第一話 異世界転生とリーナ
早朝、空を行く鳥の声で目覚めた私は、むにっという感触に驚いて布団をめくった。
布団の中には、すやすやと寝息をたてる女の子……私の旅についてきたリーナが、猫耳をピクピクとさせている。
一人で寝たはずなのに、リーナはどうしてこんなところにいるのだろう。
「こら。自分のベッドに戻りなさい」
私がそう言うと、リーナは「ううん……」と寝ぼけた声をあげた。
ベッドに座って、目をこすっている。パジャマのシャツは着ているが、ズボンは履いていない。
「男の人のベッドに入るものじゃないよ。それは、夜這いのようなものなんだから」
寝起きのリーナは、頬をぷっくりとふくらませて、唇をとがらせた。
「だって、あったかかったんだもん。……おはよ、ミト」
「おはよう」
私の元いた世界のように暖房があるわけではないから、寒いというのはうなずける。
だとしても、これはセクシャル・ハラスメントに当たるだろう。パーソナル・スペースの侵害だ。
パジャマの第二ボタンまで外したリーナの胸元が、てかてかと光っている。
そういえばこういうアニメ、元いた世界で見たことがあったっけな……と、私はぼんやりと思い出していた。
***
話はさかのぼる。
私はスーツを着て、満員電車に乗り、ぐったりと電車に揺られていた。
スーツのタイトスカートは窮屈だけれど、満員電車で足を開いて立っていたら、痴漢が脚を割り込ませてくることだってある。
私は会社の人事課に所属しているから、セクハラだとか、パワハラだとか、コンプライアンスだとかいうことには、おそらく人一倍敏感な質である。
吊り革につかまっていた私の視線が、ふと、電車のドア付近に立っている女性に向かった。
うつむいて震えている。よく見ると、隣に立っている男性が、女性の肩から胸のあたりに顔を寄せている。眠っているふりをしているが、目が真剣だ。
痴漢だ──。
電車が駅に止まる。幸いというかなんというか、私はちょうどこの駅で降りる。
電車のドアに近づいて、そっと女性に聞いてみた。
「すみません、痴漢されてませんか?」
押し流すような人の波が、その一言で止まる。女性は目に涙をためて、こくんと小さくうなずいた。
「痴漢? それは大変だ! ……え? 僕? 僕は寝てただけで……」
「駅員さんを呼びましょうか」
「……ふっざけんなよ!! やってねぇって言ってんだろうがよ!」
私たちに怒声を浴びせた痴漢が、電車のドアから走り出た。追いかける。スーツのタイトスカートも、パンプスも走りづらい。
「寝てて、うっかり当たっちゃっただけだって言っただろ!!」
追いかける私を、痴漢が突き飛ばす。
「あっ……」
ぐらりと私の身体が揺れる。なんとか踏みとどまろうと足に力を入れるが、パンプスの細いかかとが、ぐんにゃりと曲がった。
パンプスには、慣れたはずだったんだけどな──。
バランスを崩した私は、線路に転落した。電車が滑り込んでくる。
私が最期に聞いたのは、電車の急ブレーキの音と、ファーンというクラクションだった。
***
こうして私は、元いた世界で死んでしまったようだ。
身体に衝撃が走って、目が覚めたら、奇妙な世界にいた。
これまでも寝ているときに、たまにベッドの上に落下したような感覚で目覚めることがあったけれど、それに近い。
木材の素朴な形を活かしたベッド。レンガを組んだ暖炉。窓の向こうからは、馬のいななきが聞こえてくる。
ログハウスのような造りの部屋で、私はのそのそと起き上がった。
「ここ、どこ?」
「あ、目が覚めた! 私はリーナ。あなた、倒れてたんだよ」
リーナと名乗る少女の頭には、猫のような耳がついている。私の返答を待つように、ぴこぴこと猫耳が小さく動く。カチューシャではなく、ちゃんと頭から生えているらしい。
「猫耳」
「なーに?」
きょとんとしているリーナの背中で、長いしっぽがふにゃりと動いた。
「……猫耳としっぽ、本物?」
「本物? どういうこと?」
質問の意味がわからないとばかりに首をかしげるリーナに、私は「あ、これ本物なんだな」と、うっすら察した。
立ち上がって、窓のカーテンを開けてみる。窓の向こうを馬車が通り過ぎていった。
市場がある。シチューのルウのパッケージに載っているような服装の女性たちが、談笑しながら歩いて行く。
まるでテーマパークのような街並みに、私は絶句して、ただ瞬きをくり返すだけだ。
──ああ、こういうの、子供の頃にアニメで見たことあったな。
どうやら私は、異世界に転移してしまったらしかった。
***
リーナの猫耳や、あたりの様子に驚いて気が付かなかったけれど、私の性別は変わっていた。
元いた世界では女性だったはずなのに、この異世界では男性になっている。
私はこわごわと自分の身体を見た。見慣れない。
とはいえ、トイレに行かないなんてことも当然できないので、毎回こわごわである。正直、トイレに行くのがおっかない。
「セクシャル・ハラスメントに該当するかなぁ、これ……」
私はトイレを出て手を洗い、鏡に映った自分の頭についた寝癖をなおし、ついでに顔を洗った。
男性になって楽になったのは、特に化粧をしなくても、とやかく言われないことだ。
女性であったときも、あまり念入りには化粧をしない方だったけれど、手入れはしていた。
「ねーぇ! ミト、まーだー?」
ドアの外からリーナの声が聞こえてくる。トイレを使いたいのかもしれないと、私があわててカーテンをめくると、リーナは機嫌がいい猫のように目を細めて、私の腕に頬をすり寄せた。
「トイレ、使うんじゃなかったの?」
「違うよ。ミトのこと、待ってたんだよ」
リーナはひくひくと鼻を動かすと、私の匂いを嗅いだ。
トイレに行った直後に匂いを嗅がれるなんて、たまったものじゃない。
私はリーナからそっと距離をとって、部屋に戻った。
「もうー! つれないんだから!」
この世界の女性たちの距離感の近さには、面食らう。




