提案温泉親子旅
ほんの一月ほど昔。
彼女は何者でもなかった。
親しい間柄の者どころか、雑談する相手すらもおらず、それなのに非正規の村で常に逃げ回り続けなければならないという何一つ楽しみが見いだせない生き方をしていた。
彼女の名前はローザ。
ローザ・ガーデン。
彼女は嫌われ者が集う村の中ですら、ひとりぼっちだった。
孤立し恐れられるだけでなく、時間にすら置き去りにされた永劫の少女。
長い時を老いる事も死ぬ事もなく、肉体も精神も幼き身のまま、ただ惰性で生き続けていた。
そんな不幸であった彼女はもういない。
ローザは今……魔王城の中で誰からも羨まれる様な安息で幸福な日々を送っていた。
村に居た時では考えられない様な豪勢な部屋。
部屋中ふりふりのシルクに溢れ、どこもかしこも柔らかくふわふわで、しかも毎日何もしなくても良い。
気づけば掃除されて花が取り換えられている。
そんなあり得ない程贅沢な場所が、彼女の自室である。
子供としての義務である教育は、優秀な吸血鬼の家庭教師が自宅に現れ懇切丁寧かつこれでもかと下手に、しかも一挙手一投足を褒めたたえながら教えてくれる。
血筋と伝統を重んじる吸血鬼にとって、吸血鬼の純血は親よりも尊い存在であるからだ。
食事もまた当然、超豪華。
一流のシェフによる一流の食材のオンパレード。
遠方から輸送費を度外視して用意される鮮度の高い旬の食材。
元々そこそこ高かった魔王城の食費はかるく十倍には跳ね上がった。
デザートのついでにいつも血液が出されるのだが、これもまた吸血鬼にとって至高とされるような味の高級品……なのだが、ローザは正直最初に飲んだクロスの血の方が美味しい様に感じていた。
そんなこれでもかという贅沢をしているのだから迷惑かと思いきや魔王城としては全く困っておらず、むしろローザという存在はメリットが山ほどあって未来永劫いて欲しいと願う程だった。
というのも、ピュアブラッドという種族の親馬鹿具合は尋常ではなく、普通に考えたらあり得ない事をやらかす様な一族だからだ。
美味しい物を食べて欲しいからと、魔王城のあらゆるコネを使っても手に入らない様な高級食材を軽々と山の様に用意し、この子の生活費の足しにと言って金塊やら土地やらを預けに来る。
それも、親であるヴァレリア・ガーデン。
ヴァールだけでなく他のピュアブラッドも同様にだ。
既に全てひっくるめてかかった費用の百倍位は魔王城は利益が出ている。
だが、最大の利益はそこではない。
金なんてのはアウラという政治力特化の魔王にとってはあって当たり前の者であり、正直困る事はほとんどない。
むしろありがたいのは、ピュアブラッドとの交流がおそろしく活発になった事の方にあった。
ローザに会いたいというピュアブラッドの声は非常に多く、既にアウラはローザを挟み十体ものピュアブラッドとの顔合わせに成功している。
吸血鬼の祖、全ての吸血鬼の敬愛を集める種、ピュアブラッド。
彼らは身内が関わると非常に甘いが、そうでない時は基本的に交流を持たない。
ピュアブラッドの一体にでも嫌われたら魔王という地位の維持は不可能だと言っても、決して過言ではない。
歴史と伝統を持ち他者に興味の薄いピュアブラッドだからこそ、歴代の魔王はいつもピュアブラッドとの、吸血鬼総体との交流に苦心していた。
そんな爆弾が起爆する確率が、日に日に下がっていく。
歴代の魔王が苦心していたピュアブラッドとの関係が、何もしなくても日に日に良くなっていく。
ありがたいという言葉すら温い程、アウラはローザに助けられていた。
ついでに言えば、ヴァールは一月のうち二十日程は魔王城に滞在する。
可愛く愛しく可憐で素晴らしい娘のローザに逢う為に。
ピュアブラッドがこんなに滞在する魔王城というのは、ピュアブラッドか吸血鬼種が魔王になる場合を除けばおそらく初だろう。
そんな幸運を考えたら、ローザのわがままなど可愛い我儘と呼んでも問題がなく、むしろもっと我儘を言って困らせて欲しいと願うまである。
そんなアウラもローザもヴァールもウィンウィンな関係で、皆が等しく幸せな日常を送っていたある日、ローザの元に久方ぶりのお客様が現れた。
「久しぶりねクロス。元気にしてた?」
優雅かつ綺麗な姿勢で椅子に座り挨拶をするローザはほんの一月ちょい見ない間に随分と変わっていた。
真っ黒で瀟洒なゴシックドレスに大きく咲き誇る薔薇の付くミニハット。
そこに、非正規の村で孤立した時間に囚われていた少女はいなかった。
そこにいたのは、純然たるピュアブラッドとして生きる、風格と気品に溢れる童女、ヴァールの娘、薔薇に愛されし少女と彼女はなっていた。
例えそれがちょっと気になる相手に背伸びをした姿を見て欲しい為だとは言え、ローザは確かに美しくなっていた。
「ああ。そっちも……うん。見違えたね」
「ありがとう。少しはお父様の娘として恥ずかしくない位にはなれたかしらね」
「自慢の娘って言うさ」
「そうね。……」
そう呟き、ローザは少し不満そうな顔をする。
その顔を受け、隣にいるエリーはとんとクロスの脇腹を肘で着いた。
「クロスさん」
「……な、何だ? 俺何か不味い事言ったか?」
小声で追及するエリーにひそひそ声でクロスが尋ねる。
それにエリーは小さく溜息を吐いた。
「言葉が足りないんです。女の子が、こんなに頑張って衣装を着飾ったんですよ?」
その言葉にクロスはようやく理解した。
つまり、子供扱いをしたのがまずかったのだと。
年頃の女の子を子ども扱いすると不機嫌になるなんてのは、どこの世界でもある常識だったとクロスは思い出した。
「綺麗になったよ。服も似合ってるし、その薔薇も似合ってる。それに、どこか顔立ちも大人びてきたしね」
「……ま、及第点にしておきましょう。だけど、ありがとうクロス」
そう言って、にへーとローザは嬉しそうに微笑んだ。
「それで、何かあるんでしょ?」
「何かって?」
クロスはそう尋ね返した。
「私に頼みたい事が。見てわかるわよ。……安心して。貴方達には恩がある。恩しかない。だから出来る事があるならちゃんと手伝うわ」
「……ああ。まあ、結構やばめな内容なんだけどな」
「と、言うと?」
「ローザの持っているもの全部を借りたい」
「……そりゃ、私だけなら何でも良いけど、ほとんどが私じゃなくてお父様のものだからそれは」
「その、お父様の力を借りたいんだよ」
「……本気?」
そう、ローザは尋ねる。
それは、ピュアブラッドにとって地雷そのもの。
大切な娘を、新しく生まれた同胞を利用して力を借りようとする。
それで幾度となく歴代の魔王は滅んだ。
それは、短い付き合いであるローザすら危険であると理解するような行為だった。
「残念ながら、その覚悟はあるよ」
「……賢者様ってのは地雷原で踊るのがお好きなのね。私は踊るなら社交界の方が良いわ」
「残念ながら、賢者様の中身はただの愚者なんでね。すまん。頼んで良いか?」
「ええ。お父様を何と言って呼べば良い?」
「……最初からオープンにした方がまだ誠意的だな。『娘さんを利用する事を相談したい』で頼む」
「ええ。わかったわ大馬鹿な愚者さん」
そう言ってローザは苦笑いを浮かべながら、父を呼びに行った。
大きな力を使えば、大きく物事を動かせる。
それは当たり前の理屈でしかないだろう。
では、クロスの使える最も大きな力とは一体何だろうか。
賢者としての名声?
元勇者?
それとも現役魔王とのコネ?
いいや違う。
答えは、危険度だけなら魔王すらも凌駕する種族、ピュアブラッドとのパイプである。
残念ながら、魔王の名前では目的達成には決して届かない、足りない。
経済危機に陥ってしまった蓬莱の里を救うには、魔王の名声だけを利用しても全然意味がないのだ。
そうなる前であるなら何とでもなったが、既に墜ちるという流れが生まれた現状ではどうしようもない。
何も悪くないのに、国が衰退しているのだから、国を動かす力だけでは届かないのだ。
だからこそ、とびきりの劇薬が必要だった。
ローザに呼ばれ、父であるヴァールはローザの部屋に訪れた。
クロスとヴァールは過去に交流があり、その時でお互いに友と思っている。
そしてクロスとエリーはローザを救った存在である。
その上で、クロスは今、死を覚悟している。
龍の逆鱗に、ピュアブラッドの触れてはいけない部分に触れるというのは、そういう事である。
クロスは、ヴァールの顔をまともに見る事が出来なかった。
「そ、それでクロス。私にお願いしたい事ってどんな事よ!? 私は高いわよ」
わざと我儘娘風に言葉にするローザ。
そうやって、少しでもクロスへの風当たりを軽くしようとしているのは誰が見ても明らかだった。
「……内容で言えば、旅行をしてもらいたい」
「ん? 旅行?」
「ああ。きっと楽しめると思うぞ。俺は楽しかったし」
「……それで、どういう意図があるか、隠さず伝えて貰って良いでしょうか?」
冷たく、殺意しか感じない声でヴァールはそう尋ねて来た。
「め、名声を稼ぎたいんだ。良い場所だったから」
「それならローザを使わずとも他の方法でも良いではないですか。アウラ様などで」
「アウラでは足りないんだ」
「……わざわざ、娘である理由は、ピュアブラッド全体を巻き込みたい。そう思って頂いても?」
「……ああ、そう思ってもらっても構わない」
「つまり、娘をピュアブラッドを誘う為に利用していると?」
「ああ。そうだ」
その言葉に、ビリビリとした空気が部屋を支配する。
説得や、内容は後回し。
誠意があると、理解してもらえる事を祈るだけ。
ただその為に、聞かれた事だけをクロスは素直に答えた。
例え、ヴァールが怒りに満ちても。
「わ、私は行きたいな。色々なところに行きたいって最初から言ってるし。ね? お父さん」
「……そう、ですね。ですが……それは何も利用されているとわかっていかなくても、いくらでも良い場所は用意できます。わざわざその様な場所に行く事はないでしょう」
「で、でも、クロスが私に頼ってくれたから! 私を助けてくれたクロスが、私に助けを求めてるんだよ。お父さん!」
その言葉で、ヴァールの顔が困惑の表情となった。
娘の為に怒る部分である。
ピュアブラッドとして戦う部分である。
それがわかるのだが、娘の必死な形相と、命を天秤に賭けながら誠実に対応するクロスとエリー。
怒りを収めるには、納得する状況となりヴァールは小さく溜息を吐いた。
「……ローザ。貴女にそう言われると怒りは消えてきます。ですが……正直好ましくないと思ったのは事実なんですよ」
「あーその、さ。そろそろ飴玉の如くメリットでのゴマすりをして良いか?」
あくまで誠実な対応を心がける為に黙っていた部分を話すと言葉にするクロスに、ヴァールはこくんと首を動かす。
それを見てクロスはエリーに視線を向け、エリーは一言、満面の笑みで訊ねた。
「家族旅行とか、興味ないでしょうか?」
ヴァールの顔から、全ての表情が消え去った。
茫然とした顔で、言葉を噛みしめる。
それは、麻薬よりも中毒性があり、どんな血液よりも、幸福物質が出る様な、そんな言葉だった。
「どゆことエリー?」
「それはですねローザ様。この辺りと全く違う景色、全く違う風土、食事をお二方で堪能しませんかというお誘いです。私達の目的はピュアブラッドのローザ様とヴァール様、お二方両方に楽しんで貰う事。ですから、家族旅行以上に適した提案なんてある訳がないじゃないですか」
「へー。面白そう。どんな場所?」
「そうですねぇ。室内は椅子がほとんどないです。あと、主食がパンじゃなくてお米かそれ原料のお餅という食べ物です」
「お餅ってどんな食べ物?」
「真っ白で、名前の通りもっちもちでとても伸びます。美味しいですよ?」
「へーへーへー。良いねなかなか楽しそう。……でも、お父様は興味ない感じかな?」
そう呼びかけられ、トリップしていたヴァールは意識を戻した。
「い、いえ。そんな罠に……。流石にそんな都合で娘を……」
「旅行先でお揃いの恰好をする親子。手を繋いで街を歩いて、美味しい物を食べて二人で仲良く暮らす。偶にはそんなゆっくりした時間も大切じゃないか? 長い時間生きているのなら尚の事な」
「……くっ。流石我が友クロスさん。私の弱い部分を良くご存知で。とは言え、まだ奥が見えません。何か隠している様子が見える。それが見える限り私はテコでも動かな――」
ローザは、上目遣いでくいくいっとヴァールの手を引いた。
「――お父さん。一緒に行こ?」
「はい行きましょう」
でれーっとした笑顔で、ヴァールはそう答える。
テコでも動かないと言った男は、娘にとことんまで甘かった。
「これ、エリーが作った旅行の案内。そこそこの情報量あるから読み応えあると思うぞ。じゃ、出かける準備が出来たら教えてくれ。案内するから」
そう言ってクロスはエリーお手製旅の友を置き、エリーと共に部屋の外に出た。
「……あれ? クロスどうしたんだろ?」
慌てて去っていく様子のクロスを見てローザは首を傾げた。
「……さすがは元勇者という事ですよ。とは言え、もしも一線を越えていたら、友とは言え容赦はしませんでしたが」
「ん? お父様何か言った?」
「いえ何も。とりあえず読んでみましょうか? ローザはもう字とか読める様になりましたか?」
「んーあんまり。でも頑張りたいから一緒に読んでくれる?」
「喜んで」
その言葉を聞き、ローザはヴァールの膝の上に座り渡された本のページを開いた。
トイレまで保ったのは、運が良かっただけだろう。
盛大に胃の中身をトイレにぶちまけながらクロスはそう思った。
正直言えば、舐めていた。
魔物を、吸血鬼を、ピュアブラッドを。
自分の力を過信していた。
元勇者で、今は魔物としての肉体を持ち、強くなった実感があった事を。
久方ぶりに、クロスは感じた。
絶対的に超えられない力の差、その差がある相手からの殺意を。
ヴァールはただ、怒り、殺意を向けただけ。
それも友であり恩ある相手だからかなり手加減してくれて。
その上で、ローザが極力庇ってくれて……。
そのお陰で、何とか震えを抑えギリギリまで吐かずに持ちこたえられた。
手足ががたがたと震え立てなくなる。
胃液が容赦なく逆流し背中から全身に恐怖の寒気が広がる。
ただただ怖かった。
力の差が、殺意が、その種族の壁が、絶対に越えられない大きな境界線が。
もし、一手でも間違えたら?
いや、例え何も間違えなくても、相手の機嫌次第でクロスは死んでいただろう。
それもエリーを巻き込んで。
そうならなかったのは、ローザが庇ってくれたからと……それと、ほんの少しの幸運があったから。
ただ、それだけ。
本当に、運が良かっただけだった。
「はは……。なっさけね」
そう呟くと同時に再度吐き気が戻ってきて、再度胃液を吐き出す。
エリーには付き合わせて悪い事をしたな。
そんな事を想いながら、クロスの顔は恐怖で引きつる。
時間差で、どんどんと怖さがぶり返してきていた。
結局クロスがトイレから離れられる様になったのは、それから一時間後の事だった。
「お帰りなさいクロスさん。さて、次の準備を始めますよ」
そう言葉にするエリーの顔はクロス同様青白い。
だけど、エリーはそれについて何の不満も言わず、何の泣き言も言わなかった。
何も言わず、ただ、従者として目的の為に動き続けた。
「あー、とりあえずエリー。先に風呂に入ろうか。というか俺は入りたい」
口の中は気持ち悪く、体は冷や汗でぐっしょり。
ついでに気持ちを一旦リフレッシュしたい。
「奇遇ですね。私もそう思っているところでした。では一時間後に集合という事でよろしいでしょうか」
「ああ。悪いな。……エリー。現時点での作戦成功率はどの位だ?」
その言葉にエリーは微笑んだ。
「クロスさん。あんなリスクを背負った上で低い成功率の作戦を実行したいですか?」
「そんな無意味で自殺でしかない事したくねーわ」
「でしょ? 成功率は……まぁ、硬玉屋さんの練度次第ですね」
「なら百パーセントか」
「ええ、私もそう思います」
そう言って微笑んだ後、エリーはぺこりと頭を下げ後ろを振り向き歩き出す。
それを見た後、クロスも風呂場に向かって移動を始めた。
ちなみに、男性の風呂は現在清掃中だった。
クロスは久方ぶりにいじけたくなった。
ありがとうございました。




