第三十六話
紗弥の舞台を前にして、会場に居る人間は皆、これがオーディションだという事を忘れてしまう程に没頭していた。世界に一人取り残された少女。題材としては良くあるパターン。少女は恐らく自殺したのだろう、と中盤あたりで観客達はなんとなく察する事が出来る展開。だが明言はしない。本当にそうなのか、と芝居に集中させるための仕掛けだ。舞台上の役者の台詞から、本当にこの子は自殺したのか、ただのミスリードではないか、という手がかりを観客に探させる。
本物の舞台では、さらに小道具が、照明が、共演者が、主人公の少女の存在をより明確にするために様々な仕掛けを施している。今出来るのはこれで精一杯。それでも舞台慣れしている筈のオーディション参加者達は目が離せなくなる。
「あれは誰だ」
一番遠い席で舞台上を眺めるスーツ姿の初老の男性が、隣の男へとそう尋ねた。隣に座るのは紗弥を劇団創設に誘ったアス重工の社員。
「漆原紗弥さんです。今は大学生ですが、幼稚園の頃から舞台には立っていたようですね」
「漆原……?」
「あぁ、気付いてしまいましたか。そうです、あの漆原燈子の娘さんですよ。ある日突然、テレビからも舞台からも姿を消した、誰もが認める名女優。旦那さんが亡くなられたショックで……と当時のワイドショーでは面白おかしく報道してましたが……どうなんでしょうね」
初老の男性は紗弥の芝居を眺めながら、奇妙な違和感に襲われていた。これまで舞台などいくつも見てきた。そしてあまり自分は馴染めないと思っていた。何故なら舞台上の役者は所詮、というか当たり前に人間だ。リアルの人間がリアルな人間を演じているとしか思えず、あまりそそられなかった。
だが今は違う。彼は確実に紗弥に惹かれている。というより、あの舞台に意識が持っていかれるような感覚。
「……君は大相撲を見た事はあるか? 生で」
「いえ、申し訳ないですが……」
「あれと似てる」
予想外の反応にアス重工の社員は「はぁ、そうですか」としか答えられなかった。何故ここで巨大な筋肉の塊がぶつかり合う格闘技が出て来るのか。
「特に横綱が出てくると、意識が引っ張られるんだよ。大相撲はスポーツや格闘技じゃない。儀式という名の殺し合いだ。他の格闘技は対戦相手を殺さないよう……そう、例えば柔道とか、加納治五郎は技を高度に昇華させることで高い技術の格闘技として立ち位置を確立させた。レスリングもそうだ。古代ローマでただの殺し合いでしかなかった物から技を編み出して、スポーツ化させた」
この人は格闘技ファンだったのか……とアス重工の社員は感心するように相槌を打ち続ける。だが大相撲が格闘技じゃないというのは、いささか賛否両論ありそうな意見だと思った。
「大相撲は何故格闘技ではないのですか?」
「殺し合いだからさ。格闘技とはあくまで技術を競い合うスポーツだ。しかし相撲は世界で唯一、公共の電波に乗せてる殺し合いだ。力士達はたとえ同部屋対決でも、決して手は抜かない。殺意を剥き出しにして相手へと向かっていく。だが稀に、それを受け流して更に相手の心に油を注ぐ存在がいる。それが横綱になるような力士だ」
「殺意を受け流して……?」
「そう、相手の全てを引き出した上で勝とうとする。人間って奴は本気を出そうとしてもそう出せるもんじゃない。短距離走で早い奴と並んで走ったらタイムが良くなったりするだろ。一人で本気は出しずらい」
「はぁ……それで……彼女がそれをしていると?」
「そう。こういうのを迫力というのだろうな。ああいう人間を目の当たりにすると引っ張られるんだよ。意識が持っていかれる。まるでオーケストラを生で聞いているような感覚だ。五感全てを支配され、蹂躙されるんだ」
こんなに喋る人だっただろうか。だが言っている事には妙な説得感があると思った。
しかし紗弥は今一人だ。舞台上に共演者は居ない。先程、一人では本気は出しずらいと行っておきながら、状況と合致しない。
「彼女は今一人ですが……」
「居るじゃないか。この会場に」
「……まさか我々の事ですか」
「あぁ。俺達を利用してるんだ。芝居に熱中してるかと思いきや、繊細に俺達の意識を探ってる。それで微調整しているんだろうな。努力の賜物だ。そうそう出来る事じゃないだろ」
「漆原燈子の娘さんですから。そのくらいの才能は……」
「わかってないなぁ、君は。彼女を誘ったんだろ、もっと考えろ」
イラッとするアス重工の社員。確かにオーディション参加者の中から、彼女を選んだのは自分の意志だ。しかしそれはあくまで経歴と学歴を踏まえたうえで、経験のある紗弥をピックアップしただけの事。自分も舞台の事などさほど詳しくはない。なんだったら、このプロジェクトから外れたいとさえ思っている。自分には向いていないと。
「いいか、才能は確かにあったとしよう。だがそれが影響するのは完成してからのコンマ数パーセントだ。ほぼほぼ素人目には判別付かない程の差だ」
「あぁ、そういう事ですか。意外と熱血思考だったんですね。彼女は努力で補っていると」
「俺も中卒でこの足だけでここまで来たからな。君をこのプロジェクトに使命したのも、私の経験からだ。その道に向いてる人間は君の他にも沢山いる。だが敢えて君を選んだ。とことん向いて無さそうだったからな」
なんだ、ただの嫌がらせだったのか、と嫌味を言いそうになったがなんとか堪える。初老の男性はアス重工の代表取締役。社長命令では逆らえない。
「向いてないのに使命するとは……後悔しますよ」
「向いてないからいいんだよ。君はこれから自分の変化に驚くだろう。私の命令だ、彼女と頑張りたまえ」
どうやら既に社長の中では紗弥がこのプロジェクトの要となるのは決定されているらしい。ならばオーディションはどうなるのか。劇団設立の話に彼女が乗るかどうかはさておき、それ以前にオーディションはそれを理由に落される事などあっていいのか。
「彼女のオーディションはここで終わりですか」
「それを決めるのは俺じゃないよ。前の方に座ってるおっさん共だ。彼らに一任してあるんだから、彼女が適材だと認められれば選ばれるんじゃないかなぁ」
「そうなったらプロジェクトはどうなるんです。彼女が選ばれたら、とても劇団の設立なんて……」
「そうなったら君の本領発揮だろう。早乙女凜の時は担当した奴が悪かった。今でも後悔してるよ。早乙女に君をつけていれば、あんな事にはならなかった」
「…………」
紗弥の舞台が終わる。会場から拍手が溢れる事は無いが、存分に賞賛したい気分なのは双方ともに同じだった。肩を揺らし息を乱す紗弥は、美しく見えた。容姿は元々それなりに整っている。だが美貌とは見た目ではなく、その人間の言動や所作で決まる。息を乱しながらも、やりきった感を出さない紗弥。格闘技でいう所の残心ですね、と社長に言えばさぞ喜んだだろう。
※
世界でたった一人の女の子を演じながら、少しずつ自分の体が沈んでいく感覚に襲われた。このままずぶずぶと戻ってこれない所まで行ってしまおう、そう思ってしまう程に私は没頭していた。
よりにもよって、オーディションの場で私は未だかつてない程に入り込んでいた。これは私の、私のための芝居だ。精神論ではなく本当にそのままに。今この芝居は私だけの自己満足で完結させれる物。
だからなのか歯止めが効かない。いつもは恐怖を覚える程に沈む所も、今は快感しかない。もっと、もっとと自分から沈んでいくのが分かる。足が付かないと分かっているのに、息が出来ないと分かっているのに。
このままいくところまで行ってしまおう。そう……おもっていた時だった。私の目にありえないものが飛び込んでくる。
客席の中、一人ポツンと座る男。その男には見覚えがあった。当然だ、家に写真があった。大半の写真は母が処分してしまったが、それでも数枚は残っていた。私の実の父。
……なんで?
死んだ筈だ。交通事故で、帰らぬ人になった筈だ。
何故、お前がそこにいる。
幽霊? 違う、私に霊感なんて皆無だ。ならこれは……幻覚?
不味い、やばい、潜り過ぎたんだ、戻らないと……戻らないと……!
パンダ……いつも私が潜り過ぎたら警告してくれる宗吾さんから貰ったキーホルダー。あいつは何処に行ったんだ、どうして……やばい、戻れ、戻れ、戻れ……!
必死に水面に手を伸ばすように。
でも体は沈んでいく。息が出来ない事を今さら思い出した。このままでは深海魚になってしまう。それはそれでいいかもしれないが、まだ私は……
突然、手を引っ張られた。そのまま水面の上まで引き上げられる。
青い空が、違う海へと引き上げられた。
そこで初めて、自分が汗だくで芝居を終えた事に気が付いた。
拍手は無い。だが時計を見ると規定の十五分をフルに使いきっていた。十秒程余っているが。
「ありがとうございました」
咄嗟に審査員らしき大人達に一礼しつつ舞台を降りる。その時、先程父が座っていた座席を見ると、そこには誰も居なかった。当たり前だ、あれは私が作り出した父だ。本物はとっくに死んでる。でも初めて見たからちょっとびっくりしてしまった。
それから結果発表までずっと私は座席で死んでいた。
やり切った感が半端ない。劇団では出来なかった事が、今このオーディションで出来てしまった。それは私が今、本当に一人だからか? 仲間が居ないから……?
寂しい奴め、お前はこのままずっと一人で舞台で踊り狂え。神様にそう言われた気がした……というのは少々脚色が過ぎるが、このままでは本当に狂いそうになってくる。もうとっくに狂っているといわれたら言い訳の余地は無いが、とりあえず今は大丈夫の筈だ。
そして運命の結果発表。
あぁ、にゃん子……たぶん私は落ちた。中華料理屋を救えなくてごめんよ。
これからも天津飯を食べに行くから、それで許してくれ……。




