口づけでさよならを
殴られたかのような衝撃だった。
クロム伯爵はもう死んだのか。
どうやって? いや、命じられるのは一人だけだ。
カシウ王が処断したのだ。
辺境伯であるクロム伯爵を殺せば、情勢は緊迫するに決まってる。
それほどカシウ王の怒りは大きかったのだ。
それよりも信じられなかったのは、死んだクロム伯爵にエリスが会いに行こうとしていることだった。
エリスは本気で、クロム伯爵を愛していたのか。
だとしたら、僕は一体なんだったんだ。
エリスが僕の部屋に来たのは、クロム伯爵との別れのためだった。
しかもアルマにそう言われたから、だ。
完全に馬鹿にされていた。
アルマのことだ、何をしてでもひきとめろと言ったのだろう。
奴隷の館とシーラのことを考えれば、嫌でもわかる。
エリスの黒い服は……クロム伯爵を悼むためだ。
心が僕にない証だった。
「増血薬でスキルの代わりをしてたってアルマは言っていたけど、私にはどうでもいいことだったわ。彼の方が爵位もあって、野心もあった」
部屋の空気が、凍りつくようだ。
エリスの声は、不気味に柔らかい。
「ねぇ……私が嫌いになったかしら、ジル……」
エリスが、ゆっくりと顔を近づけてくる。
散々、僕が焦がれた顔だった。
優しい野原の香水が、僕を包みはじめた。
でもいまや、僕の心は千切れかけている。
結局、愛されてなどいなかった。
スキルという運の良さで、手に入れた婚約者の立場だ。
もとより、没落貴族の僕には出来すぎた話だった。
それなら、もっと早く断ってほしかった。
晩餐会での婚約破棄なんかせず、拒絶してくれれば良かったのに。
いい恥さらしなだけだった。
「……嫌いになりそうだよ、エリス」
僕自身、口からでた呟きに驚いた。
エリスの強さが、まぶしかった。
僕には持てない奔放さも、羨ましかった。
エリスのためなら仕えるような結婚生活でも、我慢できただろう。
今ならはっきりわかる。
全て神が一瞬だけ見せてくれた、夢と幻だったのだ。
ここに、アラムデッドに来るべきじゃなかった。
エリスに惹かれるべきじゃ、なかった。
「やっと、私を憎んでくれる?」
僕の目の前に、エリスの銀髪がある。
触れることさえ恐れ多かった、婚約者の髪だ。
エリスが頬を、僕の顔につけた。
ぞっとするほど、冷たい肌だ。
反対に、僕の中に怒りと後悔の火がくすぶりはじめた。
エリスに向けたことのない感情だ。
「エリス、僕には君がわからないよ」
「奪いあって愛しあうのが、私たちヴァンパイアの本質よ。クロム伯爵は、それを理解してたわ」
「……僕には、到底理解できない」
「そうでしょうね……。残念、ね」
エリスの冬のような吐息が、僕の耳にかかる。
言葉とは裏腹に、エリスは失望してるわけではない。
ただ見せつけているだけなのだ。
エリスと僕の、本当の心の距離を。
「ねえ、今ここで私を抱――」
「言うなっ!」
エリスの耳元で、僕は声を荒げた。
わかっている、エリスの安い挑発だということは。
僕はエリスの両肩を掴み、引き離した。
エリスは力を抜いてされるがままだ。
熱が、僕の身体を焼いた。
どこまで僕を逆撫で、馬鹿にすれば気が済むのか。
昨夜の今で、嘘でも聞きたくなかった。
僕がイライザを傷つけたこの部屋では、なおさらだった。
「そんなに、クロム伯爵がいいのか。死んだあの男のために、そこまで出来るのか!?」
「ええ、そうよ」
エリスが一切の迷いなく、言い切った。
心の火が、炎になって僕を焼き切る。
「なら……もう、終わりだよ。話すことは、ない!」
僕は、未練を断ち切るようにベッドから立ち上がった。
目はすでに覚めていた。
昨日の夜、婚約破棄以前に全部終わっていた。
追いすがってもかなわない相手だったのだ。
後はディーン王国とアラムデッド王国で話し合うだけだ。
当分、困らないだけの金は手に入るだろう。
自分にも、プライドがある。
エリスは騙されてたんじゃない。
単に、僕が好きじゃなかったんだ。
身分不相応に好意を寄せた、僕も愚かだった。
「ディーン王国管轄の館に無断で立ち入ったことは、不問にする。帰ってくれ」
「そうね……良かったわ」
エリスも、ベッドに手をついて立ち上がった。
その顔には、謝罪や反省の色はない。
奇妙に、エリスは晴れ晴れとしていた。
僕が持ちえないものだ。
「……あなたに好かれたままは、つらすぎるもの」
そういうと、エリスはさっと僕にキスをした。
反応することも出来ない、早さだった。
冷たくもなく、人の持つ温かさだ。
エリスの冷たさが、彼女の魔力によるものだと初めて知った。
挨拶のような、軽いキスだった。
別れを告げるものだ。
そのキスの瞬間に、部屋の扉がものすごい音を響かせる。
誰かが、蹴破るように開けたのだ。
「ジル様、ご無事ですか!?」
なんというタイミングだ。
イライザと護衛が血相を変えて、飛びこんできた。




