宮廷の争い①
数時間の鍛練を終えた僕は、王宮の浴場に向かった。
汗や汚れを落とし、午後の座学に備えるためだ。
ぱっとお湯を浴びた僕は、昼食に向かう。
午後は午後で、予定がいっぱいである。
しばらくは午前に鍛練、午後は座学という日々を過ごすことになる。
時間は無駄にできない。
夜の晩餐会や舞踏会の類いは、ナハト大功からも免除されている。
今後必要なのは貴族としての人脈ではなく、国を実際に支える能力ということだろう。望むところだった。
昼食は実に簡素だーー乾いたパンに渋い紅茶、しなびた干し肉である。
いわゆる軍隊食だ。これに慣れるのも、また訓練になる。
……アラムデッド王国に行く前の、ホワイト家の食事なので、全然苦じゃないのだけれど。
まぁ、イヴァルトで贅沢に慣れた舌を巻き戻すにはちょうどいい。
丁度食べ終えた頃、食堂にイライザが現れた。彼女の肌はほんのりと桃色に染まり、髪はつやつやと光沢に満ちている。
彼女も僕と同じように、身を清めたに違いなかった。
「ジル様、座学の場へご案内いたします」
「ありがとう……他の皆は?」
「先に向かっています。座学の場は女性向け浴場の近くにありますので……」
食事も手早く終えた僕は、王宮の離れにある会堂へとふたりで移動する。
どうやらそこは宮廷魔術師の管轄のようだった。
華麗な王宮から、段々と質素で飾りつけのない回廊へ様変わりしていく。
むせるような香水の匂いは薄れ、湿った土の香りになる。
「ジル様……」
イライザが足を止め、回廊の壁に退く。
遠見の魔術を使うイライザは、僕よりもかなり視力が良い。
目をこらすと、上位の貴族らしき一団が正面から歩いてきていた。
先頭を大股に歩くのは、見覚えのある20代半ばの金髪の美男子だ。
黒の礼服と胸に輝く勲章の数々が、彼らの地位を示している。
このような場合は、相手が通りすぎるまで待つのが礼儀だ。
僕もイライザにならい、壁に退く。
さらに胸に手を当て、軽く頭を下げる。
「……ターナ公爵の嫡男、サイネス・ターナ様ですね。お気をつけください」
イライザが消え入りそうな声でささやく。
ターナ公爵家はディーン王国に古くからある名家だ。
領地は広くないが、ディーン王国の要職につける家柄である。僕とは比べ物にならない上級貴族だ。
「……わかった」
そしてターナ公爵の派閥は、僕を嫌っている。
正確にはーーナハト大公の方針か。
ナハト大公は実力主義者であり、身分の高低にはこだわらない。
ガストン将軍を引き立てたのもナハト大公であり、彼以外にも多くの平民や騎士に兵権を委ねている。
もちろん、守護騎士に任じられる僕も引き立てられた一人だ。
しかしターナ公爵の派閥は生粋の門閥貴族であり、ナハト大公の方針を常々批判している。
当然、僕の扱いについても批難めいているのは聞いていた。
……嫌な予感がする。
王宮内では人の出入りが激しいので、言葉を交わすことはなかった。
しかし、この離れの回廊には人は極端に少ない。静かに緊張してきた。
ゆったりとした足音が近づいてくる。
10歩の距離、5歩の距離ーー。
足音が、止まる。
サイネスの一団は目の前にいた。
意外にもサイネスは親しげに語りかけてきたーーイライザだけに顔を向けて。
「おお……誰かと思えば、イライザではないか」
「……お久し振りにございます、サイネス様」
「隣は……誰であったか? まぁ、名乗らずともよい。王宮で見ない顔だしな」
白々しくサイネスは言い放った。
ふざけてる。
1か月前、王宮にいた時に顔ぐらいは合わせていた。
しかし、言い返すことは許されない。喋るなと言われているも同然なのだ。
サイネスはこれ見よがしに、イライザに身体を近づける。
「イライザよ、来月の出陣の話は聞いているか?」
少し身を引き、イライザが答える。
サイネスが言うのは、ヘフラン出陣のことだろう。
「……ええ、さわり程度は」
「さすがだな……耳に入っていたか。実はな、俺も出陣するのだ。父上に頼んでかなりの兵を用意してもらう」
「な、なるほど……」
サイネスは何を言っているんだ。
まるで口説いているような調子じゃないか。
「それでーーイライザ、そなたを参謀にしてもらえるよう掛け合うつもりだ。光栄だろう?」
は?
今、なんて……。
「お戯れを、サイネス様。あなたには父より付けられた有能な方々が、すでにおられますでしょう……私がお側に仕えるまでもありません」
「奥ゆかしいことだ……しかし、俺は本気だ。そなたを連れていくぞ」
今度は、イライザが軽く息を吐いた。
精一杯の困惑を乗せて。
「ナハト大公より、隣にいるジル様の補佐をするよう特命を受けております。ご希望には沿えません」
「なんだと!? こいつ……」
初めてサイネスの意識が僕に向けられたーーと思う。
憎々しげに、彼は吐き捨てる。
「……子守りとは難儀なことだ。同情するぞ」
その言葉に、イライザが早口に反論する。
これまで聞いたことがないほど、苛立ちを含ませていた。
「ジル様は、子どもなどではありません。親はいなくても、しっかりと自立したお方です」
痛烈な皮肉だ。
「どういう意味だ、それはーー」
声を荒げようとするサイネスに、彼の側近が素早く耳打ちした。
「若様、次の予定が控えておりますれば……」
「くっ……」
「ナハト大公には我らから、伝えましょう……若様のご要望を」
「……わかった」
そのまま、サイネスは歩き去っていく。
一団の姿が見えなくなった時、僕はイライザを見やる。
彼から受けた屈辱とともに、思いもよらなかった宮廷模様が見えてしまった。
「……イライザ、サイネス様は……」
イライザは、物憂げに首を振る。
「サイネス様は宮廷魔術師との繋がりを求めているだけです。行きましょう、時間を無駄にしました」
とても公務に使う人脈だけだとは、思えなかったけれど。
しかし、安堵もした。
イライザには、全くそのつもりがなかったからだ。
それだけが、大きな救いだった。




