6-2.運び屋は転送法を伝える
宿の部屋に戻り茶を飲ませると、ワジは荷物から板書用の木板と白墨入れを取り出した。
本当は紙を使いたかったが書写用紙は上質品だ。落書きに使うことはできない。
「ツキツキさん」
ワジは少女を手招きして呼び寄せた。
「これから時間がある時はヨルダム語を勉強していきましょう。簡単な日常会話程度であれば私でも教えられますから」
白墨を手にするとワジはするすると絵を描いた。幼い頃の彼は外に出る機会がなかったため、書室に積まれた図鑑の絵を模写することを趣味としていた。
尖った顎に鋭い目のほっそりした猫が生まれる。
「! ねこちゃん! にゃーにゃ」
ツキツキが隣で嬉しそうに覚えたての言葉を披露した。愛らしい声に合ってはいるが、やはり成人女性が使うには幼過ぎる言葉使いだ。
「これは『猫』です」
「えこ?」
「猫」
「ねえこ」
「猫」
「ねこ」
「そうです」
大きく頷くと、ツキツキは幾度も「ねこ」と復唱した。
そうやって先程覚えたばかりの幼児言葉をいくつも訂正していきながら、ワジは内心少女の学習態度に感心していた。奴隷という身分が沁みついた者には見受けられない、長年教育を受け慣れた者の礼儀正しさが備わっている。飲み込みもそこそこ早く、学びというものをあらかじめ理解しているのだろう。
(元の国では良家の娘さんだったのかもしれない)
そう推測してみれば、弱弱しい割に卑屈ではないところも、贅沢慣れした様子も、16という年齢の割に擦れていないところも理解できる。ぬくぬくと守られてきたために世間慣れしていないのだ。
見た目からもそのことは伺える。日焼けによる火傷が収まってみれば彼女は砂地と縁がなさそうな滑らかな肌をしていた。擦れる砂と陽光によるシミも無く、手足に働きダコや擦り傷もない。握った掌は柔らく汗ばみ、その触り心地の良さについ離すのを忘れてしまった。
顔立ちも最初こそ髪型のせいで少年だと思っていたが、よくよく見れば愛らしいつくりをしている。髪を伸ばして装飾品にヴェール、それから女性らしい衣装に着替えれば、きっと――。
ここでワジは妄想を止めた。
黙ってしまった自分をツキツキがじいっと見上げている。見返せば、茶を帯びた黒い瞳が好奇心に揺れ輝き、うっすら開いた唇から舌先が自分の名を象るのが見えた。
「今日はこのくらいにしておきましょう」
パタン、と黒板を伏せると意味が伝わったのだろう、ツキツキは姿勢を正し、
「ありがとお」
と深々とお辞儀をした。こうしたところにも教わり慣れた育ちの良さが伺える。
「ツキツキさん、『ありがとお』ではなく『ありがとう』です」
「ありがとう」
「はい」
拭き布をまるめたもので黒板を消しながら、ワジは僅かに眉間に皺を寄せていた。
――この雑念は、僧侶である自分が持ってはならないものだ。
彼女をチピタに見立ててしまい油断をした。あどけなくすがりつく様に、つい構わずにはいられなかった。
だが彼女は犬ではない。年頃の娘だ。
節度ある距離を保てと、ワジは己を強く戒めた。
ヨンが宿に戻ってくると、湯浴みを終えたばかりのツキツキが濡れた髪のまま飛んできた。
「ヨン、猫! 犬! 太陽! 月! 星……雲!」
『ああ、ワジからヨルダム語を教わったんだね』
『そうなの! ねえねえ、合ってる? 合ってる?』
『合ってるよ。なかなか悪くない発音だ』
『やったあ!』
嬉しそうにはしゃいだ後で、
『そういえば、この世界にはノートや鉛筆ってないのかな』
と、ツキツキはヨンに尋ねてみた。
『似たようなものはどちらもある。ただし、日本の紙質に最も近いものはかなり値が張るうえ平民階級は購入できない』
『ヨンが使っていたノートは日本製だよね?』
『ああ。リュージンが持ってきてくれたんだ』
ヨンは大きな布袋を持ってくると、そこから大学ノートを取り出した。中にはびっしりと日本語とイラスト、それから変わった模様がたくさん書かれている。この模様に見えるのがヨルダム語なのだろう。
『これ、リュージンさんが……?』
ツキツキは日本語で書かれた例文を指した。教科書の手本のような字で【今夜は月がよく見えます。】
と書かれている。
『そうだ。リュージンは辛抱強い男だったからね、私がニホン語をものにするまで二十年、毎日指導してくれた』
『どうやってこの世界にノートや教科書を持ち込んでいたの?』
『簡単だよ』
そう答えたものの、ヨンが続きを話すまでに少し間が空いた。
『ツキツキ、一つ忠告しておくよ。
ニホン世界にあるものをあまりこちらに持ち込まない方がいい。いや、持ち込むのは構わない。だがそれらを人前で使うことはやめておきな』
『どうして?』
『そうやって異世界の住人だとばれ、さらわれた者がいるからさ』
ヨンはノートに書かれた文字を指でなぞった。
『世の中にはね、利益になると踏めばどこまでも残虐で非道な事をする輩もいる。親切を平気で仇にして返すヤツもいる。
ニホンには便利なものがたくさんある。私はリュージンの持ってくるそれらを喜んで活用していった。例えば、これがそうだ』
荷袋からガショガショと音を立てて取り出されたのは、盗賊に襲われた時腰に付けていた分厚い鉄板だった。だが、それを渡されてよくよく見れば、
『これ……日本製だ』
細い細い金属をこよりのようにして編み込まれたそれは、工業用のワイヤーロープだった。先端が輪っか状に加工してあり、薄い金属を合わせた隙間にワイヤーロープがぐるぐると巻かれ、中央のボタンを押せば一瞬で巻き戻せるように作られている。
『私の武器の一つであり、探索道具でもある。非常に丈夫でしなやかで、使いやすい。
簡単にベルトに装着できるよう加工を施した。先端には用途により刃・鉄球・フック等を取り付けて使う』
……何をどうしてワイヤーロープを武器にしようという発想に繋がる。
感心半分、呆れ半分でツキツキが観察していると、ヨンは淡々と言葉を続けた。
『縄は切れるし脆い。鎖は重く使い辛い。その二つの欠点を補った上、一瞬で収納可能な異世界の道具。これ一つだけでも欲しがる輩がいるのが分かるだろう?
だからね、ツキツキ。自分の身を守るためにも異世界の道具は人前で使わず、ニホン語も極力控えておくことだ。既にリュージンという存在は極僅かだが国の人間に知られ、目の前で奪われた。
それを覚えて尚守れるというのなら、あんたに異世界の道具を持ち込む方法を教えよう』
ツキツキは祭りで出会った藤岡隆二の顔を思い出した。ひどく眠たげなクマの目立つ彼は、今この世界で一体どんな目に遭っているのだろうか。
『教えて、ヨン。守るから。
あたし、こっちの世界の事をもっとちゃんと勉強したい。だからノートとペンを持ち込みたい。
それにリュージンさんを助けるために必要な道具を、何か持ってこれるかもしれない』
ツキツキの言葉にヨンは頷いた。
『実際、何かと助かる力だ。教えておこう。なに、さっきも言ったが簡単な事だ。
向こうの世界から持っていきたいものを手に握りしめて眠ればいい。
寝ている途中で手が離れると消えてしまうが、一晩以上持ち込めばそのままこちらで使用可能となる。
だがいいかい、むやみやたらと使うんじゃないよ。
人は力を持つようになれば、必ずおごりがでてくるからね』




