハンカチをにぎりしめてメアリに謝り倒した。

「ごめんなさい。女史には何と言えばいいか……」

「奥様が謝ることではありませんし、あの――愛情とかもう本当に欠片もありませんので、結婚など無いと理解してくださればそれで結構ですから」

「でも、ヴァルファム様は女史に求婚なさったのでしょう? なんと不誠実なのでしょうっ。もう本当に酷いことです。結婚はとても神聖で素晴らしいことだというのにっ。ああ、でも、女史。ヴァルファム様は時々ちょっとおこりんぼうですけれど、本当は優しい素晴らしい方なんです。今回は少しばかり誠実さが足りなかったかもしれませんけれど、どうか許してさしあげて下さいな。わたくしの旦那様のようにきっと素晴らしい旦那様になりますから」

 ファティナが泣きそうな顔で義息のことを擁護するが、メアリは内心でいちいち突っ込みを入れてしまった。

――ファティナ様にだけ優しいのです。

――旦那様に似たら相当駄目だと思います。

決して言葉には出せない本心だった。


 一人必死になっている女主を前に、メアリは包帯の巻かれた腕を軽く撫でながら苦笑した。

「今はそれどころではないと思いますけれど」

「……そうでしたわね? いえ、あの……どちらも大事なことだと思いますわ。女性にとって結婚は一大事ですし。ああ、でも怪我もっ。痛くはありませんか? ヴァルファム様の花嫁様の為に今部屋を用意しておりましたの。そちらにうつられて、しばらくは安静にしていて下さいね」

 痛みより熱さを感じていた腕は、今は塗られた薬と、医師に処方してもらった飲み薬のおかげでひりひりとしたわずかな痺れのようなものがあるだけだ。

「怪我は浅いようですから、残らないと医師もおっしゃっておられましたし、むしろ奥様に何かあるよりずっといいです」

――心が。

 自分と一緒にいる時に女主に何かあれば、それこそ自分が許せなかっただろう。そんな後悔を背負うのであれば、自分が怪我をしたほうが絶対にマシだ。

 むしろ晴れやかにそう思うが、怪我をしていないファティナは同じようにきっと心を痛めているのだろう。

――守られることも辛い。


「部屋をかえたりあまり気をつかったりしないで下さい」

「でも……」

「でしたら、一つだけお願いをきいて頂いてよろしいですか?」

 泣きそうな顔の女主に、メアリはにっこりと微笑みかけた。

「まぁっ、はい。どんなことでもおっしゃって下さい」


「計算式のプリント、十枚。真面目にやって下さい」


 ファティナは好奇心も強いし、勉強は決して嫌いでは無い。だが、計算は激しく苦手だった。言われた言葉にぴしりと固まり、つつつっと視線をそらそうとする。

「少なくとも三日程度はわたくしも勉強のお手伝いができません。ですので、宿題はたっぷり出しますからきちんとやって下さいね?」

「……はい」


 悲しそうな顔をしているが、先ほどまでの罪悪感に塗られた顔よりずっといい。


メアリは晴れ晴れとした気持ちで、だがふっと――あの女のことを考えた。

エイリクの母親だと言い張った女を。


***


「アヘンチンキの多量摂取ですね」

医師の診断にヴァルファムは苦いものを飲むような顔をした。

「一般的には鎮静剤などに使用されますが、ご存知の通りアヘンチンキは阿片、モルヒネなどを主材料にして造られる水溶薬剤です。多量に摂取することによっておこる副作用は眩暈錯乱、混乱、妄想。これらの症状により誤った行動を起こしたのではないかと――今回はかろうじて留まりましたが、もう少し多く摂取していれば最悪は死をも……」

「もういい」

 相手の言葉をさえぎり、ヴァルファムは片手を払うと執務室の机の前で青ざめて立つ少年を見返した。

「エイリク」

 低い呼びかけに、少年の細い肩がびくりと反応する。

「おまえが主だ。どうする?」

 自分の使用人の裁可をゆだねられ、エイリクは喉を上下させた。

突然呼び出されて叩きつけられた現実は、十一の少年には重過ぎるものだった。

自らを育て上げた乳母が、誰かに刃を向けるなど考えたこともなかった。

 そして、その引き金が自分であることは間違いようもない。錯乱した乳母は、今は一室に閉じ込められ下男達が見ているが、落ち着いたり喚いたりをまだ繰り返している。

 

「おまえが決断できぬのであれば私が裁可を下す。ここは私の家で――言った筈だな? 私の家人に危害があるのであれば……」

「ジゼリは、連れて帰ります」

 エイリクはぐっと手を握り締めた。

「警邏隊に委ねることだけは御寛恕下さい。ぼくが、ヒースに連れて帰ります。もう二度と義母さまの前にジゼリが立つことはありません」

 きっぱりと言い切るエイリクに、ヴァルファムは薄い笑みを浮かべた。

「早々に出て行け」

「はい――あの、義母さまは……大丈夫でしょうか?」

「怪我をしたのは家庭教師だけだそうだ。もし義母うえが怪我をしていたら、その女は即刻監獄行きにしてやるし、おまえは騎士はおろか神職に叩き込んでる。感謝するのだな」


 冷淡に言う兄の言葉に、エイリクはうなだれるようにしてこくりとうなずいた。






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