――
一応、アリスはステラ相手に剣を送り込んでいるがその行動にあまり意味はなく、もはやほとんど惰性となっている。
ステラがこちらに影響を与えてくる程の戦力でないというのもあるが、ステラに構ってあげる程の余裕が今のアリスにはないからというのが大きい。
それだけクロスを相手にする事はアリスにとってもしんどい事であった。
とは言っても……そのおざなりで惰性程度の剣でさえ、ステラにとっては強敵であるが。
少し前の様な熟練剣士の動きはせず、ただぷかぷか浮いて時折攻撃するだけ。
ほとんど単純行動しかしてこない。
それでも尚、壊せない。
概念まで昇華したステラの斬撃を、アリスは間接的で半減した純粋なる剣技のみで対処していた。
ただ……対処出来ないのは単に実力の問題だけではない。
現在ステラの精神は、正直戦いどころではなかった。
ぼろぼろと涙を零し、今にも膝が崩れ落ちそうになっている。
手は震え心は罪悪感に染まり、生きている事を後悔する。
見てしまったからだ。
クロスの正体を、自分の間抜けさを。
追い詰められたクロスが己の本質を直視した時、ステラもまたそれを共有にて理解してしまっていた。
これまで考えて来たクロスの苦しみは、ステラの単なる想像であった。
苦しかっただろう、悲しかっただろう、辛かっただろう、怖かっただろう。
クロス自身があまり口にせず考えもしないから、それは大半が想像で補う事となっていた。
だけど、今見た物は違う。
本当の、クロスの苦しみだった。
自分という存在が与えた、追い詰めた証。
共有していても尚今まで見れなかった程にその苦しみはクロスに根深く結びついていた。
クロスという人格を塗りつぶす程に。
あの日、人間だったクロスを殺した貴族やら役人やらは皆殺しにした。
復讐の為、恨みの為に殺しきった。
だけど、違ったのだ。
本当に復讐すべきは、クロスを苦しめ死を選ばせたのは――勇者クロードだった。
「ステラ! 気を抜かないで!」
肩の上からエリーは叫ぶ。
エリーもその気持ちはわかる。
今のステラと同じ立場であったならば、きっと自分はとっとと自害している。
わかるけれど、それは不味い。
そんな理由でステラが死んだら、全てが終わってしまう。
負けるのはもうこの際構わない。
アリスが勝ってクロスが死んで、世界が滅んでバッドエンドで終わりました。
そんな結末でもエリーは納得出来てしまう。
それだけの戦いが、天上なる戦いが、少し先に繰り広げられている。
地面と空の区別がなく跳びまわり、眼にもとまらぬ速度で衝撃と閃光をまき散すそれは世界の終わりとして十分過ぎる物であった。
だけど――結末を迎える事が許されるのは、クロスとアリスの戦いの結果でのみ。
ステラが油断して死んだなんて内容で終わる事だけは、とてもではないが納得出来ない。
騎士として、主以外が下す結末を認める訳にはいかなかった。
それでも、ステラの涙は止まらない。
あの日クロスが心を痛めたその理由は、その内容は、自分が思っていたよりも何倍も重たく苦しいだった。
自分という存在は、クロスの人生全てを苦しみで塗りつぶしていた。
勇者なんて下らない暴力装置が、クロスに死への逃避さえ許さなかった。
そんな自分の罪に、ステラは押しつぶされそうになっていた。
終わりの始まりは、誰もが予測出来ない物であった。
クロスがアリスに対抗出来ている最大の理由は、その愛にある。
クロスは愛により誰よりもアリスを観察する。
アリスは愛を拒絶する事により、クロスの理解に対策を取れない。
理解と拒絶。
相反する感情がかみ合い、まるで心を読むかの様にアリスの行動を先読み出来ている。
それが最大の理由。
そしてそれ故に、誰もが想像出来ない事が起きた。
アリスの斬撃をクロスは剣で防ぐ。
鋭い斬撃でかつ触れるだけで消し飛びそうな魔力は濃厚に込められている。
だが剣圧そのものは軽く、同時にどこに来るかも予想出来る為そう怖い物ではない。
そうして受け止めて……手応えに違和感が残った。
剣圧が軽いのは事実だが、あまりにも軽すぎる。
瞬間、アリスはニヤリと笑い事前に詠唱していたアリスはほぼゼロ距離で魔法を放った。
「死に晒せ。勝利の星霜矢!」
叫び、クロスに魔法を放つアリス。
だけど、クロスもまたアリスのその行動を予想出来ていた。
アリスならその位すると信じていた。
アリスならば、どこかでリスクを犯し一撃を叩きこみに来る。
追い詰められたからこそリスクをどこまで許容するかで考え、そうして自分で切れる最低限のリスクを見極めて。
それゆえの密着大魔導。
クロスは完全に予測済で、そしてそれを受ける為に魔力も正面方向に全力で展開していた。
そう――互いにそれは予想通りの行動であった。
魔法を放つその瞬間、アリスの身体がぐらっと揺れ狙いがズレた事以外――。
クロスはアリスを完璧なる存在と捉えている。
だけど、そんな訳がない。
全身ありとあらゆる死病に侵され今を生きる事が限界であるアリスが完璧な訳がない。
貧弱な体力、久々の戦闘による恐怖、宿敵相手への不気味な気持ち。
気持ちは常に張り詰めっ放しである。
つまり……アリスもまた、精神的には相当の疲労をしていた。
大魔導を放つその瞬間、急激な魔力消耗から意識が一瞬途切れ、自分の体調を緩めてしまった程に。
それは単なるアリスのミスである。
だけど、クロスにとって最悪のミスだった。
放たれた一本の矢はクロスに当たらず、静かに横切っていく。
アリスにとっても想定外の行動ゆえに、クロスも予測なんて出来る訳がない。
そしてその先には――ステラが居る。
これまでどれだけステラを狙われても対処出来た。
それはアリスの意思があったから。
だけど、この結果にアリスの意思はない。
クロスの為に放った最大火力の攻撃呪文が、まっすぐステラを目掛け――。
「不味っ――」
どうすべきか、クロスは少しだけ悩んだ。
どうすれば救えるか、どうすれば被害を減らせるか。
悩んでいたけれど……。
その瞬間、クロスはそれを目にした。
ステラが泣いている、その光景を。
苦しそうに、辛そうに、ただ静かに。
それを見てクロスの中から、全ての感情が消え果てた。
気づけばクロスは何も考えず、何の作戦も立てず、全力でステラの方に走っていた。
全ての結果が、ステラの手の平の外であった。
受け止めようと必死に両手を広げても、全てが零れ堕ちていく。
ステラの手は、何かを護るにはあまりにも小さすぎた。
襲い来る魔法を避ける事も出来ないし、自分を庇う為に来たクロスを止める事も出来ない。
光より早い世界はただ認識する事しかステラには叶わない。
だから、ただ見ている事しか出来なかった。
クロスが自分を庇って、壊れるその瞬間を。
光の奔流、音なき白の爆発。
そしてその先に居たクロスは――あまりにも絶望的な状況となっていた。
ただ何とか生きているなんて絶望的な。
トレイターが護ってくれた。
それ故にクロスはまだ生きている。
ただその代わり、トレイターはその刃を失っていた。
残ったのは柄の部分のみ。
トレイターだけでなく、クロス自身もまた戦えるとは思えない状態だった。
トレイターの防護が届いた左腕から離れる程に、負傷の影響は大きくなっている。
最も大きいのは、消失した右腕だろう。
右肩に乗っていたシアが、ぽてんと落ちる。
シア自体肉体的には何もない為ダメージはないが、乗るべき肩が削れていた。
「あ…あ……ああ……」
ステラは何も言えない。
罪悪感の中、もはや言葉さえも出てこない。
自己嫌悪以外の感情は全て塗りつぶされて――。
「さっきさ……実は、ステラである事忘れてた」
そう言って、目の前のボロボロになったクロスは笑った。
「――え?」
その意味が、ステラには全くわからなかった。
だけど、クロスは笑っていた。
まるで、草原に流れる風の様に穏やかに。
「俺も随分とまあ勘違いしてたみたいだなぁ」
残った方の手で、トレイターの柄を持ちながらクロスは後頭部を搔いた。
「……どういう……事?」
「まあ、何と言うか……さっきのは別にステラを助けに来た訳じゃないんだ」
「でも、私の所為で……」
「いや、ステラじゃなくて――」
そう、さっきステラの前に立った時のあの感情は、愛情じゃなかった。
感情でさえもなかったかもしれない。
なにせあの瞬間あらゆる考えが消し飛んでいた。
ステラだと認識さえしていなかった。
涙を流すステラを見て、弱者であると思えて、そうしたら――ただ体が勝手に動いていた。
相手が誰とも認識するよりも早く、クロスの体は動いていた。
だからつまり、ただ弱者を庇う為だけに、クロスは身を盾にした。
だからステラではなく誰であっても、庇うべき相手ならばきっと同じ事をした。
そしてその背後にて涙を流すステラを見て、ようやくクロスは自分の思い違いに気が付く。
そこに居たのは、静かに泣く事しか出来ない女性。
絶対的正義を背負う存在なんかではなくて、まごう事なき弱者であった。
ステラを特別視していた自分の色眼鏡が、すっと消えていく。
まるで肩の力が抜ける様な、または全身がぐにゃーっと脱力する様な、そんな気持ち。
つまり……。
「俺、やっぱ馬鹿だなぁ」
そう言って、微笑む。
ぽろりと、ステラの目から涙が零れる。
先程までの悲しみの涙でも、罪悪感に潰れての涙でもない。
今のクロスの心の働きを見て、クロスの考え方を、決意を見ての涙。
それは、ステラにとっては希望の涙だった。
そう、クロスは誰が相手でも、弱者を護る為体を張った。
そしてこれからもそうし続ける。
他の誰でもなく自分の為に。
ようやくそれを、クロスは自覚した。
「ずっとさ、背中しか見えなかったんだ。どれだけ追いかけても、俺は全然追い付けないと思ってたんだ。だけどさ、これだけの力を持ってもそうって事は……そういう事じゃなかったんだ。ただ、俺が背中しか見ようとしなかっただけなんだ。だからさステラ。俺もちょっとだけ、勇気出してみるよ」
「うん……うん……うんっ!」
何度も袖で拭っても、涙が止まらない。
ずっとそう夢を見て来た。
ずっとそうあって欲しいと思っていた。
ずっと、クロスはそうなんだと心の底から叫んでいた。
それがようやく叶う。
クロスにとって、ステラにとって、彼らにとっての夢が、ようやく今――。
彼らは不器用で、相当遠回りしなければそこに辿り着けなかった。
たった一歩だけの話なのに、ここまでそれを受け止められなかった。
だからこれは――彼と彼女にとっての、ようやく踏み出した始まりの一歩であった。
「ステラ、悪いけど貰うね」
「最初から、私達は皆、クロスこそがそうだと思ってたよ」
「そっか――そうだったんだな」
「うん。そうだよ。私の勇者様」
ステラはようやく、その重荷を下ろした。
何も嬉しくない、無駄に重いだけだったその荷物を。
クロスはようやく、それを背負った。
憧れの背中から、それを託されて――。
賢者なんて名前欲しくなかった。
努力しきれない上に自分勝手な自分らしくないと思っていた。
魔王になんてなりたくなかった。
アウラの様な尊敬すべき女性でさえやりきれないのに自分に出来る訳がないと知っていた。
皇帝なんてもっての他だ。
そう……欲しかったのは一つだけ。
『勇者』
ただそれだけが、クロスにとって憧れ欲した名であった。
「悪いんだがトレイター、もう少しだけ付き合ってくれ」
クロスは柄だけとなった相棒を握り、力を込める。
そして――光の刃を生み出した。
白の力をまとめ上げた、眩い純白の刃。
己の力であると自覚した白は主の危機に応えんと激しく輝いていた。
「……応急処置程度だけど」
シアはステラの肩に乗りながらそう呟き、クロスの右腕を復元する。
肉体の損傷程度ならば幾らでも再生出来る。
だけど、魂の負傷まではどうしようもない。
先の一撃はクロスの魂と、魔力さえも削っていた。
「助かるよ。バランス悪かったからさ」
強がりを一つ吐きながら、クロスはアリスの方に向き、歩いて行く。
肉体の損傷、魂の損傷、魔力の欠落。
苦しいはずだ、痛いはずだ、辛いはずだ。
だけどそれを表に出さない。
誰かがその背を見る限り、希望以外を宿さない。
それがクロスの背負った物だった。
ステラは全身の力が抜け、ぺたんとその場に座り込む。
「……これか。これが……クロスの見ていた物かぁ……」
その背を見上げながら、ステラはそう呟き、くしゃっとした顔で泣きながら笑った。
確かに、その背を超えるのは無理な気がする。
クロスの背をきっと生涯越えられないだろうと、ステラが確信した。
自分が見せた幻影が本物になったその背は、眼を離せない程恰好良かった。
「最終ラウンドだ! もう少しだけ付き合ってくれや!」
クロスは左腕のみで光の刃を振り、アリスに襲い掛かる。
アリスは黒の刃で受け止め、クロスを睨んだ。
「お前は一体何なんだよ。本当いい加減諦めて滅びろ! どれだけしつこいんだ! 一体何のカビだ!? そもそも、その身体で私に勝てると思うのか!?」
今までのクロスなら、きっと勝てないと思うだろう。
肉体が万全でも、アリスに勝てるとは思えない。
だけど、今は違う。
「勝てるかどうじゃねぇ。勝つんだよ!」
鍔迫り合いの中、クロスは吼える。
心を燃やし、闘志を燃やし、魂を燃やし。
そうしてアリスを押しのけ、クロスは剣を振り抜いた。
力任せの強引な薙ぎ払い。
だけど、その時初めて、アリスは一歩後ろに下がった。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな――。
「ふざけるな!」
アリスは叫ぶ。
クロスの魔力は既に半減している。
それが満タンになる事は、アリスに並ぶ事はもうない。
クロスはトレイターという半身を失っている。
たぶん修復は可能だろうが、数か月はかかるだろう。
クロスは魂が傷付いている。
右腕は思う様に動かず、足も引きずる程。
戦う度に死期は近まり、その恐怖は既に襲い掛かっているだろう。
だというのに、勝てるわけがないのに……。
なのに、アリスは押されていた。
「何なんだ! お前は一体何なんだよ!?」
化物、怪物、化外、邪悪、狂気、憎悪、醜悪――理不尽。
アリスの中で感情が暴れ狂い、恐怖が暴走する。
クロスという不可思議な存在に体が竦む。
アリスは徹底的に、効率的に戦っている。
それでも尚、クロスはアリスを追い詰める。
剣技で勝っているはずなのに、剣戟の度にアリスは後退する。
気付けば魔法を使う余裕がなくなって、ただ追い詰められるだけとなった。
理解出来ない。
訳がわからない。
どうして弱体化したはずのクロスに負けそうになっているのか。
「ふざけるな!」
吼える。
まるで世界がクロスの味方になっているかの様な幻覚を覚えながら、理不尽に抗おうと吼える。
仮に、百歩譲って負傷を無視出来るとしても、トレイター分マイナスのはず。
それを更に譲って無視しても、先程の焼き回し以上の結果になる訳がない。
あの時のクロスは、確かに全力だったのだから。
こんな結果は存在しない。
存在して良い訳がない。
だけど、アリスは追い詰められていく
クロスは強くなった訳じゃあない。
ただ、心の差を埋めただけ。
「後ろに誰かが居る時はな、負けられないんだよ。――『絶対』に」
それはクロスが憧れ続けた背中の形。
クロードに押し付けて来た、存在しない理想。
押し付けて、押しつぶして、ステラを苦しめた罪。
だからこそ、クロスはそれを背負わなければならなくて――。
いや、そうじゃない。
背負いたかったんだ。
クロスにとってそれこそが、原初の憧れなのだから。
クロードの友になるよりももっと古い、最初の――。
「ふざけるな。許されるか。お前みたいな化物が、怪物が、理不尽が。お前は、お前は一体――」
『お前は一体、何なんだ』
ただそれだけが、アリスの中で繰り返される。
血を吐きながら、眼を血走らせながら、憎しみを燃料にアリスは動く。
そのアリスの刃をクロスは打ち上げ――そして。
「俺は――」
決意の言葉がアリスに届くよりも早く、クロスの刃がアリスを貫いた。
ありがとうございました。




