理性という名の本質
すーっと、心が静かになっていく。
感情が、喪失するかの様に。
その様子はまるで、波紋一つない水たまりの様だった。
わけわからない展開に発狂し、相変わらずの理不尽を不気味がって嫌悪して、そんな感情に振り回される事もなくなった。
つまるところの、遊びが消えた状態。
要するに……アリスにまだ余裕があったのだ。
なんだかんだ言っても驚いたり騒いだり、気持ち悪いという感情に身を委ねるだけの余裕が。
それがとうとうなくなった。
遊びであった部分が、無理をしない為にゆとりを持っていたその部分が失われた。
感情が消えていく。
感情という名の本能は身を顰め、理性が本能の代わりとなって行動の主体となり、合理性が心という名の無駄を押しのける。
アリスにとって本当の感情は、『生きたい』と願う事のみ。
それ以外の想いは全て蛇足であった。
ついにアリスは、本気になる程追い詰められた。
現時点で、アリスが仕組んだ作戦、策略、謀、トラップ、その類の物で成功したのは精々二割程度。
なかなかにえげつない仕込みをしていたのだが、残念な事に大半が失敗に終わっていた。
『ふざけるな!』
アリスの本能は怒り狂う。
これが罠を読まれ対処されたのなら百歩譲って理解し気持ちを切り替えても良い。
だが、丁寧に仕込んだ罠がまるで意味のわからない理由で雑にぶっ壊されたのだから納得なんて出来る訳がない。
具体的に言えば女神シア様とか蜘蛛脚クロノアーク脱走事件とか。
あんなんどう予想しろというのだと未だに怒りがこみあげて来る。
メディの過去を知っている。
ソフィアとSQに繋がりがある事も知っている。
クロードの過去も、メリーの異常性も、エリーの潜在魔力量も、総てをデータとして活用できる程に把握している。
武雷のスペックを誰よりも把握しているのは自分だという自負さえある。
マリアベルが外に目を向かない様に仕込みも出来ている。
アウラやメルクリウスがこっちに来れない様にもしている。
そう、総て想定通りに動いて、策を読まれてもなくて、それなのにたったの二割しか仕込みは発動していない。
全くもって理不尽という言葉が良く似合う。
だから、本能は怒り狂っている。
その反面、理性はこの状況を受け入れ、歓迎していた。
『二割も成功したんだ。良かった』
理性のアリスは本気でそう思っていた。
クロスという想定外しか起こさない理不尽を相手に二割も策が通ったのだ。
アリスとしては十分過ぎる成果であり、自分を褒めてやりたいとさえ考える。
とは言え、成果を喜ぶような感情は押しのけているし、そもそも喜ぶだけの時間さえももうないが。
理由はわからない。
理屈も理解出来ない。
これも一つの理不尽だろう。
ステラが、こちらに近づいて来ていた。
彼女がここに来れば、この均衡が崩れる。
クロスを封じ込め、精神的プレッシャーで自死を選ばせるという状況は終わってしまう。
いや、もっとはっきりこう言った方が良いだろう。
直接対決の時間となると――。
だけど、その前にもう一つだけ、アリスにはやるべき仕込みがあった。
「クィエル」
名を呼ばれ、クィエルは静かに頷いた。
クィエルにはアリスが見ている世界はわからない。
本体が膨大なる機械の集合体であり、あらゆる知識、データを内包している。
にも関わらず、常にアリスに上をいかれる。
アリスが何を見ているのか、どういう考えで動いているのかまるで理解出来る訳がない。
この世界で自分よりも優れたセンサーを持つ者はいないはずなのに。
今回も一体どんな状況変化が起きたのかクィエルにはわかっていない。
だけど、アリスの表情から状況は判断出来た。
アリスの表情からは、覚悟が感じられた。
「はい。何でも言って下さい」
そう言って戦闘態勢に入ろうとしたら……。
「お疲れ。今まで良く働いてくれたわね。もう良いわよ」
それは、予想とは正反対の言葉であった。
「……え? アリ……ス……?」
「もう私に拘らなくても良い。好きにしなさい」
「な、何を言うんですかアリス!? これからでしょう! 私はこれから使い捨ての手駒として……」
そう、今までは露払いで、そしてこれから本命の戦いが始まる。
それに自分を使わず何を使うというのか。
自分こそがアリスの最後の手札ではないのか。
そう思い混乱しているクィエルだが……。
「ここまで来たら、もう必要ないわ。お疲れ」
端的に、そうアリスは事実だけを伝えた。
直接交信出来るのに敢えて口頭で、クロスにも聞こえる様に。
「……アリス。何故ですか……。私は、貴女になら使い潰されても良いと思っています。貴女になら裏切られても良いと……」
それはまごう事なきクィエルの本心であった。
「……はぁ。ぶっちゃけるわよ?」
「はい。何でも言って下さい。私はアリスの為なら何でも……」
「あんたがいると背中が気になって戦えない」
アリスが最も警戒するのは、裏切りである。
そしてそれは、クィエルも例外ではなかった。
「……え?」
「いや、あんた自分でも気づいてるでしょ? 私を恨んでるの」
「そ、そんな事は……」
「あんた生きている奴全員憎いって常日頃から言ってるじゃん」
「それ……は……」
「そりゃ、優先度は低いでしょうね。私に対しての憎しみってさ。だけどさ、クロスを殺した後とかクロスを追い詰めた時とかで、魔が差さないって言い切れるの?」
「それ……は……でも……でも!」
アリスの懸念は単なる妄想の類ではない。
その証拠に、クィエル自身何も言い返す事が出来なかった。
この世界全てが、生きとし生ける者全てが妬ましく憎い。
アリスは友と呼ぶ関係。
この二つは、別に矛盾しない。
アリスは友で、主で、敬意を持つべき相手である。
そして同時に、妬み憎しみ、殺したいと望む。
クィエルはそれを両立させていた。
だから、クィエルは多大な演算能力、下位機人に匹敵する身体スペック、VOID部隊操作という狂った性能をしていながらもアリスにとっては手札止まりだった。
最後の最後信用し共に戦うには、クィエルは少しばかり我が強すぎて、少々同族寄り過ぎた。
クィエルはしゅーんと、露骨に落ち込む。
アリスを殺したいという気持ちがあるのと同時に、それでも命を捧げる程アリスの役に立ちたいという気持ちもまた偽らざる本心であった。
「落ち込まなくても良いから、あんたはあんたのやりたい事をしなさいよ」
「……やりたい事……ですか?」
「そう。もっと言えば、あんたが一番殺したいのは誰?」
「私にとって……一番は……」
「自由にしなさい。その憎しみを、怒りをそいつが叩きつけなさい。それが今あんたが出来る一番楽しい事で、そして一番私の役に立つ方法よ」
「……好きにして、良いんです? 本当にそれでアリスの役に立てます?」
「もちろん! 思うがままに殺しなさい。誰を狙いたいか知らないけど、誰かいるでしょ? あんたが最も許せない奴が、こいつだけは生きている事が許せないって奴がさ」
クィエルは静かに頷いた。
クィエルにとってアリスは『最も殺したくない相手』である。
それは友であるからだけでなく、アリスは限りなく死に近く、生きる為にいつも必死で、そして楽しく生きていないから。
つまり、その逆が『最も殺したい相手』……。
アリスの想像通り、クィエルには妬む順序があって、そして『こいつだけは許せない』という憎しみに染まる相手が存在した。
わかりやすく言えば、最も妬ましく、そして羨ましい相手。
クィエルが手に出来ない理想を叶えた存在。
クィエルはアリスに言われ、その顔がすぐ脳裏に浮かんだ。
「……それが本当に、本当に……アリスの為になるんですね?」
「ええもちろん。成功しようと失敗しようと私から離れて暴れてくれたらもう最高よ」
「――わかりました。少しばかり寂しいですが、受け入れます。それがアリスの望みなら」
「ありがとう。貴女のそういう素直な所は好きよ」
「嘘つき。アリスが好きなのは生者に妬み狂う私でしょうに」
「あら? ちゃんとどっちも好きよ? 利用しやすい所も、滑稽な所も、全部大好き。何より、私より先に死にそうな所が一番好き」
「外道ですね本当。……先にあの世で待ってますね」
「待つのは勝手だけど、私はそっちには行かないわよ。そんな場所あるかも知らないけど」
クィエルはそっと微笑を浮かべ、そのまま静かに部屋の外に。
何となくだが、クィエルは理解出来てしまった。
もう二度と、アリスと逢う事はないと――。
自分はきっとどこかで殺される。
自分のスペックはこの世界を相手にしても敗北しない様な代物だという自負はあるけれど、その程度で生きられる程この世界はきっと甘くない。
アリスを見ていたら、それが理解出来た。
なにせアリスは今の自分と同格……いや、それ以上のスペックを持っているのだから。
そんなアリスでさえ自由に生きられないのがこの世界である。
だからきっと、自分はどこか道半ばで必ず殺される。
そしてもし……もし仮に殺されなかったとしても、アリスはもう二度と自分と逢おうとしないだろう。
生者の敵である自分とは。
だから、生きてようと死んでようと、これでお別れだとクィエルは悟った。
「……アリス、貴女に逢えた事だけが、私という存在にとって唯一の喜びでした。貴女に出逢えたおかげで、私は本当の私を見つけられました。貴女と出会ってから、私はきっと生まれました……」
「ええ、そういう風に振舞ったからね。私としても、まああんたとの時間は悪くなかったわ。精々本懐を遂げなさい」
クィエルは静かに、ドアから部屋を退出した。
「良いのかしら? 素直に行かせて? 貴方の大切な誰かを殺しに行ったわよ? ねぇクロス?」
アリスはにたぁと獣染みた邪悪な笑みを浮かべる。
理性が作る醜悪な笑み。
ただ、クロスに不審と不安を生みつけるだけの作り物の表情は、クロスには何も意味を為さなかった。
「俺に出来る事は信じる事だけだ。というか、もし俺があいつを追ってたら、あんた俺を殺してるだろ? 後ろから、ばっさりと」
クロスは動かない訳ではなく、動けないという方が正しかった。
「さあ? どうかしら?」
「それで、何時始めるんだい? 俺は何時でも良いけど?」
「好きにしたら? 何なら今からでも良いけど?」
「……んー……止めとくわ。何か嫌な予感するし」
クロスの言葉にアリスは内心舌打ちをする。
罠が残っている内にあっちから手を出して欲しかったけれど、どうやらそれは難しそうである。
そう考えたアリスは、素直にその時が来るのを待つ事にした。
ステラというクロスにとっての急所が現れるのを――。
はっきり言って、この状況もまたアリスの予定外である。
ステラがこの場所に『まだ』来る訳がないからだ。
ステラには絶対にどうにも出来ない仕込みをしていたはずである。
だけど同時に、『絶対は絶対ない』という事もアリスは知っている。
事実、今回もそうであった。
来るはずがない彼女がどうやってここに来ているのかわからない。
だけど、数時間以内にステラが来る事は確実であった。
アリスがステラに施した対策は、とても単純な物であった。
というのも、ステラの場合はソフィア達と異なり排除する必要がない事が起因される。
メリー達他のメンバーと違い、ステラはクロスと命を共有している。
その上精神は一般人寄り……というか、一般人と比べても弱い。
異常者から普通に戻ったその影響により、感受性は非常に高くその分心は脆い。
ぶっちゃけて言えば子供同然である。
要するに、ステラとはクロスの急所となる存在であった。
もちろん、暗殺等の手段でステラを直接排除出来たら理想的である。
クロスと戦う事なくクロスを殺せるならその方が絶対良い。
あんなわけわからない相手とアリスは戦いたくない。
だが、それが上手く行くなんて最初から思っていない。
そうならない様クロスは何かしているし、そうでなくとも無理をすれば藪を突く事になる。
ステラは普通の感性を手に入れたと同時に精神面には非常に弱体化した。
精神的に言えば生まれなおしに近いから、メンタルが雑魚なのは当然だろう。
子供どころか赤ちゃんの様な物だ。
生まれ立てという事は同時に、その伸びしろは相当多いという事になる。
下手なちょっかいをかけたら殺すどころか急成長し、しかも成長方面次第ではそれがクロスにフィードバックされてしまう。
ステラはクロスの欠点であると同時に何が飛び出して来るかわからない藪でさえある。
だから、ステラの直接排除は出来たら程度のサブプランに留めなければならなかった。
だとしたら、ステラに施したメインプランは一体何か。
結局アリスはステラに対しどんな仕込みをしたのか。
それは、あらゆる意味で本当に単純な事だった。
鏡の試練を終え出て来た場所を、とても遠くに設定する。
本当に、ただそれだけ。
ステラが全力で急いで、おおよそ一週間。
そういう風にアリスは状況を作っていた。
もし、クロスと直接戦闘する事となる場合……どの様な状況となるのが最も望ましいかとアリスは考えた。
欠点となるステラは傍にいた方が良い。
ある程度弱っていた方が楽。
その上で援軍が入ってこないと尚よし。
そうして考えた結果……
『一週間みっちり精神攻撃を喰らいメンタルが疲弊したクロス』
『不眠不休で走り続け移動し続け体力を削られ疲れきったステラ』
その二体を同時に相手にする事が、アリス的にはベストであると考えその様な作戦を立案した。
とは言え……もうその状況となる事はない。
アリスの理想は、既に破綻していた。
クロスの精神的疲労は思ったよりも少なく、またステラもこちらに来る速度はアリスの想定の何倍も速い。
そう、一週間全力疾走して到達する距離のはずなのに、目覚め一日目なのにステラはもうこちらにこようとしていた。
ステラが何をしでかしたのかはわからない。
ただ……アリスの想定よりも少しばかり面倒な戦いになる事だけは確かであった。
ありがとうございました。




