前代未聞のVIPゲストが訪れた(中編)
わいわいと多くの女性達による賑やかで楽し気な声に溢れかえる硬玉屋にある奥の広い座敷。
貸し切りとなっているそこには大勢の美しい芸者たちが集まり、皆で楽しそうに様々な遊戯をして戯れている。
札を使ったり、追いかけっこしたり踊ったり。
そんな遊びをする集団の中央にいるのは長く綺麗な黒髪が特徴的な幼い少女。
その少女はその外見に良く見合う年相応に無垢で底抜けに明るい向日葵の様な笑顔を浮かべていた。
その少女に非常に良く似合う笑顔であるのは間違いないのだが、少女を知っている者達はこの子はそんな笑い方が出来た訳ではないと知っている。
数百年という歳を幼いまま生きて来て、多くの不幸と迫害を受けて来た。
そんな彼女の笑みは大人よりも歪で、本当に最近までその笑みはまるで嘲笑の様な冷たい笑みだった。
確かに、少女は明るくなったが、それでもどこか子供っぽさは抜けていた。
その少女が精神年齢に相当する笑みを浮かべられているというのは本当に奇跡の様な事であり、たったこれだけでここに来て良かったとヴァールは思え、心から満足していた。
心の底から楽しそうな娘のローザ同様、父であるヴァールもまた普段ではあり得ない程に穏やかで優しい表情となっていた。
「あの子があんな顔をするのは初めてですね。……やはり、母親はいた方が良いのでしょうねぇ」
そう、誰にでもなくヴァールは呟く。
その返事の代わりに、傍にいた芸者の女性はそっと盃に透明な液体を注いだ。
ヴァールは無言でその盃を取り、口元まで持って行き傾ける。
最初に感じたのは鼻に訴えかける優しくも濃厚な甘い香り。
その後すぐ口の中に湧き水の様な透き通る味がゆっくりと広がり……直後、痛みにも似た熱さが喉中に広がる。
ワインやエール等度数の低い酒では決して感じ得ない、喉を焼く様な味。
逆に、ウィスキー等度数の高い酒では決して味わえない、優しい水の味。
その喉の痛みは決して不快ではなく、むしろ心地よく感じる様な、そんな優しい痛みだった。
あっさりとして、それでいて痛みがあって、それすらも心地が好くて。
ヴァールがその酒に感じた物は、まるで自分が歩んてきた道のりの様で……。
ヴァールは何とも言えないノスタルジックな感傷を抱き、自らの歩みを一瞬だけ思い返した。
「……差し出がましい様ですが……」
いきなり、酒を注いていた女性がそう呟くのを聞き、ヴァールはそっと盃を置いた。
「はい。何でしょうか?」
「いえ、もしローザ様の為に母親をと思う様でしたら、それはあまりお勧めしませんと」
これまでの数時間、夕食が来る前からずっと一緒なのに一言か二言事務的な会話しかしていないその女性の言葉に驚いた。
「ふむ……。私はここで楽しそうにするローザを見て同性がいるべきと思いましたが、貴女はどうしてそう思いました?」
そう言ってヴァールはローザの方に目を向ける。
「はいはいこっちですよーこっちー」
「上手ですよー」
そんな風に、女性二名はローザの手を引き、そのローザは目隠しをし少々困惑しながら歩いていた。
「もちょっと、もちょっとゆっくり」
「ゆっくり歩いたら遊戯になりませんからねー」
「あー! 転ぶ! 転ぶから! あわわわわ」
そう言って叫んではいるが、ローザは心の底から楽しそうに笑っていた。
「あくまで私の感想ですが……ローザ様は恐ろしいと感じる程に聡明ですので」
「ふむ。娘を褒めてくれたのは嬉しいが、聡明だと母は必要ないのかな?」
「いえ。母はいた方が良いでしょう。ですがそれは、ヴァレリア様が妻として愛し受け入れた女性だったらの話ですね。愛がないのに一緒になっても逆効果になるとしか思えません」
そう女性は言い切った。
女性の目から見て、ローザは十分愛を貰って成長していた。
むしろ、自分よりも年上なんじゃないかと思う位その心は大きくなっていた。
それこそ、子供にとって絶対の保護者である母親がいなくても十分やっていける位には。
そして、ヴァールが自分の為だけに妻を取ると悲しむ位には、ローザの心は成熟していた。
「むしろ私は、ローザ様に必要なのは今回みたいに子供に戻ってはしゃげる時間ではないかと愚考します。おそらくですが、ローザ様は普段もっと大人しくしていませんか? ですので、友人でも、親戚でも構いません。ああやって何も考えずはしゃげる時間こそが、きっと今のローザ様に必要な物だと」
その言葉を聞き、ヴァールは少し驚いた表情を浮かべた。
「……なるほど。確かにそうです。あの子に必要なのは過去を取り戻す様に、子供らしく遊べる友達でしょう」
「差し出がましい事を言って申し訳ありません」
そう言葉にし、女性は盃にお酒を注ぎ一歩後ろに離れ、ヴァールはその酒を手に取り、そっと傾け喉を焼く。
きっと、これから大変だろう。
自分の子供を育てた経験のない自分が、自分だけでローザをちゃんと育てられるだろうか。
いや、自分だけではきっと無理だろう。
だから誰かに頼るのは、当たり前の事である。
誰かに頼って、その上で、それでもまだどうにかなるかまだ不安で……。
だからこそ、ヴァールは嬉しかった。
ヴァールの生に、生きようと思う意思が確かに宿っていた。
常に万能感に満ち何でも自分だけで完結出来る自分でも、こんなに頭を悩ませることがある。
ただの凡庸な魔物達皆がなした子育てが、自分ではこなす事ができるかわからない位難しい。
それは悠久の時を生きたヴァールにとってこの酒の様に、なくてはならない心地よい痛みそのものだった。
「……それはそれとして、貴方私と結婚しません? やはりそれとは別にあの子の母親はいた方が良いですし、あの子をそれだけ見てくれる貴女となら夫婦生活を続けられそうです」
そう、唐突にヴァールが言葉にすると、女性はにっこりと微笑み、答えた。
「お断りします」
「どうしてか、尋ねても良いでしょうか?」
純血で、貴族で、元魔王。
はっきり言って寄ってくる女など星の数より多く、ヴァールにとって大半の女性は湧いて来る虫程度にしか思っていない。
そんな風に群がられるからこそ、ヴァールは断られるとは思っていなかった。
「さっき言いましたが、ちゃんと愛し合った結果以外での母親は間違いなくローザ様の教育に悪いからです。下手な私達成熟した魔物よりも賢く、同時に幼い。私はローザ様をそう見ます。それと、本命の理由がもう一つ」
「後学の為に、教えていただけますか」
「はい。私は私をちゃんと愛してくれる方以外の元に参るつもりはありません」
そう言って笑顔を浮かべる女性を見て、ヴァールはやらかした事に気づいた。
「……失礼しました。貴女を侮辱する意図があった訳ではありません。ただ、私が男女の交流について無知で愚かだっただけです。長く生きただけの愚かなこの身をお許し下さい」
「いえいえ。お気になさらず。ただ、その告白では女心は掴めませんし、その告白で寄ってくるのはローザ様の為にならない様な女性だけだとご忠告させて頂きます」
「金言、しかとこの身に刻ませて頂きます」
その酒よりも痛い言葉に苦笑いを浮かべながら、ヴァールは酒を一気に飲み干した。
「まあ、良い飲みっぷりです。……ところで、お味の方はいかがでしょうか?」
女性は盃に酒を注ぎながらそう尋ねた。
「このお酒の話ですか?」
「はい。美味しく、気持ち良く酔えそうですか?」
ヴァールは盃を手に取り、そっと喉に流しながら、ゆっくりと呟いた。
「美味しいとは思いますよ。ただ……正直に言いますと私酔えないんですよね。少なくとも、この程度では……」
自分の不手際で退屈な時間を与えたと思った女性は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。すぐ度数の高い酒を――」
「いえ。これで良いです」
そう言葉にし、ヴァールはそっと盃を傾ける。
それは退屈そうには見えず、寂しそうだけど楽しそうな、そんな不思議な表情だった。
「そう、ですか? 度数の強いお酒で良ければ幾らでも用意出来ますけど……」
「いえ。娘の前で酔いたいと思いませんし。それに今は娘の笑顔と……そうですね、私の為だけに静かに働いてくれる貴女に酔いたいので。……という口説き文句でしたら、どうでしょうか?」
そう言って、ヴァールは笑った。
男でも女でもつい振り返ってしまいそうな美しい顔の男性。
その男性が甘く口説いて来る。
それはどんな酒よりもきっと酔えるだろう。
だが……。
「まあ、三十点ですかね。甘く見て」
そう、女性は言葉にした。
「厳しいですね。採点の理由を尋ねても」
「それも自分で考えてこその女心ではないでしょうか?」
「……なかなか、難しいものですねぇ」
「ええ。ですから、女の子のお父さんは大変なんですよ」
そう女性に言われ、ヴァールは苦笑いを浮かべた。
「やれやれ。確かにそうです。これは一本取られましたねぇ。ええ、しっかりと、考えてみましょう。あの子の為に」
そう言葉にするヴァールに女性は優しく微笑んだ。
吸血鬼という存在は気難しい事で有名であり、その中でも純血は特に面倒で気難しく、それでいて厄介で触れてはならない爆弾の様に語り継がれている。
というより、より正しく言うなら彼らは身内で完結している為、他者に対して好意的な気持ちを持つ事が少ない。
端的に言ってしまえば、純血は純血種以外の誰かと触れ合う事にストレスを感じる程に内向的で排他的だった。
だけど、今のヴァールはその気難しさが出ていない。
ローザがいるから、ローザが楽しんでいるから。
そういう理由もあるにはあるだろうが、一番の理由は別にある。
それは、硬玉屋にいる彼女達が相手の望む距離感を見極めるのが非常に上手い事にあった。
純血どころか吸血鬼という事すら最近気づいたローザはともかく、ヴァールは純血の中でも上位に当る。
それは当然純血としての特徴も強く受け継いでいて、他種族との交流を嫌う性質を持っている。
そのヴァールの極度なまでに広いパーソナルスペースに、硬玉屋の芸者達は見事に対応していた。
具体的に言えば、ヴァールの傍に置くのはたった一名だけにする。
芸が幾つも出来て、学があって、そして子育ての経験がある芸者。
それだけの芸者を用意しても特に自分からは何も行動させず、身の周りの世話と最低限の会話のみに留める。
本来の男性を楽しませる場としては最もふさわしくない半ば放置という方法だが、それでも、その無言でゆるやかな時間こそがヴァールにとって最も心地よい時間であり、実際ヴァールはそこまで自分の主義に合わせてくれたこの店に深く感謝をしながら、久方ぶりに他種族と交流したのに全く不快にならずに過ごす事が出来ていた。
「……いや、今にして思えば彼と共に居た時も、悪い気はしなかったかな」
そう呟き、ヴァールはクロスの事を思い出しながら酒を飲む。
男の事を考えながら飲む酒は、あまり旨い物ではなかった。
そんなこんなをしているとくいくいと袖を引かれる感触に気づき、ヴァールは袖を引く愛娘の方にダダ甘い笑顔を浮かべた。
「どうしたのかな?」
「……そろそろ、眠くなってきました……」
ローザは目をこすりながら呟き、うつらうつらと舟を漕いでいた。
「確かにもう夜も遅いですからね。ええ。それでは――」
一緒に寝ようとヴァールが立ち上がった思ったところ、ローザは芸者達の方に向かった。
「今日は、おねーさん達が一緒に寝てくれるらしいからー。それじゃ、お父さんおやすみー。ちゃんと朝起きないとだめですよー」
そう言ってぱたぱたと手を振り、ローザは大勢の芸者達と共に座敷を去っていく。
後に残ったのは、ヴァールとその専属の芸者一名だけで、広いお座敷が急に寂しく悲しい物となってしまった。
「……これが……反抗期ですか……」
そう呟き、うなだれるヴァールを見て芸者は苦笑いを浮かべる。
本来客に対してそんな顔をしてはならないのだが……そうするほどにヴァールの様子は間抜けなものだった。
「本当に……良く出来た方ですねぇローザ様。末恐ろしくすらありますよ」
そう呟く声に、ヴァールは反応した。
「どういう事です?」
「ヴァレリア様が心配なんですよローザ様は。自分だけが楽しかったんじゃないか。ちゃんと父も楽しめていたか。ヴァレリア様、ずっとローザ様の事ばかり考えてましたでしょ?」
「ええ。そりゃ私の幸せはローザが幸せな事ですから」
「それと同じで、ローザ様もまた悩んでおられたんだと思いますよ。ローザ様の幸せもまた、ヴァレリア様が幸せな事ですから」
「……つまり?」
「女性ときゃっきゃうふふしたりその先をしても良い様にヴァレリア様をここに残してお眠りになられたかと……」
その言葉に、ヴァレリアは非常に困った顔をする。
正直、そういう欲求はまったくなく、それどころかあまり傍に他種族がいられるとイライラしてくる。
そんなヴァールが芸者達と仲良くなれる事などある訳がなかった。
ただ、可愛く賢い天才で優秀で自慢で完璧な娘が自分の為に時間を割いてくれて、それを無碍にする事はあまりに心苦しく、ヴァールは困った。
「あの……失礼ですが……私は……」
「はい。わかってますよ」
そう女性は言葉にし、そっと席を立ちあがった。
「もう少々お待ち下さい。他の者がヴァレリア様が楽しめる様な出し物を用意しますので」
「という事は、君はここまでですか」
「はい。そういう用事がない限りは、これでお休みを頂きます。今からでも、私とお楽しみになりますか?」
ヴァールは首を横に振った。
「……すいません。退屈な男の傍でただつまらない時間を過ごさせてしまって」
そう言って、ヴァールは彼女に頭を下げる。
それを見て、女性は微笑み首を横に振った。
「最初はそうなるだろうなと思ってましたが……正直、意外と楽しかったですよ。ピュアブラッドの方も私達と同じなんだとわかる事が出来ましたし」
「……どの辺りが、同じだと?」
「子煩悩な辺りがですね。子供の事を考え悩み、それで一生懸命な姿はとても素敵でしたよ。きっと妻になれば娘に嫉妬するだろうと思う位には」
その女性の言葉にヴァールは何と返せば良いかわからない。
そんな風に困っている間に女性は微笑み、ぺこりと頭を下げその場を音もなく立ち去った。
「……言葉を交わすって、難しいですね」
元魔王とは思えない独りごとを呟き、ヴァールは温くなった酒を一気に喉に流し込む。
温度が違う所為か口の中に広がる味は先程までより非常に強く、それでいて喉を焼く感触も喉全体が熱くかゆくなるほどに強い。
温度が変わっただけなのに味わい方がころっと変わるその酒と比べ、自分は薄っぺらいななんて考えながら、ヴァールはゆっくり、そっと息を吐いた。
ありがとうございました。




