クィエル
考えてみればまあ、馬鹿が付く位に当然の事であって、後から考えたらたんなる笑い話でさえあった。
ミリアは天使を嫌悪している。
天使である事を誇ろうとしていたからこそ、その醜さに耐えきれなかった。
それこそ己の翼を罪の証とし引きちぎる位に。
だからこそ自分は違うと、自分は天使なんかじゃないと思っていた。
じゃあ、アリアはどうだ?
機械と神の合いの子で愛の子。
そんな彼女は自分を人間とも思っている。
それはおかしい事だろうか?
いいや、おかしくない。
彼女、ヴィクトアリアは神の子である事を自慢し、人間である事を誇り、己を光天使であると認識する。
天使として生まれたのに天使である事を否定するミリア。
己を人『でも』あると定義するアリア。
どっちが正しいと考えるならば、それならば――圧倒的に後者が正しい。
少なくとも、余人が見て好感が持てるだろう。
つまり何が言いたいのかというと……天使を嫌悪し過ぎて、ミリアは視野がものすごく狭くなってしまっていた。
天使の中の四機が地上に降り、何かを持って集まっていた。
形状で言えば、きっと丸太と呼ぶのが一番近いだろう。
丸太と呼ぶには少々ばかりサイズが巨大過ぎるが。
天使四機がかりでないと持てない丸太の様な巨大な金属の棒。
それを持って……そして……。
「よいしょー!」
四機は何とも天使らしからぬ掛け声と共にVOIDにその金属棒を叩きつける。
叩きつけるというよりも、貫いたという方が近い。
その用途を見れば、それが何なのかは理解出来る。
それは、攻城杭。
城の扉を開ける為に使われる、古式兵器の一種を魔改造した物であった。
巨大金属爆裂杭なんて火力全振りの頭の悪い兵器が直撃したVOIDは存在さえ固定出来ない程に砕け散り、更に周囲の十数機も吹き飛ばされた。
「よいしょー!」
更に突撃し、爆薬が炸裂。
ドーンと花火の様な音と共に手に伝わる振動とVOIDが吹き飛ぶその姿。
ふざけた外観はともかく、割と戦いにはなっていた。
「それでミリア様。これからどうするのですか?」
不安げに、天使は尋ねる。
よくわからない兵器を作り出した事はまあ良いとして、無数に湧くVOIDにそれで抵抗出来るとは思えなかった。
なにせこれだけの事をしても、一度でたった一機しか確殺出来ていないのだから。
耐久力もそうだが、再生力も尋常ではない。
何なら仲間の死骸を使ってでもVOIDは蘇生をしてみせる。
かつて出て来たそれよりも遥かに凶悪な物となっていた。
それでも、ミリアは別にどうでも良さそうに気にもしていなかった。
「足、何をそんなに不安になってるの?」
「何って……いや、不安になる要素しかないじゃないですか。敵はこれだけ大勢いて……」
「大丈夫よ」
「いや、大丈夫じゃないからここまで逃げて……」
「大丈夫にするのよ。そして助けに行くの。私達が、ミリアを。天使が、人を」
ミリアはそう断言した。
そんな事出来る訳がない。
足と呼ばれた天使はそう思う。
だけど……だけどもし、それが出来たならば、ヴィクトアリア救出なんて事が出来たら、偉大なる人を助ける偉大な天使に戻れたら……。
それはきっと……とても誇らしい事であるだろう。
その誘惑は甘美過ぎて、抗う事さえ忘れてしまう程に。
「出来た。はい足、これ持って」
そう言って、ミリアは天使に長い紐を二本持たせた。
「何ですこれ?」
「籠」
そう言って、ミリアは即席の椅子に座る。
その手には渡した紐が持たれている。
ブランコに座る大人の女性みたいな情けないミリアの容姿で、天使は何となくだが理解した。
紐を使ってミリアは自分にぶら下がろうとしていると。
背負うとかお姫様だっことか連結とか、手段は色々ありそうな物なのに何故そんな不安定な……とも思うが、きっと何か理由があるのだろう。
ミリアは決して、無意味な事はしないのだから。
「つまり、私に気球に成れと言う事ですね……」
もしくは風船。
「文句ある?」
「まさか」
苦笑しながら、足と呼ばれた彼女はミリアを空の世界に連れ戻す。
久方ぶりの空は、恐ろしく不便だった。
上級機甲天使とは本来、下級機甲天使を従える立場にある。
正しく言えば、下級の中でも上の存在、指揮官を纏める立場。
軍で言えば将に相当するだろう。
その上級の中でもミリアは特に指揮能力に秀でている。
本来の物体製造の能力は限りなく弱体化しており、これまでの様に無数の人形を製造する『工場王』と呼ばれる様な力はない。
だけど、指揮能力はミリアが後天的に得た力である為、ほとんど失われてはいない。
だからそう……考えてみればまあ、簡単な事だ。
人形を大量に生み出せない。
だったら、人形の代わりに天使を使えば良い。
それだけの事だった。
原点回帰とも言えるだろうそんな当たり前を、ミリアは今の今まで考えてもいなかった。
いや、むしろこちらが本来の使い方とも言えるだろう。
かつての親友がそう望んだ、あるべき天使の形。
VOIDが強いから忘れがちだが、天使は下級であっても相当のスペックを持っている。
急ごしらえな人形如きと同じ理由がない。
リンク接続――情報共有、命令系統の一本化。
天使達は完全にミリアの指揮下に置かれた。
それは槍だった。
空を駆ける数百機の集団。
先頭には十機がかりでないと持てない巨大な槍を持つ部隊が付き、それを支援する後方射撃部隊。
それが一丸となって突き進む姿は正しく巨大な槍。
ミリアが能力により強化改良を施したライフルを持ち、槍を筆頭に正面のVOIDを蹴散らしながらただただ真っすぐ突き進む。
逃げていないから逃走防止能力は発動せず、時間遅延の影響もまた最短の突撃により最小の影響と化す。
その進軍速度は想像よりも遥かに早く、クィエルが状況を確認するよりも早く、ミリアと天使達は元の戦場に戻って来た。
「お前達……一体……」
どうして、どうやって。
クィエルはその両方の疑問を持ちながら、あらゆる意味で理解出来ないという顔でその集団を見る。
これだけは、方向性の同じアリスとクィエルの明確な違いだろう。
クィエルはこの状況でもまだ、天使を侮っていた。
「止まるな。進め」
クィエルの姿に怯んだ天使に、ミリアは檄を飛ばす。
命令を聞き、即座にブーストを駆け突撃。
決して止まらない……いや止まれない。
止まると死ぬ遊泳魚の様に、天使達に出来る事はただ、目の前の敵を殲滅する事のみ。
天使の集団は荒れ狂うVOIDの波をただひたすらに貫き続けながら、クィエルの周りをぐるぐると回りだした。
大前提が一つある。
例えどの様な作戦をミリアが用意しようとも、天使がどれだけ成長しようとも何をしようとも変わらない大前提。
絶対に、天使ではVOIDに勝てない。
多くの不利的要素は何とか対処出来るが、たった一点絶対に無視出来ないどうしようもない部分がある。
『物量』
最大生産秒間百を超えるVOIDの物量には逆立ちしたって勝てはしない。
伊達に全世界同時進行が可能な存在ではない。
だから、立ち止まった瞬間に圧殺され天使は全員終わる。
作戦が突撃オンリーというのは奇策でも何でもなく、ただ他に選択肢がなかっただけである。
突撃だけなら正面の敵と戦うだけで良い。
だから正面に特化し左右の敵は機動力にて躱す。
それだけがミリアが出来る唯一の戦い方。
VOIDに対抗する、たった一本の『牙』であった。
一点集中の突撃離脱。
無理をせず出来る範囲で指揮を聞く。
ただし命令違反しても良いから自分の命を最優先に。
自分が死ねば、次に死ぬのは隣の誰か。
誰かが死ねば、部隊は終わる。
それを忘れず、命に責任を持て。
それがミリアの天使への指導であった。
「……まるで蚊ね。本当……」
若干イラつきながらクィエルは呟く。
文字通りたった一本の牙。
あの手段ではどれだけ殲滅されようとも、最大生産量を超える事はない。
むしろ微々たる被害であり、全体で見れば誤差と言っても良いだろう。
だからこの程度被害とさえ呼べず、ただぶんぶん周りを飛び回って目障りなだけ。
だから本当に、クィエルにとってはただ煩わしいだけだった。
とは言え、それで良い。
それに何の問題もない。
むしろ、これこそがミリアの真骨頂であるとも言える。
対抗手段が全くなかった状態から、相手をイラつかせる程度の妨害が出来る様になった。
それは、輝かんばかりの進歩であると言えるからだ。
戦争の基本は相手の嫌がる事を積極的に行う事。
正しくミリアは、クィエルに戦争を仕掛けていた。
そうしてミリアは次なる一手を見せる。
ただ突撃だけしてVOIDをちまちま削る事しか出来ない様ならば、嫌がらせしか出来ない様ならば、ミリアはここに戻って来ていない。
相手が本当に、心の底から嫌がる一手が打てると確信しているからこそ、勝機が見えずともクィエルはこの戦場に戻って来た。
飛び回り、突き進み、そうしてイラつくクィエルの油断のタイミングでその集団は急に方向転換を行い、クィエルに迫って来た。
「それが狙いか!?」
奇襲での高火力殲滅を予測し、クィエルは身構え天使を纏めて殺さんと力を込める。
VOIDの総量よりもまだクィエルを破壊する方がチャンスがある。
その考えは間違いないとクィエルは思った。
ただし、不可能であるという前提を考えなければだが。
確かに、VOIDよりは破壊しやすいだろう。
だけど、クィエルをどうにかしたいのなら天使の数を最低でも百倍、いや千倍は用意しなければならない。
この程度では、クィエルは傷さえつかなかった。
無駄に攻めて来る天使達を内心で馬鹿にしながら待ち構えるクィエル。
だけど、クィエルの元に天使は向かわない。
ミリアの狙いは最初から、クィエルではなかった。
クィエルではなく、その傍にいるもう一人。
「アリア! 合流して!」
そう言って、ミリアは手を伸ばす。
きょとんとした後、アリアは笑顔となり、その手を取った。
前を向いて、希望を持って。
輝かんばかりの決意を秘めた瞳のミリア。
その手を振り払う程、アリアの推し愛は弱くない。
そうして手を取り合い天使の集団に合流するのだが……これは、単に合流したというだけではない。
その意味に気付き、クィエルは顔を顰めミリアを睨みつけた。
「最初から……最初からそれを狙って……」
天使達に合流するというその意味。
それは……アリアがミリアの指揮下に置かれるという事でもあった。
クィエルとしては最悪であった。
純真無垢である代わりに高い性能を持つアリアが、底意地が悪く指揮能力の高いミリアの命令通り動く。
しかも種族は異なれど互いに機械である。
間違いなく、リンクにてリアルタイムでの情報交換が出来る。
それはつまり、ミリアを直接殺す事が難しくなったという事であった。
気づけば、笑顔が消えていた。
何故? どうして?
そんな事は決まり切っている。
どうしようもなく追い詰められたから造っていた笑みが消えたという事は、そうじゃなくなったという事。
現状は何も変わっていない。
ミリアが来ても、天使が来ても、戦力比は微動だにしていない。
クィエルは巨大な山そのもの。
例えクロノアークそのものを全速力でぶつけても、きっとかすり傷程度しかつかない。
だけど、それでも……この行為に、意味はあった。
差し伸ばした手を見たあの一瞬、アリアの心に熱い風が駆け抜けた。
燃える様に熱いのに、心は穏やか。
笑みは消えたけれど、辛い事は何もない。
片足で、ブランコ状態の無茶をして、それでも尚堂々としたそのミリアの横顔は、正直恋に堕ちそうになった。
その位恰好良くて綺麗で、そして頼りがいがあって。
つまるところ、安心出来たのだ。
心が燃える、心が上がる、胸の回路が火花を散らし回転する。
胸のオイルが、いや胸の奥にある回路そのものが炎となる。
アリア流に言うならば……『負ける気がしない』状態である。
今ならば、尊敬すべき兄にも、神として先を越されたシア先輩にも、そして世界で最も高き山である偉大な父にさえも……。
怒りが爆発し、暴れまわるクィエル。
それを嘲笑う様に、ミリア部隊は遠くからちくちく攻撃しながらVOIDを蹴散らしていた。
アリア加入により攻撃力が増大。
部隊の先頭をアリアとし全天使がサポートするその在り方は、先よりも鋭く巨大な槍。
クィエルが大量にVOIDを生み出し地面が残骸となる程度には、相手を苦しめる事に成功していた。
だけど、それだけ。
突破力は高くなったけれど、状況に何の変化も起こしていない。
その程度ではなく、劇的な変化がない限り現状を打開する事は出来ない。
正直言えば、ミリアに残された手段はこのまま離脱する位な物だった。
既に出来る事は全て出し尽くした。
今だけとは言え圧倒的戦力、物量を持つ相手と対等になっているだけで異常な状況である。
自分の能力を誇っても良いとさえミリアは思う。
だけど、どうしようもなかった。
この物量を対処する程の火力は手元になく、あの圧倒的戦力である本元を叩きのめす程の何かもない。
また恨み辛みに怒りが加わり激昂しているクィエルが冷静になれば、その時点で全てが瓦解する。
冷静に、VOIDで封鎖し後ろからクィエルが部隊をぶん殴れば、それで全てが終わる話だからだ。
そう……これは最初から、勝つ手段のない戦いであった。
つまり、ミリアに出来る事はここまで。
これ以上を求めるのならば……。
「アリア、何か手はない? ないなら逃走するけど」
ミリアの言葉にアリアは困った顔を見せた。
「逃げるのは、駄目です。この辺りにはまだ民家もありますし」
「この辺りって……数十キロ以上先じゃない」
「ですが、確実に巻き込まれます」
「……そうだけど……何かないわけ? 逆転とはいかなくとも若干でも状況が好転するような何かは」
『ない』
実際アリアだって出来る事はもう全部やっている。
全ての情報を開示しミリアに託したからこその現状で、手札なんてもうすっからかんだ。
そうアリアは言おうと思ったが……口が止まった。
その顔は、まるで何か閃いた様な、魚の骨が喉に刺さった様な、そんな曖昧な物だった。
「……何かあるのね?」
「えっと……いえ。そうではなくて……」
「何よ。もったいぶるわね」
「もったいぶりたいのではなくて、その……ちょっと荒唐無稽というか希望的観測過ぎると言いますか……」
アリアらしくない歯切れの悪い対応を見て、ミリアはそのおでこにデコピンをした。
「あいたっ」
「じゃれてる余裕はないの。何かあるならやりなさい。……持久戦は悲惨な事になるわよ? 本当に」
それは脅し文句ではない。
負けたら、ただ死ぬだけでは済まない。
戦争における全ての醜悪がこの場にて顕現するであろう。
ミリアだけでなく、この場の全員がそれを理解している。
そうなるであろうという事がわかる程、クィエルの感情は激しく醜い。
見ているだけでこちらが苦しくなる位に。
手を後まで残す余裕なんて全くない。
出来る事を全て全力でやって、それでそうして『今』を支えているのが現状。
だから、まだ何か手を打つ余力の残っている今『何か』を行う事が大事であった。
「出来る事は全部やりなさい。駄目だったら駄目だった時にまた考えてあげるから」
自信なんてないけれど、自信満々にミリアは言う。
あまりにも堂々としたそれはただの開き直りだが、それはアリアが大好きなミリアの姿でもあった。
「は、はい! でもその……」
「その、何?」
「えっと……試したいという気持ちはあるし、ミリアの為なら何でもやってやるって気概もあるんですが……その手段がですね、私自身が直接近づいてかつある程度余裕がある状態でないと試せないと言いますか……」
「……………………随分とまあ、難解なオーダーが出ましたね。……ええ、良いわ。やりましょう」
苦笑しながらだが、ミリアははっきりそう答えた。
ほんの数秒、あるいはコンマの世界。
戦いの最中、一手分の時間を得るという事の意味。
それはクィエルという人類救済機構そのものよりも巨大となった演算回路を出し抜き、一瞬の隙を縫うという事。
なんとまあ難問なのだが、ミリアには一つ、試そうと思う手段があった。
それは切札なんて上等な物じゃあない。
そんな便利な物があれば最初に使っている。
それは言葉にするならば、きっと祈りに近い。
たった一度しか試せない上に上手くいくかわからない。
正真正銘のギャンブルで天賦任せ。
それでも、ミリアにとって本当の意味での最後の手段である。
正しく言えば、ミリアの手札ではなく、亡き親友の遺した鬼札だが。
静かに、ミリアはかつての事を振り返る。
まだ友であるテアテラが生きていた時の事を――。
自分が政略に巻き込まれナンバーズである事を剥奪され、何もかもが面倒になっていた頃。
しばらくしてからテアテラがナンバーズとなって立場が逆転して、テアテラがしょっちゅう文句を言いに会いに来ていた。
まるで母親かの様に干渉しウザイと思っていた。
あの時は本当に煩わしかったが、今では黄金よりも希少な記憶である。
その記憶の一つ。
テアテラは本当にめんどくさくて、本当にうざったくて、そして本当に細かかった。
ちょっとしたミスであっても数時間は原因究明を行わせてくるし、理屈がわからない事は徹底して理論づけしようとする。
軍略談義なんてしたらもう文字通りの修羅場である。
実際ミリアの軍略を理解しようとするのにテアテラが費やした時間は、仮想時間であっても万を優に超える。
体現化出来ず解読出来ないミリアの指揮能力にテアテラは学者かの様に研究を始め、それにミリアも延々と付き合わされた。
そう……亡き友は本当に面倒くさかった。
慎重で、いつも無駄だと言い切れるレベルで石橋を叩きまくって。
いっつもいっつも、無駄に複雑に考え過ぎなのだ。
その無駄だと言い切れるレベルでの考え過ぎに、今日ミリアは救われる。
『ヴァーミリアン。今から私の発言を、複製禁止データとして記憶容量に書き込みなさい。音声データ取り込みじゃなく、直接です。もちろんアクセス禁止領域に。そうでないと意味がありません』
面倒だから嫌だと言ったのに、無理やりやらされた。
いつか使う日が来るかもしれないからと。
正直、絶対使う事がないと思っていた。
ブラックボックス化し相当記憶容量を無駄にしていた。
自分でさえその状況にならなければ解凍できない様にしていたのだからどれだけ馬鹿が付く程頑丈なプログラムをかけていたのやら。
発動条件、テアテラ並びにその後継機が乗っ取られた場合。
内容――暴走状態を意図的に引き起こす緊急停止コード。
使う日は来ないと思っていた。
来ないでほしいと、ずっと思っていた。
「存在定義! 条件項目! 『ドーナツの穴』」
言葉の意味自体は、ぶっちゃけ特にない。
ただの無駄な哲学である。
これはテアテラの停止コードクィエルに影響がない可能性もある。
だけど、その可能性は低いとミリアは考えていた。
だってこいつは、『ヴァーミリアン』と自分を呼び、テアテラをコピー出来る程度にはその情報を読み取っている。
であるならば、テアテラが培ってきた演算回路を、天使全体の為に育てて来た高度プログラムを、そのまま取り込んでいる可能性が高い。
情報を主体とする生命体である以上そうする他ないからだ。
要するに、こいつがテアテラを便利に使っていたとすれば、この罠は確実に引っかかる。
あの死ぬ程面倒でうざったくて、細かいテアテラが自分亡き後の為に託した罠に――。
ドーナツの穴を証明せよ。
そんなの簡単だ。
ドーナツの穴はドーナツの空洞部分である。
以上、証明終わり。
じゃあドーナツを食べたらドーナツの穴はどうなるの?
そんなの……いや、消えるに決まって……。
穴なのに消えるの?
そもそも、穴って存在している事になるの?
存在しているかわからないのに消えるの?
どこに消えたという判定があるの?
そもそも……どこまでがドーナツの穴なの?
空中に浮いている大気もドーナツの穴なの?
私達はドーナツの穴に囲まれて生活しているの?
まるで子供の様な質問が無限に脳内で繰り返される。
その言葉に悪意がある訳ではない。
たんなる思想のクイズだ。
じゃあさ、種類の違うドーナツを切り分けて作ったドーナツのフランケンシュタイン、これの穴ってどのドーナツの穴になるの?
その回答を導き出す為に、クィエルは集中する。
クィエルの持つ演算回路全てが、その難問に向かいあった。
時間にして、一瞬。
コンマ一秒、いやそれ以下。
刹那とも言える時間でしかない。
だけど、その一瞬、確かにクィエルの反応は止まっていた。
原因調査、条件付き広範囲停止コードの特定……発見。
広範囲にちりばめられ隠蔽されたそれは、発動するまでクィエルでさえも気づけなかった。
あのアリスの危機回避能力からさえも……。
とは言え、見つかったもう後は容易い。
デリート――。
止まったのは結局、時間にしてコンマ以下。
そうして一瞬にて再起動したクィエルは――目の前に立つアリアの姿を見た。
何かされる。
だけどそれ以上に、ただ憎しみが勝っていた。
イライラが限界で、一度に大量の演算機能を切り捨て能力が低下した状態で、最も嫌いな相手が傍に。
思考するよりも早く、演算するよりも先に、クィエルの手が出る。
機械の性能も、天使の能力も超えた。
憎しみが全てを凌駕した結果であった。
鋭い拳が、アリアを貫く。
不思議な事に、アリアはガードしなかった。
クィエルの拳はアリアの右腕に直撃して肉を裂き、その爪が胴を抉り、メルトレックスを象徴する鎧が連鎖衝撃にて全て砕け散る。
そして当然、アリアの身体に死が感染する。
一瞬にして肉塊一歩手前である。
だけど、その一歩手前で止まっている。
アリアはまだ、生きていた。
死の一歩手前、ギリギリにしか防御を回さなかった。
その、一撃の為に。
ボロボロになり、力のほとんどを失い、それでも尚怯まず拳を握り――そして、振るった。
あれは……最初に『それ』を見て時の事。
その時……アリアはあまりにも醜い自分の心に驚き、その本心を周りに隠した。
初めて、家族相手に表情を取り繕った。
だってそうだろう。
父親がわざわざ見せてくれた技を見て『あれ? 簡単そう』なんて思うのはあまりにも失礼で、そして驕りが過ぎる。
無礼という言葉すらまだ足りない位の非礼である。
自分の事ながら、自分が嫌いになりそうだった。
とは言え、そう思った理屈は理解出来る。
初歩の一歩さえ到達していない自分では、最奥に位置するそれを理解さえも難しい。
つまり……難しいという事さえわからない位に難しいのだ。
難し過ぎてわからないから、簡単に見えてしまったのだ。
そうだ、そうに決まっている。
だけど……もし、そうじゃなかったら……。
もし、もしも……自分はそれを理解出来ていたなら……。
そんな、期待という言葉さえ適さない淡い願望。
あり得ないと自分だって思っているのに、それでも、心の奥底で囁くのだ。
自分なら、出来ると――。
クィエルに放たれるアリアの拳は、そう早い物ではなかった。
きっと、避けようと思えば避けられただろう。
一歩も動かず地面に完全に密着した足から繰り出され、狙いもただ正面のみ。
その上大した拳速でもないのならまあ、恐れる方がおかしい。
だからクィエルはカウンターを狙い殴り返して……そして拳が砕けた。
アリアのじゃなく、クィエルの拳の方がである。
情報密度がそのまま重量となっている。
クィエルの拳は金属製の高層ビルに匹敵する質量があった。
それが圧縮され過度な情報密度となり、高速で対象に襲い掛かる。
そのはずなのに、一方的に砕け散った。
クィエルのその拳を砕きながらも、それでも尚アリアは止まらない。
最初から一切変わらない速度のまま、そのまままっすぐ、拳を貫き続ける。
剣聖一刀流裏奥義――が、崩し。
名前とするなら、こう呼ぶべきだろう。
『不動拳』
クロスが目指すべく完成形。
それよりも遥かに先の次元に、それは到達していた。
そう、当たり前であった。
己が神の子であり、そして誰よりも神を感じられる彼女にとって、それは。
大地を母と思う事なんて必然以外の何物でもなかった。
崩れながら、同時に質量が増大していた。
圧縮された情報密度が解け、これまで取り込んで来た物が全て本来の質量に戻りつつあった。
コアを失い、蓄えて来た機械が物質化し世界を埋めていく。
何万、何億トンという膨大な重量の機械が、クィエルの身体ではなくなっていく。
その範囲は数キロ、数十キロ……いや、もっと広がるだろう。
この辺り周辺一帯、機械のゴミで溢れかえっていた。
天使達は避難し空の上。
VOIDもまた動かす意思が消えてそのまま崩れ、単なる残骸に。
崩れ居いく。
己そのものが、自分の価値が、世界を呪う気持ちが。
何もかもが、崩れていく。
クィエルは、何もかもを失った。
全てが無意味な物となった。
自分は無価値ではないと抗う事さえ出来なくなった。
最も憎い相手に、殺された。
それだけならばまだ納得出来る。
屑である自覚はあり、その末路として綺麗な方だろう。
だけどそうじゃない。
アリアは最後の最後まで、クィエルを憎まなかった。
最初から、ただのクィエルの独りよがりであったのだ。
自分は、間違えた。
憎い相手を殺しに行くのではなかった。
愛したい相手と、殺し合うべきだった。
クィエルはゴミ山の中、独り笑いながらそのまま息絶えた。
その笑いの意味を、憎しみが限度を超えた笑いであったと理解したのは、直面したアリアだけだった。
アリアは、この世界には己が絶対理解出来ないどうしようもない憎しみがあるという事を知らされた。
憎しみである事だけはわかったが、その内容を理解するにはアリアはまた心を知らなさ過ぎて、そして子供過ぎた。
ありがとうございました。




