夜のひととき
そう、これは正当な権利である。
あれだけ丁寧に耳を触られたのだからもっと愛でられても――もとい、最初の約束通りこの身であますところなくあのお偉いさんに奉仕し罪を雪がなくてはならない。
そう、ケルベロス三位一体の桜花は思いながら……夜、クロスの止まる硬玉屋に侵入した。
三体同時でありながらその足音は一つのみで、しかもその一つもほとんど消えている。
それは完璧な隠密と呼んでも十分なものだった。
これこそがケルベロスの特徴。
複数体いても動きを完全に同期させ、同時に一瞬で連携を取れる事こそがこの種族の強みだった。
その上ケルベロスは元々夜間行動に優れた種族である為、足音を完全に消して移動するなんてのはお手の物である。
魔力で感知するエリーや、戦いの経験が長く勘に優れたクロスですら、今の桜花を察知する事は出来ないだろう。
そう、完璧に気配を消した桜花には、誰も気づく事はなかった――この店を受け持つ主を除いては。
桜花はクロスの部屋の前に立つ玉藍の姿を見て、ぴたりと、体を硬直させた。
硬玉屋の主にて蓬莱の里の長。
当然の話だが朱雀門副門番である桜花にとってその方は逆らえない様な目上の存在であり、同時に最も尊きお方となる。
そんな玉藍の顔は笑顔だが、その笑顔は酷く威圧的で、率直な感想を言うと、桜花は怖くて普通に怯えていた。
「夜分にようこそいらっしゃいました。それで、本日こちらに警邏が訪れるという報告は聞いていませんが、朱雀門副門番長殿?」
玉藍の、男であるなら腰から砕けそうな囁く声。
だけど、桜花にはわかっていた。
その声の主が、本当に怒っているという事が。
「ぴぃっ!」
変な声が出て、怯える桜花。
それを慰める様に微笑み、近づく玉藍。
傍から見れば微笑ましい光景であるのだが、桜花にはまるで『誰も助けが来ないぞ』と言われている様に感じていた。
「それで、どうしてこんな場所に?」
「いえ、その……そのですね……お詫びを、という事でその……」
そう言いながら三体はちらちらとクロスの部屋の方を見た。
普段あまり衣服に頓着せず、仕事がなくても鎧と兜を『服を考えたり髪を直すのが面倒だから』なんて理由で着る桜花が珍しくお洒落をしている。
それも、三体別々の姿で。
一体は赤い着物で、一体は短いスカート、残り一体は何故かスーツ調の服装だった。
普段の桜花は多少の差異はあれど似た様な服装を好む。
それは、三体共に同じ魔物であり、好みが全て似通うからだ。
だけどわざわざ、完璧に別の服装をしている。
それはつまり、相手の気に入る恰好を探るという意図があるのだろう。
「……名代様は高潔な方で、嫌な思いをさせたから体を使ったお詫びを、という様な事は望みませんし好みませんよ」
「で、では罪を助けてもらったお礼を……」
あせあせとそう言い訳をする桜花。
それを見て、玉藍はジロリと桜花を睨んだ。
「怒らないから、本心を話しなさい」
あせあせとする桜花は一転してしゅーんと大人しくなり、ぽつりと呟いた。
「強いお方だったので子種を貰いに来ました」
そう、それが桜花の本音。
別に深い理由も悲しい事情もない。
それどころか男性としての愛情すらあまりない。
シンプルで直情的で、気に入った部分は多いにある。
頭を撫でるのが、耳を触るのが上手かったという部分もある。
一緒にいて楽しそうとも感じた。
だが、それは愛情というより友情に近い。
ここに来た正しい理由は、シンプルな種族本意的考えから。
桜花の種族としての考え方は獣に近かった。
力強い戦いをしていたから、遺伝子を貰い、残したい。
ケルベロスは男女としての愛情が極めて薄く、代わりに忠義や敬愛という気持ちが強い。
だからこそ、時折脳が茹ったかのように子孫繁栄の為に無茶苦茶な行動をする事があった。
今回の様に。
玉藍は小さく、溜息を吐いた。
怒る事はない。
種族としての本能に従った者に怒りを覚える程無駄な事はない。
ただ、そのままにしておくわけにはいかなかった。
「朱雀門副門番長。身内であるなら、蓬莱の里の者同士でお互いが納得しているなら、私は何も言いません。ですが、今ここにいるのは魔王様の代理であり、そしてここは我が城の硬玉屋です。申し訳ありませんが、ここを通す訳にはいきません」
それはここを任された者の矜持、使命。
最低でも、この硬玉屋の教えを身に付けた者以外に、この場で伽の相手をさせる事だけは、玉藍は許すつもりはなかった。
「は、はい……。申し訳ありませんでした。里長様のお相手を取る様な事をしようとして……お二方の邪魔をする前に、帰ります……」
しゅーんとした態度で、そのまま桜花は音もなくフェードアウトしていった。
「ちょ、ちょっと! あ、あての相手だからとかそういう事とかじゃなくって、そないな意味ちゃ……う……」
慌てて止めようとするのだが、その声は虚空に響くだけ。
桜花はとうに硬玉屋の外に出ていっていた。
「あの子は、ほんま話をきかん子やなぁ。もう……」
そう言葉にし、玉藍は居心地悪そうにその下ろした長い髪を、くるくると弄んだ。
「ひす……じゃなくって玉藍。俺に用事か?」
騒がしい声が聞こえてかクロスが扉から顔を出してくる。
その様子に少しだけ驚いた顔をした後、玉藍はにこりと微笑んだ。
「なーんもあらへんよ。起こしてしもたか? 堪忍な」
「いや。まだ寝てないから大丈夫さ。……今は仕事モードじゃないんだな」
そう言って微笑むクロスを見て、自分のうかつさに気づき玉藍は困った顔をした。
「こほんこほん! 失礼しました。ええ、大丈夫です」
「別に俺の前じゃ素のままでも良いんだけど。むしろその方が嬉しい位だ。ところで、さ、一つ聞いて良い?」
「……な、何ですか?」
「体調とか悪くない? また寝不足とかになってない?」
「へ? いえ、大丈夫ですが……どうしてですか?」
「さっきから顔が赤いから気になって。あまり手伝えなくてごめんな」
この気持ちを、この感情をどう表現したら良いのだろうか。
玉藍はそれもわからず困った顔のまま、そっと窓の外にある夜空の月を見上げた。
「ちょっと、のぼせてしまった様で」
「それだけなら良かった。長風呂は気を付けような」
そんなクロスの言葉に、玉藍はにこりと微笑んだ。
飄々として、どこか抜けていて。
そんなクロスと話していると、気持ちがすーっと、落ち着いて行く。
元々、そういう気性なのだろう。
クロスにとってはあまり良い事ではないのだが、話していると、落ち着いてくる。
頬の熱さも慌てた心境も消え……夜空の月を純粋な気持ちで美しいと思える程には落ち着いた気持ちとなった後、玉藍は本当に、心の底から湧き上がる様な穏やかな笑みを浮かべた。
「クロスさん。お部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
ちょっと予想外の言葉に、クロスはきょとんとした顔の後、優しく微笑んだ。
「どこであろうと、美女の誘いを断る口を俺は持ち合わせてないさ。と言っても、間借りしただけで俺の部屋じゃないけどね」
そう言ってクロスは玉藍を部屋に案内した。
「青竜門門番長が喧嘩を売ったという事でこれ以上恥を掻く事はないと思ってましたが……まさかまだ恥を更新するとは思いませんでした。本当に申し訳ありません。ただ、謝らない方が良いですよね」
「ああ。そうだな。喧嘩自体は割と楽しかったから。ただ……まあ……その……」
「ええ。報告は聞き及んでいます。門番の管理の徹底に努めましょう」
クロスが何を望み、何を言いたいのか玉藍は理解出来た。
自分の事より、誰かの事。
『門番という地位を利用して悪さをする不届き者は許せない』
そう言いたいのだという事位は玉藍でも察する事が出来た。
「いや。口ではそういうけどそれがとても難しい事は知ってるんだ。どれだけ上が頑張っても、どうしても末端には目が行き届かないし」
「特に朱雀門は色々と独特ですからねぇ……。とは言え、手はあるので」
「ほぅ。俺にわかるかわからないけど、参考までに聞いて良いか?」
「ええ。朱雀門副門番長に部下の管理、徹底化を任せます」
「……なしてそんな事に?」
「彼女、とても優秀なんですよ。書類関係なら私を除けばこの里で一番じゃないですかね」
「……失礼な事だが、とてもそうは見えないんぞ」
破天荒な上に全く話を聞かない性格に加えて、耳を撫でた時のあの甘え方。
あの甘え方は正直下半身に来る様で色々つらかった。
そんな二つの大きなイメージの所為で、クロスの中で桜花達は纏めて『頭の悪い犬』に分類されていた。
「クロスさん。彼女は常に三位一体です。常に情報を更新出来、常にお互いの思考が考える事なく理解出来る間柄。つまり、学ぶ速度は本来の三倍、その上書類の処理速度も常時三倍。彼女だけで何体分の仕事が出来るのか、調べるのも難しい程に桜花は優秀ですよ」
「ああ……そりゃ強いわ」
「ですので、彼女に権限を投げて報告書を作成させます。それで一旦はですが、問題は解決するでしょう。……ちょっとした八つ当たりも兼ねているのは否定しません」
その言葉にクロスは小さく噴き出した。
「玉藍が仕事に感情を持ち込むの初めて聞いたよ」
「だって……事の発端は桜花さんですし。その所為で仕事が増えてしまって……。彼女が一番適しているのも嘘ではないですし」
「ま、桜花も罪を雪ぎたいって言ってたし良いんじゃないかな」
「ええ。それでその事で思い出したのですが……お体の方はもう大丈夫でしょうか?」
「体って?」
「殴り合って、倒れたと聞いた時は正直体の芯から冷える様な恐怖を味わいましたよ」
「ああ。大丈夫。勝ったから」
そう言って自慢げに微笑むクロスに玉藍は苦笑いを浮かべた。
「そういう事ではなくて……。とは言え、大丈夫そうですけどね」
「ああ。エリーに治してもらったのもだけど、薬が結構効いたみたいでもう痛みどころか違和感もないぞ」
「ええ。朱雀門の傷薬は良く効きますから」
「そなの?」
「はい。年がら年中喧嘩している魔物だらけの街ですからね。出来るだけ早く治して次の喧嘩がしたいって理由で作られた薬ですし。だから傷には相当強いんですよ」
「はー。なるほどねぇ。お土産に買えそうなら買っとくか」
「買わなくても、欲しいと言えば箱でもらえますよクロスさんなら」
「え? 何で?」
「朱雀街でクロスさん今やちょっとした……ではないですね。大層な人気者ですから」
「え? いやだから何で?」
「あそこって気性の荒い魔物が多く集まってるのはご存知ですね? 確かに、あそこの住民は相当気性が荒いです。ただ、だからといって性格が悪いという訳でも自分本位と言う訳でもありません。手は早いですけれど、基本善良。そういう魔物が多いです」
「ふむふむ」
「そういう方にとって喧嘩というのは会話よりもお互いを知るコミュニケーションの様なもの……らしいです」
「ほうほう。んで、どして俺が人気者? 元勇者の仲間だって知れ渡った? それともまた賢者の知名度?」
玉藍はふるふると首を横に振り、微笑んだ。
「真正面から火伏を、朱雀門門番長を打ち倒したからですよ。避けず、逃げず、相手の土俵で。しかも楽しそうに戦い、その上で最後まで立ちながら勝鬨を上げ、そして前のめりに倒れる。そんな事をしたんですから、今朱雀街ではクロスさんの話題で持ち切りですよ」
そう言われ、クロスは困った顔ではにかんだ。
「……はは。何と言うか、照れるな」
「へ? こういう事に慣れてるのではないのですか? 昔から今まで、ずっと英雄でいるのですから」
「いや……。慣れてないよ。今も昔も。特に、俺そのものが褒められる事はね」
恥ずかしそうに微笑むクロス。
その様子が、玉藍には何故か胸が締め付けられる様に痛かった。
クロスがただ笑ってるだけのはずなのに、涙が出そうになる位。
何故ならば、求めてないのに里長となった玉藍には、クロスの気持ちが痛い程に理解出来たからだ。
今、玉藍の事を立ち位置なしで見る者は、誰もいない。
そもそも、玉藍すらそういう立ち位置としての名前なのだから、名前すら玉藍は失っている様なもの。
だからこそ、玉藍はクロスの気持ちが痛い程理解出来ていた。
「元勇者だと知っても、賢者と知っても、朱雀街の方は態度を変えませんのでご安心を。例え知っても『へー凄いな』で終わるでしょう。彼らの中にあるのは、自らの意思で門番長に挑み、喧嘩をし、最後まで立っていた勝者である貴方の姿です。闘いを楽しみ、笑い、決定的な勝敗が着いても恨みを残さず門番長と友になったその姿勢を彼らは評価しました。わかりますか? 彼らは、素の貴方を見て、凄いと評価したんです。いえ、逆ですね。朱雀街の方々は、素の貴方だからこそ、気に入ったという事を覚えていてください」
「ははっ。そっかそっか。ちゃらんぽらんで負けず嫌いで、子供っぽい、そんな俺が気に入られたのか」
「はい。あそこにいるのは、皆そんな同類ばかりですから」
「そっか。……それは、嬉しいな。うん、本当に嬉しい」
そう言って、クロスは笑った。
初めて、本当の自分が見知らぬ誰かに評価された様に思えて、初めて、あのかつての仲間達に少しだけ追いつけた様な気がして、本当に嬉しかった。
その後、特に他愛もない話をして、そろそろ寝る時間かという位にクロスはふと、疑問に思った事を口にした。
「なあ。もし失礼じゃなかったさ、聞いて良いかな?」
「はい。どうぞ何でも聞いて下さい」
「えっとさ、玉藍の種族って、結局何なんだ?」
その言葉を聞いて、玉藍は少し考え込む。
別に隠している訳でもないし、隠す様な事でもない。
少々異形であるからもしかしたら人の転生であるクロスには怯えるかもしれないが、すぐに慣れるだろう。
クロスがそういう男であると、玉藍は知っているからそれに怯える事はなかった。
ただ、普通に教えるのも何だか面白くなく……ついでに言えば、再挑戦の良い機会でもあると考えた。
恩返しの、良い機会でもあると。
「それを教えるんは……少々面倒なお約束があってなぁ。あてのお約束、聞いてくれはります?」
昔の言い方、はるか彼方の方言を出し、玉藍ではなく硬玉屋に勤める翡翠としての自分を出していく。
さきほどよりも体の距離を近づけ、見上げ、否が応でも自分を意識させながら。
クロスがその行動に反応し、生唾を飲み込むのを見た後、翡翠は妖艶な笑みを浮かべ、そっと離れた。
「そ、それで、条件って?」
「あら。そんでもあての事、知りたいって言って下さるの?」
「そりゃ、知れるなら知りたいかな。美女の事は何でも知りたいし」
「綺麗やなくて……あての事を知りたい言うてくだはらんと、嫌ですわぇ。あてが膨れてええの?」
そう言いながら、翡翠はそっと布団の上に腰を下ろした。
「え、えっと……ごめん。うん。玉藍の事を――」
「今は、翡翠って、昔の名前で呼んでおくれやす」
「翡翠の事、もっと知りたいかな」
「……ふふ。そないに求めて貰えはるんは、女冥利に尽きるわぁ」
そう言いながら、翡翠はぽんぽんと、自分の隣を叩く。
こっちに来いと言わんばかりに。
クロスは灯蛾の気持ちがとても良く理解出来た。
わかっていても、それに逆らう事など出来ない。
逆らおうなんて発想すら、クロスの中にはなかった。
誘われる様に自分の布団に移動し、その布団の上に何故かいる翡翠の隣に座る。
その後、翡翠はころんと横になり、体を預けた。
「あての種族が何か知りたいなら……最後の条件は……あてと、寝る事や言うたら、あんさん、どうしはります?」
その言葉に誘われ、クロスも翡翠と一緒に横になる。
翡翠は、作り物の、妖艶な男に媚びる笑みを浮かべていた。
その僅か五分後にはクロスは撃沈し、見事爆睡していた。
隣にいる誰かなど何も気にしない様、気持ちよさそうに。
どうしてこうなったんだろうか。
手応えは、確かにあった。
男を手玉に取る事など翡翠にとっては容易い事。
手応えもあり、間違いなくその気になっていたはずである。
名代がこんなに色に弱くて大丈夫なのかと思う位に。
だが、クロスは自分に手を出さなかった。
どうしてだろう。
こんな事、今まで一度もなかった。
しかも今回は前回と異なり、クロスが嫌がる様な理由は一つもなかった。
翡翠は、何も無理していなかった。
助けてくれるって言ってくれて嬉しかった。
どうしようもなくなった時引導を渡す相手が出来て気持ちが楽になった。
そのお礼として、久方ぶりにこういう事をするのは本当に嫌ではなく、本心で自分の意思で、玉藍は翡翠としてクロスを誘った。
にもかかわらず、クロスは手を出さなかった。
どうしてだろうか。
その気ではなかったから。
自分が好みではなかったから。
一瞬そう考えたが、その可能性はない。
自分が好みでなく、抱く事が出来ないという客を一目で見分けられぬ様ではこの硬玉屋に勤める事は出来ない。
ではどうしてか。
昼間の殴り合いの疲労が残っているから。
それはきっと正しいだろうが、それだけではないだろう。
では、一体どんな理由があったのか。
その理由を考えて、そして翡翠は気づいた。
あまりにも間抜けで、あまりにも情けない理由に……。
クロスが『寝る』という言葉を額面そのままに受け取ったのだという事に――。
「なんとまあ……ほんまお馬鹿さんやねぇ。こないな機会そうそうないやろに……」
今のクロスの立場なら気軽に女を抱く事など出来ないだろう。
だからこそ、そういう意味も込めての慰安としても考えていた翡翠はそう呟き、苦笑いを浮かべる。
ただ、手を出されなかった事は、それはそれで翡翠は嬉しかった。
何故ならば、どれだけ鈍かろうと馬鹿であろうと、いつか必ず気が付くからだ。
今回、自分がどういう意図でここに来て、寝ようといったのかを。
あまりにもわかりやすいこの状況をいつか思い出せば、必ずクロスは気が付くはずだ。
そしてもしその時が来たら、クロスはどんな反応するだろうか。
考えるまでもない。
必ず、悔しがるだろう。
『あの時抱けたのにどうして俺は寝てしまったんだ!』
そんな風な事を叫びながら。
こんな良い女を抱く機会を勘違いでフイにしたのだ。
気づいた時悔しがらない訳がない。
それを考えると、翡翠はにやけるのを我慢出来ない位嬉しくなる。
だってそうだろう。
抱けない事を心の底から悔しがるという事は、泣く程に惜しむという事は、自分という存在がクロスの中に『抱けなかった良い女』として永遠に刻まれるという事でもある。
それはそれで、女冥利に尽きるという話だ。
だからそれはそれで翡翠にとって嬉しい事である事は間違いない。
だが、手を出されなくてプライドに傷が付いた部分も確かにあった。
多少ではあるのだが、それでも、確かに翡翠は悔しかった。
だから翡翠は寝る前に、そっと服を着たら目に付かない部分、クロスの首元の下の方に、唇を押し当て、痕を……自分の痕を遺した。
「見える場所は……まあ、勘弁してあげまひょ。ほんま……いけずなお方」
翡翠はクロスの胸元に倒れ込んで体を預け、その暖かさに包まれながら目を閉じた。
ありがとうございました。




