14-1.侵入者達は動き出す
肌に感じるのは固く冷たい石の感触。
鼻に入るのは埃と汗と錆びたような臭い。
瞼を持ち上げると、うまく焦点の合わない視界に格子窓から月光が差し込み、ちらちらと塵が舞うのが見えた。
全力疾走を数度繰り返した後のような倦怠感に、頭痛。僅かな吐き気もする。
目を擦ろうとしたツキツキは、自分の両手が繋がったままである事に気付いた。左手にしっかりと握りしめあった大きく厚い掌は吉備北先生のものだ。その向こう隣で彼と手を繋いだままの與野木も同様に意識が無い。
掌をすぼめながらぐいぐいと引っ張り、幾重にも巻いた髪留めゴム(ただのゴムだとうっ血するため、伸びが良く外しやすいこれがいいのだと教わった)から左手を抜き、ツキツキはふう、と息を吐いた。
(……七村、吉備北先生と手を繋いじゃってごめん。だって、與野木君と繋ぐわけにもいかないし)
心の中で友人に詫びを入れつつ、どうやら與野木の推察通り藤岡隆二のいる場所に移動できた事にホッとする。今頃現実世界では、手をぐるぐる巻きにして繋いだ状態で四人並んで眠っているはずだ。
「……上、村、さ」
掠れ声に、ツキツキは繋がったままの右隣を見上げ――、息を呑んだ。
藤岡隆二は木と石と歯車でできた拷問道具に身体を挟まれる格好で座っていた。くの字に折れ曲がった背には重石が乗り、右腕の先は歯車と縄で下げられた円柱の重い石同士の中で潰れている。円柱の下には小さな管が伸びていて、その下に置かれた金色の酒杯の中にぽたり、ぽたり、と血が滴っていた。
「藤――!」
悲鳴をあげかけ、慌ててツキツキは左手で口を押さえた。今ここで大声を出しては駄目だ。事前に状況を聞き知り、覚悟を決めてきたばかりではないか。
――だがそれにしても、藤岡の姿は見るに堪えない状態であった。
「……待っててください。今、助けます」
ツキツキは震える声で告げると、急いで藤岡の左手首(指先は親指以外無かった)を掴んだ自分の手からぐるぐるに巻いたゴムを解いた。だが、拷問具を解除しようとしたものの、どうすればいいのか分からない。そもそも見るからに重そうな器具を自分一人で動かせるのだろうか。
「吉備……起こし、くだ……」
「あ、そうですね、先生達を起こします!」
慌ててツキツキは床に伏したままの二人を揺すり起こそうとした。
だが、身体を揺すろうがぺちぺちと頬を叩こうが、二人はこんこんと眠ったまま微動だにしない。
さて、どうしたものかと思案した挙句、ツキツキは吉備北の耳に唇を寄せ、囁いてみた。
「先生、起きないと七村に先生と手を繋いだって、バラしますよー」
途端に、吉備北の瞼がぴくりと動いた。
「っつー……」
片手で額を押さえながら吉備北が呻く向こうで、與野木は口元を押さえてうずくまっている。異世界に行き慣れているツキツキでさえ気分が悪くなったのだ。二人共、転送による副作用はかなりのものだろう。
「先生、藤岡さんが……」
ツキツキの言葉に、吉備北の目が拷問器具に潰された藤岡を認めた。
「……酷ぇな」
顔を歪めて呟くと、吉備北は近寄り拷問器具を調べ始めた。
「吉備……違……左…………歯車、横レバー、上げて……」
藤岡の指示により、吉備北は顔を真っ赤にさせながらぎりぎりとレバーを両手で押し戻していった。少しずつ噛み合っていた円柱の巨大な石がず、ずず……と浮き上がっていく。ツキツキは隙間ができた石の合間から藤岡の右腕を掴んで引き抜いた。呻き声と共にずるりと出てきた手の先は赤黒く潰れた肉塊となっていて、ツキツキは血の気が引きそうな衝撃を、ぎゅっと目を閉じ何とか耐えた。錆びた生々しい血の匂いに、拷問にあっていた藤岡の苦しみを想像して、目頭が熱くなる。
『あなたはもう、私達に関わらない方がいい』
そんな台詞、自分には絶対に無理だ。一刻も早く助けに来て欲しいと願い、呼びつけるのが普通だろうに。
ばちん、ばちん、と音を立て、バネにも似た器具が外れる音がした。
「上村、與野木っ、今のうち、藤岡の身体、出せ……っ!」
汗をだらだら流しながら、切羽詰まった声で吉備北が呼んだ。慌てて二人は駆け寄ると、後ろから藤岡の腰を掴み、掛け声と共に力一杯引っぱった。藤岡の身体が抜け出るのと同時に、ずぅん……と重石が落ちた。
「……なんっつう重さだ……頭痛吹っ飛んだわ……」
はあっ、はあっ、と息を切らす吉備北に、
「簡単に解除できないよう、数人がかりで仕掛ける器具ですからね……ありがとうございます……助かりました」
床に転がったまま藤岡が答えた。ツキツキは屈みこむと、藤岡の腰をさすりながら、少しずつ強張った肉がほぐれるよう手伝った。藤岡の顔は青白く、脂汗で張り付いた髪の合間に見える目の下のクマは黒々と深い。
餘野木がミニサイズボトルのスポーツドリンクにストローを挿し、藤岡の口に咥えさせる。
「上村さん、これ鎮痛薬とこっちは気休めだけど鉄剤。いけそうならエネルギー飲料も少しでいいから含ませてあげて」
錠剤とゼリーパックをツキツキの傍に置くと、與野木は藤岡の潰れた手を調べだした。
「……藤岡さん、前もって相談した通り、最低限の処置だけしておきますね」
與野木はビニールパックに入った救急セットを取り出すと、潰れた手の先に大判のガーゼを折ったものを数枚覆い、その上に油紙を乗せた。手周りの血を拭いサージカルテープでいくつも留め、清潔な包帯でその上を圧迫するように強く巻いていく。いったん端を結び終えると今度は銀色のクッション剤の中から取り出した凍ったゲル保冷剤を手拭いで覆い、包帯の上に乗せもう一度巻き付けていった。
「……本当は固定しない方がいいんです。止血したうえ冷やしてしまうと血が通えないため肉が腐る恐れが出てきますから。今の状況では仕方ないですから、時々包帯を緩めて保冷剤を外しながら調整していきましょう」
「……あなたは、しっかりされた方ですね」
「以前、講座で緊急時の処置法を習った事があるだけです。止血とアイシングぐらいしかできないんですけれど」
「……いや、助かりました。ありがとう」
藤岡は錠剤を飲み下すと、弱弱しく微笑んだ。
「先生ー、そっちはどう?」
「ちょい待て……やべぇな、思っていたより重いぞこれ」
吉備北は長刃の大鋏を扉向こうに差し入れ、外付けの閂を少しずつずらそうとしていた。
拷問具が一人で解除する事は不可能な仕組みなため、入り口に番人など立っていない。そもそも、今の平穏な僧院ではよほどの事が無い限り拷問など執り行わない。ここにある器具も藤岡曰く、もともと大昔のものを放置してあるだけだったそうだ。
「……どうやらこの調子では一晩かかるかもしれませんね。
仕方ありません、外から開けましょう」
「? どうやってだ」
藤岡はよろけつつ立ち上がると、腰が少し曲がった状態のまま扉まで近付き、扉の隙間に口を付けた。
「ぎゃあああああっ!」
「おいぃっ!?」
いきなりあがった悲鳴に、吉備北は目を見開き藤岡の頭を叩いた。
「仕方ないでしょう。ピッキングするならともなく、こんな原始的な鉄製の閂じゃ時間の無い私達では間に合いませんよ。
大丈夫、平和な夜の僧院など、不意打ちを狙っていけば何とかなりますって」
「お前……結構行き当たりばったりな男だよな……」
「そうやって生き延びてきたんですよ。
では、実戦練習といきましょう。準備はいいですか?」
慌てて三人はそれぞれの武器を拾いに行った。
夜警室にいた五人の僧は、聞こえてきた悲鳴に読んでいた書から顔を上げた。
戦争も無く平穏な今、僧院内の外は番兵が守っているうえ、そもそもレナーニャ教の中心地であるこの場所で僧院を襲おうとする輩など皆無に等しい。それでも、夜になれば担当の僧達で手分けして一夜に二度の院内見回りを行う事が決まりとなっていた。
「――おい、今の声は何だ?」
「拷問室の方からですね……」
「……ああ。あの男か」
ついに発狂しだしたかと、僧達は眉をひそめて顔を見合わせた。
彼は自分達が知らぬ間にここに連れてこられ、賓客と同等の扱いで監視されていたのだという。外部に存在を漏らさぬよう上層部間で言い渡されていたらしいのだが、先日デペ・ガスタル将軍が僧院を訪れたかと思うと、いきなり拷問室へと引きずっていくのを大勢の僧達が目撃した。何でも将軍の妻であるヨジェリアン・タタールの弟であったらしいが、何故身内である筈の彼がそのような目に遭うのかは分からない。おそらくは将軍の妻が消息不明な件と関係があるのだろう。
「ちょっと様子を見てきます。何度も騒ぐようであれば上に報告する必要がありますね」
年若い僧が立ち上がり、もう一人もそれに倣った。
提灯と壁に立てかけていたスタラト棒を手にすると、僧達は夜警室を出た。レナーニャ僧達は皆この朱塗りの武具を使い日々鍛錬をしている。その為、使い慣れた棒を夜警時にいつでも使えるよう持ち歩くのが常だ。
夜中の僧院は人で溢れるヨルダムのどこよりも静かで美しい。他の僧達は今頃皆別館でぐっすりと眠っていることだろう。外廊下を歩けば月明かりが広い中庭を照らしだし、虫々が奏でる恋の音が暗い緑の重ねを揺らす。
「どうかされましたか」
拷問室に着くと、僧達は慎重に外から尋ねてみた。
「……た、助けて……木枠が、折れ、首……ぐぶぅ」
弱弱しい声は途中で止まり、カエルの鳴き声にも似た声がした。
拷問室の器具は古い物ばかりである。一部が腐っていてもおかしくない。
デペ将軍に処遇は任せているものの、もとは僧院が連れてきた男だ。ここで事故にでもあって死なれてしまっては困る。
僧達は慌てて閂を外すと中に踏み込んだ。途端に、足元をすくわれ転倒する。
バリバリバリ! 痺れと衝撃が一斉に彼らを襲い、叫ぼうと口を開いた瞬間、一人はみぞおちを思いきり蹴られ、もう一人は、ごーん! と頭部に凄まじい音を立てながら気絶した。
「おお……」
「やったぁ……」
強力スタンガンを持った吉備北と與野木、足攻撃にダメージが入りやすいよう改造を加えた軍靴の藤岡、鉄製の大きな中華鍋を両手で抱えたツキツキは小声で初勝利を喜び合い、ハイタッチの真似事をした。
彼らはこの世界に飛ぶ前より既に防具の準備を済ませていた。各々ミリタリーショップにて見繕ってきた分厚い防護ベストや肘・膝あて、頭部にはゴーグル付きのヘルメットを装備し、藤岡以外は先程手袋を装着したばかりである。
「俺ら……どう見てもサバゲーチームだな」
吉備北が四人の恰好を眺めながら呟く。だが彼が手にしている武器はリーチが長めのバールだ。
「まあ、僕なんかどう見ても完全にそうですしね」
與野木は玉の出力威力の強いエアガンを装備している。リュックにはちょこちょこと日本の小道具が詰まっていて、まるで青いネコ型ロボットのような頼もしさがある。
「それ言ったらあたしなんかどうなるのー!」
巨大中華鍋を抱えたツキツキが叫ぶ。彼女の大きなウエストポーチにはたくさんのポケットが膨らんでいる。
三人とも、それぞれスタンガンをサブウエポンとして持参だ。
「……本当に、申し訳ありません。命に係わるような事に巻き込んでしまって。
私が刀をふるえたら良かったのですが」
右手の肘下から包帯でぐるぐる巻きになった藤岡が、寂しげな顔で呟いた。
「一人で抱え込むんじゃねえよ。乗りかかった船だ」
吉備北は藤岡の肩を叩くと、ツキツキ達に向き直った。
「いいか、俺達の今回の目的は二つ。
一つ、藤岡の嫁さんを探し出すこと。
一つ、全員でここから脱出すること。
危なくなったらどんな手をつかってもいいから戦わずに逃げろ。特に上村、お前は絶対だ。俺と與野木はお前らが起きたら元に戻るみたいだが、お前がこの世界で怪我するとこっちじゃずっとそのまんまだからな」
「はい」
「うし! それじゃ行くぞ!」
「吉備。何だかいきいきしてませんか」
「んなわけあるか!」
布ガムテープで口を塞ぎ、手足を後ろに縛った僧達を閉じこめて閂をかけ終えると、四人は揃って忍び足で出発した。




