変転/4
雨宮が起きる頃には、太陽は頂点に辿り着こうとしていた。
「……やっべ、寝過ごしたか?」
昼に起きた事、ではない。
昨夜、春香嬢と共に外に出歩かなかった事を言っているのだろう。
「なに、お前が居なくて春香嬢もせいせいしていたよ」
嘘だ。
しかし雨宮は何も追及せず「そっかい」とだけ言って立ち上がる。
これで、昨夜の事はすべて終りだ。真実を嘘偽りで塗り固め、見えなくしてしまう。
だが、それでいい。どうせ、雨宮だって自分の痴態に気づいている。
私はどうあっても無機物だ。
自分で動けなければ、乱雑に跳ね飛ばされた布団を戻してやる事も、塗れた枕を取り替えてやる事もできない。起きた瞬間それらの痕跡は目に入るし、自分がどうなっていたかくらい想像がつくだろう。
だが、私たちは気づかぬフリをして日常に回帰する。そうしていれば、一時的であろうとも忘れることは出来る。
「とりあえず、メシでも食うか。英気養って今日はお嬢ちゃんのために働いてやんねぇと」
折れ曲がった形状記憶合金が湯に浸かり戻るように――雨宮は軽薄な笑みを復元する。
違和感を全て誤魔化し、笑う。うそ臭くて、軽く、意味合いの薄い笑みを浮かべる。
ガリガリと頭を掻きながら廊下に出ると、使用人たちが妙に騒がしかった。
一瞬、昨夜の事が知れ渡っているのか、と胆を冷やしたが……どうやらそうではないらしい。
「どうしたんすか?」
言いながら、雨宮が声のする方に顔を突っ込んだ。
そこは食卓である。割烹着を着た使用人たちが、円卓に座る騎士のような面持ちで、真剣に机の上の物体に視線を送っていた。
「あ、いえ――春香お嬢様が、お忘れ物を」
見れば、それは弁当箱らしい。分厚く、大きい箱が二段重なっている。
少女のモノにしては大きすぎる気もしたが、ここ数日で見た春香嬢の戦いから考えれば、むしろ妥当な量な気がした。
「弁当を忘れるねェ、お嬢ちゃんも学生らしい事するんだな」
昔懐かしむように笑うが、使用人は「いえ」と首を左右に振った。
「普段はそんな事はないのですが――今朝のお嬢様は、少し考え事をしていたようで」
まあ学生時代は誰しも悩むものですけど、と使用人は笑う。しかし私は笑えない。今、あの娘がする考え事など、一つしか思い浮かばない。
「にゃるほろ。ンで、誰が持って行こうか、って算段?」
「ええ。ですが今、手が空いている子がいなくて」
ちらり、と窓の外に視線を送る。
それを追ってみると、土蔵から年代物らしい家具やら骨董品やらが続々と出されているのが見えた。
今まで何年も取り出した事が無かったのだろう、使用人たちは雑巾やはたきなどを使ってホコリを落とした後、それらを屋敷内に持ち込んでいる。
「苗さーん、これどこに持ってきますー?」
「あー、使ってない客室あったでしょ? そこにお願いねー」
指示を飛ばしながら他者の二倍近い効率で動きまわる古川苗を見て、ほんの少しばかり見直した。
彼女――
「あの人、ちゃんと仕事してんだな」
「――……失礼な奴だな、お前は」
まあ、その、なんだ。
私も似たような言葉を思い浮かべたワケではあるのだが、口には出さなかった分マシだと思いたい。
「旦那さまの命で、土蔵の整理をしているのです。わたくしたちも、そろそろ戻らなくては」
「なんだ? 某なんでも鑑定してくれる鑑定団でも来ンのか? 俺、田舎の金持ちが自信満々で偽物出すのが楽しみで楽しみで仕方なくて」
「ツボとかはまだ誰かが作った偽物なんですけど、掛け軸とか絵とかだったら印刷だったりしてマジ抱腹絶倒かつざまぁって感じですよね――ってそんな話じゃなくて! ええと、あの土蔵を旦那様とそのお客様が何かに使うらしくって――って、今はそれでもどうでもいい。弁当、お弁当なんですっ」
「知ってる知ってる」
言いながらひょい、と弁当箱を持ち上げる。
ついでに中を覗き込むと、可愛らしいサンドイッチが並んでいた。量さえ除けば、極めて女の子らしい食事と言えるだろう。
「あの……雨宮様?」
「お嬢ちゃんの学校にゃ、一度行った事があんだ。暇してる俺が一番適任だべ? ついでに、俺が走りゃ今ここで多少ダベっても余裕で間に合うかンな」
一応考えて喋ってるんだぜ、とドヤ顔で歯を輝かせるが魅力的には見えない。私が使用人なら頬と拳の接触事故を起こしているだろう。
「そんな、お客様にそんな事をさせたら――」
「あのおっさん、そんな事で怒らねぇと思うけどなぁ。まあ、なんか言われたら昨日サボった埋め合わせって言っといてくれ」
◇
学校は適度な静寂で満たされていた。
別に、無人というわけではない。今は授業中であり、休み時間か体育のように外に出る科目でもないかぎり、校門辺りまで声が届く事はあまりないのだ。
無論、校庭を半ばまで歩くと僅かに教師の声や、自習をしているのか隣のクラスの教師に怒られない程度に騒ぐ生徒の声などが聞こえてくる。
校門を横切り、事務室へ向かう。途中、校舎を見上げると、こちらを覗いて「あれ誰だろう」と噂しているような生徒が見える。
「注目に応えて芸の一つでもするべきかね?」
「やりたければやるがいい、不審者扱いで捕まると思うが」
「あー、それじゃあ刀を使った即席ポールダンスは却下か」
捕まらなくても却下だ! と叫びたかったのだが校舎内に入ったため口をつぐむ。
事務員から不審者扱い九割の視線を浴びながらも、時雨崎家の名を出しなんとか入れてもらう。
「……あのおばちゃん、なんかあったら速攻110押しますよって顔に書いてあったんだが」
「人は外見で他人を判断するからな、仕方がない。人は内面にこそ真実があるのだがな」
小声でフォローを入れると、目に見えて表情が明るくなった。
「だよな! だわな! そうっすよね!」
「まあ、内面が滲み出たのが外見だという意見もあるがな」
「お前慰めてェのか貶めてェのかどっちだ!」
「すまん、本音が漏れた」
畜生、畜生、とボヤきながら雨宮はぐるりと辺りを見渡した。
内部は標準的な高等学校である。今は授業中のために生徒は出歩いておらず、灰色の無機質さ酷く目立った。
そんな光景をどこか懐かしむように見つめる雨宮の瞳には、どのような映像が映し出されているのだろうか。
「む、お前は……」
そんな雨宮を、ジャージ姿の男が見咎める。先日、雨宮と会った体育教師だ。
雨宮は一瞬身構えるように後退したが、すぐさまそんな必要がないと気づき軽薄な笑みを浮かべた。
「時雨崎の知り合い、だったか」
「そっす。今日はあのお嬢ちゃんにお届けモノに来たのです」
す、と弁当を掲げる。男は納得したように頷いた。
「まあ、それなら構わないが……あまり問題は起こさないでくれよ? ここのところ、妙な噂もあるからな。他所の人間が妙な事をしたら、即座に排斥されかねないぞ」
「妙な噂?」
ああ、と体育教師は厳つい顔を苦笑に染めた。
「鬼が夜に闊歩する、というな。それだけなら荒唐無稽な妄想だが、生徒たちは色々な想像を膨らませていてな」
「鬼の正体がなにかー、ってか? 本当に化物なのか、実はデケェだけの人間なのか、夜な夜な肩車して散歩する馬鹿を見間違えたとか」
「他所の人間が破壊活動に勤しんでいる、とかもな」
……まあ、よくある話だとは思う。
創作物などでは、何か特別な事件が起こるときは余所者がトリガーになる可能性が非常に高い。想像力豊かな若者なら、多かれ少なかれ妄想する類のものだろう。
「どうせなら、この難事件を解決しに来た名探偵とか噂してくれねぇかな?」
「そんな格好では無理なんじゃないか?」
じっ、と雨宮の体を見つめる。まあ、コイツの服装は探偵などより夜道のチンピラが近いとは思う。
「……鹿撃ち帽とかあった方がよかったかね」
「その格好をホームズというのはどうかと思うんだけどな。そもそもだ、挿絵で着ているだけで文中で着ている描写はないしな」
「え、なに? そんな筋肉でホームズとか読んでんの? なにそれ怖い!」
「筋肉は関係ないだろう筋肉は! 筋肉を馬鹿にするとバリツで粉砕するぞ!」
「なにそれホントこわい!」
一体なんの話をしているんだこいつら、そう思った矢先にりごんりごん、とチャイムが鳴り響いた。
「んじゃ、俺は行かねぇと。あ、おっさん。お嬢ちゃんの教室は?」
「二のB、だ。あんまり騒ぎを起こすなよ」
大丈夫だって、と手をひらひらさせながら軽薄な笑みを浮かべる。
『本当に大丈夫なのかこいつ……?』と言いたげな体育教師であったが、その不安は決して間違ってはいないと思う。
二階に上がる。昼休みに突入し外に飛び出した生徒が、雨宮を見て固まる。確かに、教育機関の中で出会うには、雨宮の格好は少々パンク過ぎる。
「どもども」
軽い会釈をしながら通り過ぎ、B組へ。
授業も終わり、雑然とした教室。その空気を打ち破るように、勢い良く扉を開く。
シン、と静まる教室。
そこからガラスにヒビが入っていくように、徐々に徐々にざわめきが増えていく。
体育の時間で見たという女子に始まり、「オイ、あれ誰だよ」と問いかける男子。そして、
「そうへ――なっ、なんでアンタがここにっ!?」
がしゃん、とガラスが砕け散ったように、春香嬢が叫んだ。
瞳を白黒させる彼女の前で、「ベントゥーをお届けに参った」と弁当箱を掲げる。慌ててカバンの中を探る春香嬢だが、無論存在するわけがない。
「あぅ……」
とカバンに手を突っ込んだ状態で呟いた。
恥ずかしそうにカバンから手を引き抜き、恥じるように、同時に気遣うように雨宮を見る。
「その……今日は、平気なの?」
「ん? あー、昨日は悪かったな。仕事サボっちまった」
ガリガリ、と頭を掻きながら軽薄な笑みを浮かべる。
ほら、と弁当を手渡すと、それで用は終わりだとばかりに背を向ける。
しかし、予想外な事があった。
「待って!」
春香嬢が、雨宮を呼び止めたのだ。
これは雨宮にとっても予想外だったらしく「へぁ!?」という奇声を上げ、何事かと振り返った。
春香嬢はすぐには応えない。いや、そもそも次の言葉を考えていなかったのだろう。「ええっと」と唸った彼女は、既に他の教室に行ったらしい誰かの椅子を引き、言った。
「せっかくだから、昼はここで食べない? 購買だってあるし――部外者だけど、わたしの知り合いなら大丈夫でしょ」




