10-3.少年僧は見破られる
あらかじめ予想はしていたものの、ヨルダムはこれまで訪れたオアシスとは比べ物にならないほど巨大な都であった。
視界の端まで建物が並び、隙間植わる緑の木々が街に日陰と涼しさを作る。昼間であろうと大勢の人がせわしなく通りを行き交っては霞混じりの喧騒を作る。日除け用の頭布屋には透かしや刺繍入りといった薄く凝ったものが多い。菓子を揚げる甘い油や肉の茹で汁の匂いに交じり、癖ある香水が流れ込んで溶けるより先に鼻を刺す。
ハープを小さくしたものに似た弦楽器を売る店先では店主がつま弾き客を寄せ、その向かいでは色鮮やかなオウムがひっきりなしにお喋りする。
文明で言えば元の世界が確かに洗練されている。それでもわくわくするような都特有の活気ぶりに、ツキツキは手を引かれながらもせわしなく首を動かしていた。ラクダと積み荷は預かり所にてヨンが前金を払っている。
「あそこに小さく見えている屋根が、レナーニャ大僧院だ」
ヨンが指した方角にツキツキはじっと目を凝らす。ヨンとワジによるヨルダム語授業のおかげで、今では日常会話であれば可能なまでになっていた。
何せ元いた世界とは受講態度の本気度が違う。言葉は社会で生き抜くために必要不可欠なものであり、独りの際の命綱だ。ツキツキのこれまでの人生の中で、今が最も勉強している。おかげで聞き取りに関しては大抵の意味合いが理解できた。
大僧院を目指して歩き続けて暫く、ようやく全貌が分かる位置までやって来た。
「すご……」
あんぐりと口を開いたまま、ツキツキはしばし固まった。彼女がこれまでの人生で見てきたどの建物よりも、レナーニャ大僧院は巨大であり独特な建築様式であったのだ。
陽光にきらきらと光る真っ白な高壁には不思議と染みも汚れも無く、波のように高低差を持つ。丸みある傘屋根は滑るにつれて水飛沫のように広がり、不規則に生えるその内側には絵とも文字ともつかないものが藍色の線で描かれていた。
「経典に出てくる教えを視覚化したものです」
ワジが隣で教えてくれる。大きく開いた大門の奥で蝶が飛び交うのがちらりと見えた。
この中に、ツキツキの通う高校が一体いくつ入るのだろう。
「素晴らしいですね……」
隣でワジが呟いた。彼も大僧院に訪れるのは初めてのことらしい。この聖なる地はレナーニャ僧のみならず、国全体における憧れの象徴なのだという。
「砂と日射による色褪せや摩耗が見当たらない。かなり頻繁に補修作業を繰り返してるね」
ヨンの言葉に全体を見れば、確かに壁を塗り直しているの姿が見えた。
「まだ中には入らないでおこう。
せっかくヨルダムに来たんだ。今日一日くらいゆっくりと観光しても、ばちは当たらないさ」
雇い側であるワジも了承したため、その後は三人で連れ立っていろんな店を覗いた。ツキツキは大喜びで工芸品の店を覗いたり、菓子や料理をつまんだり、歌劇場に入って音や踊りを楽しんだ。
「たのしいね、ヨン!」
「ああ」
「たのしいね、ワジ!」
「……そうですね」
ワジの顔色は優れなかった。
手頃な宿にて荷物を置くと、ヨンはいつものように自主鍛錬に出た。ツキツキとワジもいつものように言葉の勉強をしていたが、ふいにワジはあらたまった調子で目の前の少女に向き直った。
「ツキツキさん。これからもしっかり勉学に励まれてください」
「はい」
書き取りを止めて顔を上げ、いつもと同じ調子でツキツキは返す。
「間違えていれば、訂正は早めに。とにかくヨルダム語で会話をすることです。
……今まで大変楽しかったです」
ワジは腕に付けていた細い金属製の装飾輪の一つを外した。
「もしよろしければ、これを」
「あたしに?」
「はい。本当は土産屋で何かを購入しようと思っていたのですが、迷っているうちに何も買えずに終わりました。たいした品ではありませんが」
外した輪をワジは自身の衣で拭った。汚れを拭き取ると細かな傷が入っているものの、光沢が戻り表面に彫られた紋様がよく見える。
「守りのまじないが彫られています。これからもあなたがその明るい笑顔を絶やさずにいられますように」
言いながら、ワジはツキツキの腕に腕輪を通した。が、あまりにもぶかぶかでするりと抜けてしまう。これでは身につけることはできない。
二人で思案した挙句ツキツキの足首に腕輪を通してみたところ、今度はあつらえたようにうまく収まった。
「ワジ、ありがとう!」
にこにこして足首を眺めるツキツキをワジは黙って見ていた。
水源の豊富なオアシスのありがたさは風呂にでる。三人が泊まった宿は豪華ではないものの共同浴場がついていた。
「うわあっ、ちゃんとしたおふろって、はじめて!」
浴場があると知りツキツキは飛び上がって喜んだ。
「先にゆっくり入ってくるといい。私は荷物の番をしている」
「ありがとう!」
いそいそと支度をしてツキツキ出て行き、宿の部屋にはヨンとワジが残った。明るい少女が消えてしまうと、しん、と静かになってしまう。
「いよいよ明日ですね」
「そうだな」
「今までお世話になりました。あの、よろしければ明日は僧院にて歓迎の式がありますので、ヨン殿にも参加していただければと――」
「ワジェライル」
ぴくり、とワジは反応した。
緑の相貌が、こちらを見ている。
「今は無き隣国であったヨジェリア王国の第一王子、ワジェライル殿下。生きていればあんたと同じくらいの年だ」
「そう……ですか」
「よく似ているよ」
元々言葉数の多い女性ではない。
だが。いや、だからだろう。彼女の澄んだ緑の瞳は何もかも見透かしているようで、ひやりとする。
「あんたはワジェライル殿下として僧院に入るんだろう」
ヨンは単刀直入に尋ねた。
「……突然どうされたのですか。そのような訳の分からない事を仰られて」
「シラを切らなくていい、大方私の予測通りの筈だよ。
あんたがヨジェリア国の生き残りの王子として僧院に捕らわれていること、運び屋が守る荷物が本当は物ではなくあんたの身柄だということ、そして、私を僧院に連れ込み幽閉する為の協力を命じられていること」
「あなたの仰っている事の意味が、私には」
「では明朝僧院にて全てを直接僧正に尋ねるとしよう」
途端にワジはうろたえだした。
「お、お待ちください。それは……!」
「話されるのが嫌ならば、認める事だ」
「…………王子なのは、認めます」
不承不承といった様子でワジは頷いた。
「あなたの仰る通り、私は今は無きヨジェリア王国の第一王子、ワジェライルです。
ですが、決して事を大きくしたくありません。この事は内密にしていただけませんでしょうか」
「そうか。あんたはワジェライルか」
「はい」
「ならば覚えている筈だ。私の名を言ってみろ」
頭から日除けの巻き布を取り去ると、運び屋の女はワジの前に立った。箒のように広がった錆色の髪がばさばさと肩に落ちる。
言われた事の意味が分からず、ワジは女を見返した。
「あの、どういう意味で……」
「ワジ。お前が本物の王子ならば出会い頭ですぐに気付き、私は平伏していただろう。いくら顔立ちが似ていようとも生まれ持った気品とは選ばれた者の証となる。
だがお前にはそれがない。
ヨジェリアン・タタールの名を聞いたことぐらいあるだろう、影児よ」
ワジの目がビキリ、と開いたまま固まった。
国の名を持つ高潔な女将軍の話は有名だ。長い赤髪をなびかせながら先陣を切るその様に、後に続いた兵達の士気は大いに高まり勝ちを得たという。
そう、聞いてはいた。
だが本人の顔を覚えるより先に、あの夜がきてしまったのだ。
あっという間に首を掴まれ喉笛に指を押し当てられる。首を持ち上げるようにしてじわじわと力をかけられ、ワジは息ができずに縮こまってもがいた。
「――正体を明かしたからにはもう分かっている筈だ」
少年の気道が楽になる。激しく咳き込む背を見下ろし、亡国の将軍は淡々と告げた。
「お前が従うべき相手は教団ではない。
私だ」




