10-1.オアシスでのひととき
『そうか……リュージンは元気にしていたか』
ツキツキの報告を聞き終え、ヨンは僅かに安堵した表情を見せた。
午睡を終え、身体を拭ってさっぱりし、今は二人連れ立って市場へと買い出しに向かうところだった。ワジは一人部屋に残り、読経に勤しんでいる。
オアシス滞在中の午睡後は、こうして女二人で街へ繰り出すのが習慣になっていた。異世界の少女がこちらの世界に早く馴染めるよう人前では日本語を禁止しヨルダム語を話すようにと、ヨンはツキツキに指導している。だが人通りのない道を歩いている今は、二人の会話は日本語だ。
『ねえ、ヨン。二人はいつ結婚したの? 何かきっかけがあったの?』
『何だい急に。向こうでリュージンが何か言っていたのかい?』
『告白したけど、全く振り向いてもらえなかった、って』
『……全くあいつは余計な事を』
呆れたような顔をしたものの、ヨンは素直に教えてくれた。
『簡単に言うと、根負けしたんだ』
『根負け?』
『あいつは城が焼け落ちる寸前に私を探しにやって来たんだ。
自分もボロボロだったくせに、生き残りを探していた私の身体を抱き上げて王宮から無理矢理連れ出した。いくら喚いても暴れても、あいつは安全域に避難するまで決して降ろしてはくれなかった。
抱えられている間、このまま自分の嫁にするって言われてね。婚礼の儀を終えたと言っても、関係ないの一点張り。
終いには押し倒された』
『えっ』
ぎょっとして見上げたツキツキを気にせず、ヨンは歩きながら続ける。
『それで、観念したんだ。ようやく気付けたんだよ。離れているその間に、自分もあいつを男として見るようになっていたんだって事にね。
私は一度死んだのだと、そう思うことにした。
ヨジェリアンという女は燃え盛る城と共に灰となり消えてしまった。これからは別の人間として生まれ変わり父達の行方を探し裏切り者達探し当て、そうして必ずこの手で討つと、そう誓ったんだ。
婚姻したばかりのデペ将軍には申し訳なかったが、まあ亡国の醜女、しかも勝手に飛び出した嫁だ。今頃すっかり忘れているだろうよ』
『リュージンさんって、凄く情熱的な人だったんだね……』
『全く。そこまでして私の何が良かったんだか』
ヨンはそう呟いたが、ツキツキは藤岡の気持ちが分かる気がした。
美人でなければ若くもないヨン。だが、彼女は時折目を惹きつけられるような華を見せる。例えるなら観賞用に磨き抜かれた宝石ではなく武骨な鉱物に潜む一片の煌めきである。
言葉も何も通じない世界に飛ばされてしまった少年は、どれだけ心細かったことだろう。
そんな彼の傍で、愛をもって育ててくれた煌めきを持つ少女。
少年が彼女に恋をしてしまったのも当然の流れだといえよう。
日差しが和らぎ始めた市場は活気が出始めていた。以前立ち寄ったザヤックよりも、ずっと大きいオアシス街だ。賑わいが全く違う。
ヨンは女物のヴェールで顔を覆い、ツキツキは少年の恰好で頭にはターバンを巻いていた。この方が何かあった際にツキツキが狙われる確率が低くなるのだと教わった。腕が立つとはいえ自ら面倒事に首を突っ込む事を、ヨンは極力避けていた。
物取りや人さらいに出くわしたら全力で逃げろ。
無理ならば大人しく捕まれ。必ず自分が助ける。
命のやり取りはするな。死ねばそこで終わりだ。
そう言い聞かせられてから、ツキツキはこちらの世界でも用心深く振る舞えるようになってきた。
勿論、優しく陽気な人々もたくさんいる。だがそれとは別に、人を物か虫けらのように扱う輩が潜むのもまた事実だ。
旅の少女は目を付けられやすい。それを防ぐ為の男装だった。小柄で薄い身体つきにショートカットなツキツキは少年の恰好がよく似合う。
日持ちのする食料と雑貨を買いながら、ツキツキは一つ一つの単語をヨンの台詞の後に復唱し、身体にヨルダム語を染み込ませた。何度間違えてしまってもヨンは淡々と繰り返してくれる。長年リュージンと言葉を教え合っていたことで、こうしたやり取りには慣れているのだろう。
乾いた風と掠れがかった極彩色の布や装身具に香辛料の香り、飛び交う言葉に旅装束の人々、ラクダ。慣れてくればこ光景は日本での日常とはかけ離れていて楽しい。
こちらでの人々が口にする肉はダチョウが主だ。暑さと乾燥に強く栄養価が高いダチョウは昔から主要な畜産物らしい。『ダチョウ卵で医者いらず』という言葉もあるそうで、チャスティというダチョウの溶き卵にパンを浸しながら食べる料理が有名だ。
(そういえばダチョウって、向こうでもオーストリッチとかいう皮製品に使われてるよね)
実に有能な動物だといえる。
海に関する品々は驚くほどに高く、そのほとんどが乾物だった。最初は不思議だったものの、電気が通っているわけでもなく冷蔵技術がない、そして流通手段に手間がかかるのであれば当たり前のことだ。ツキツキがこちらの世界で口にした海産物は、以前ワジが出してくれた小さな干物が一度きりだった。
(そうだ、今夜にでもツナ缶とサバ缶を持ってきてあげよう。ワジなんかは絶対食べた事ない味だよね、驚くだろうなあ! ヨンはリュージンさんが持ってきてくれてそう。後で訊いてみよっと)
考えながら、ツキツキはワクワクしてきた。
ヨンに言われた通り、日本の物はあれからノートとペンをいくつか持ち込んできただけに留めている。だが缶詰のようなささやかな消耗品であれば、特に不都合はないだろう。
そもそもヨンは自身の荷物に日本製品をたくさん入れている。砂漠を移動する間もコンパスや腕時計、それから計算機を使って計算する姿など手慣れたものだ。
(ああ、でもワジはレナーニャ教のお坊さんだった)
『気を付けて』
『彼の報告如何によっては、あなたもいずれ私と同じ運命を辿ってしまうかもしれない』
藤岡隆二の言葉が響く。
けれども、ツキツキはワジを信じていた。
彼はとても親切な人だ。たぶん、自分に兄がいたらあんな感じなのだろう。
優しくて、毎日言葉の授業をしてくれて、美味しいご飯も作ってくれる。
あと数日で目的地に到着し、そこで彼と別れてしまうのがツキツキは寂しかった。
ずっと、傍にいてほしい。
願いが少しずつ大きくなってきている事に、少女はまだ気付いていない。
買い出しが終わり宿に戻る。
食事をする前に軽く体を鍛えてくるとヨンが再び外に出たため、いつものように部屋にはワジとツキツキが残った。
「ツキツキさん、今のうちに少し学習をしておきましょうか」
「はい」
ツキツキはヨルダム語で返事をし、自分の荷袋を手に取るとワジの傍に寄った。
空き時間ができると、ワジはこうしてツキツキにこまめにヨルダム語を教えている。
おかげでたどたどしくではあるが、少女は簡単な日常会話ができるようになっていた。
ツキツキの手には薄い紙を一つに閉じた帳面があった。切断面が美しく紙面も滑らかで皺ひとつない品質だ。
それから、4色のインクが漏れずに軸が本体に収納されているペン。初めて使ってみた時はその素晴らしい書き心地と速乾性にワジは驚いた。
そんな高価そうな道具を差し出して「あげる」と言われた時には、うろたえたものだ。
「いや、このように高価な品はさすがに……」
上質紙は貴重品で特権階級しか買えない。
ワジが首を振って断ると、ツキツキは見るからにがっかりした顔をした。そうして授業の間もどんよりと沈んだままだったので、
「では……旅の間だけお借りします」
ワジはそう言ってこれらを受け取ったのだった。
「雨が降り、瓶に水が溜まります」
「あめがふり、か……たまり、ます」
「瓶に、水が」
「かめに、みずが」
「もう一度言ってみましょう。
『雨が降り、瓶に水が溜まります』
はい」
「雨がふり、かめに水がたまります」
「そうです! 今の発音は、とても素晴らしいですよ」
途端に、少女はぱあっと嬉しそうな顔になった。
(……サボテンの花のようだ)
自分でも色気の無い例えだと思うが、そもそも彼女の魅力とは性的なものとはほど遠いため仕方ない。
伸びやかで素直、思わず庇護したくなる雰囲気なのにも関わらず、逞しい。そこが面白い。
気付けば目で追ってしまう。
異性として見ないよう気をつけさえすれば、この風変わりな少女は共に過ごして楽しい相手であった。
ころころと表情を変えるのが本当に愛らしいのだ。
運び屋であるヨンは頼もしくはあるのだが、心安らぐ相手ではない。
慣れない道中において、ツキツキの存在は確実にワジの中で大きくなっていった。
そう、妹という存在は、きっとこのように愛おしいものであるのに違いない。
「ワジ、ありがとうございました」
一通り授業を終え、お辞儀をした後も離れようとしない少女に、ワジはノートに一緒に絵を描いて遊んでやった。二人を見立てた絵を描いて、それにいろんなものを描き加えながら、物語を作っていく。
時折声を立てて笑いつつ、少女は無邪気に寄り添ってくる。
もうすぐレナーニャ大僧院に着けば、この授業も終わりだ。
ワジは僧院にて勤めをすることになっている。
それはレナーニャ僧であれば誰もが願う名誉な事だ。
だから、この日々に終わりが来なければいいと思う自分は間違っている。




