限りない希望に溢れる、悪意の選択肢
鏡の中に閉じ込め試練を課す魔具。
古の世界に造られた体験型ゲーム機。
その名は『Quest of the Mirror World』。
その次なる達成者はアリスの予想を外れソフィアであった。
ソフィアは静かに目を開き状況を確認して…………思い出してしまい、膝から崩れ落ちた。
状況は、文句なしの最悪だった。
自分の弱さが、愚かさが、今日程恨めしいと思った事はなかった。
このタイミングで、一番やってはいけない事をやってしまった。
他の誰でもなく、自分が、自分の意思で、クロスを裏切った。
どうにかしようと考えるが決断する勇気も持てず。
ソフィアに後出来る事はもう、泣くだけだった。
汚れるのも気にせず膝と手を地面に落とし土を付け、静かに流れる雫を地面に零し続ける。
涙はとめどなく溢れ、止まる気配がなかった。
「止めなさい。体に悪いわ」
そう言ってメディはソフィアを慰める。
あまりにもらしくない行動だが、その理由がちゃんとあった。
メディは、ソフィアの『やらかし』を、その身に起きた『あり得ざる奇跡』を認識している。
メディとソフィアは『QMW』内で相互の関係であったからだ。
しばらくしてから、メリーも復帰し合流した。
「っち! 大分時間かかったな。私とした事が……んで、あんたら何してんのよ? 先に抜け出せたなら早くクロスに合流……いや、何この空気?」
メリーはそこに居るメディとソフィアにそう声をかける。
見る限り少なくとも一、二時間位は先に出ていて、そしてそこから動いていない様子だった。
ソフィアに至ってはらしくもなくしとしとと女々しく泣いている。
あまりにもらしくなくて鳥肌が立ちそうだった。
「……悪いわね。ソフィアが罠にひっかかった」
話せないソフィアの代わりに、メディはそうメリーに伝える。
ずっとソフィアを労わり、必死に涙を止めさせようと慰めるメディ。
その様子は献身とか心配とかを越えて、かなり気持ち悪かった。
自分達はそんな関係じゃない。
そんな仲良しこよしじゃなく、クロスの為に集まった異常者であるはずだ。
多少改善されたとはいえ本質はそう簡単に変わる物ではなく、自分達にとって第一はクロスである。
だというのにクロスを放置し時間を無駄にするなんてそのザマは一体……。
「何があった? 端的に説明しろ」
冷たいメリーの声。
それはヒトデナシであるメリーの素の声。
相手の事を一切考えず、ただ合理的に物事を考える機械の様な状態、メリーの怪物性、素そのものである。
メディは一瞬躊躇い、ソフィアの方を見た後、小さく溜息を吐いて、端的に答えを告げた。
「ソフィア、妊娠してるのよ」
「……は? 一体何があった?」
誰が相手……とは絶対に聞かない。
そんな事聞くまでもないからだ。
クロス以外の誰かの子を身ごもったのなら、間違いなく腹を掻っ捌き自害する。
少なくとも、メリーならばそうする。
ソフィアだってそのはずだ。
もういないクロードならワンチャン許されるかもしれないけれど、それ以外はソフィアだって絶対に受け入れない。
他はともかく、クロスへの愛だけは全員狂っている。
狂っていて、誰を選んでも絶対殺し合うからこそ、彼女達は全員一緒に居る事を妥協したのだから。
であるならば、お腹の子は間違いなくクロスの子である。
だからこそあり得ない事であった。
孕んでいるのならとうに誰かが孕んでいる。
メディの魔法による避妊はその位絶対であった。
更に言えば、クロス自身も夜の権能に目覚めている。
これはまだメリーの推測だが、妊娠についてのオンオフ機能をクロスは身に着けているだろう。
世が世なら確実に救世主となる能力である。
だからこそ、それはあり得ない事であった。
「……さっきの鏡の中の世界があったでしょ。あれでね、私とソフィアは一緒だったの」
「どうしてそれでそんな事になるのよ? あれ所詮擬似体験でしょうが」
「……そうなのね。まあ、確かにそうか。繰り返しなんて単なる疑似体験でしかない。でも……そんな事は関係ないの。あれ事体には」
複雑な状況により生じたあの場所での出来事をどう説明したものかと考えるメディ。
その様子を前に、メリーは『理解』した。
一足どころか十足以上先を推測し、事実を正確に認識する。
アリスの罠の形を、完全に把握した。
何故ソフィアとメディをアリスが一緒にしたのか。
それを判断材料にすれば、推測する事はそう難しい事ではなかった。
「……SQを利用されたのね」
メリーの指摘に対し、メディは小さく頷く。
そう、そこは確かに単なる疑似空間である。
そこにある事は過去の再現データであり、何があっても何も変わらない。
だけど、鏡の中では魂で繋がる。
メディを通じてソフィアはSQと魂のリンク状態となっていた。
そしてSQと共に願ってしまったのだ。
『クロスとの子供が欲しい』
母性本能を刺激された。
孤独を刺激された。
記憶を書き換えられ認識をずらされた。
SQの心の壁が孤独により弱まってしまった。
魂だけの世界である為、SQの隔離空間との境界線が曖昧になっていた。
そうした諸々の事情によって鏡の中は擬似的な空間はSQの作った隔離空間の汚染を受け、中にあった魂もまたその影響化に入る。
ソフィアもサキュバスの汚染にかかり、擬似的なサキュバスとなる。
そのまま、ソフィアとSQが同時に強く子を望んでしまっていた為にクロスの権能を僅かにだけど上回ってしまった。
SQもソフィアも理性では必死に否定した。
だが己の本能がそれを上回ってしまっていた。
その結果因果が逆転した。
これまでクロスと愛し合った過程から『妊娠していた』という因果が成立してしまった。
クロスは夜という項目では間違いなく天災規模の怪物であり、並のサキュバスならば吸い殺す事が出来る。
だがSQはそれを超える。
SQの影響を受けるという事は、過去を改変する事さえあり得ない事ではなくなる。
故に、現状はまごう事なき最悪となった。
因果の逆転という奇跡が起きた。
それは妊娠という望んでいた事であり目出度い事である。
間違いなく希望であり光であり明日である。
だから、逆らえなかった。
苦しみに耐える事は出来ても、希望に耐える事は出来ない。
特に、ソフィア達はその光に一度心を焼き尽くされているのだから。
ソフィアは自己嫌悪で死にたくなっていた。
自分が欲望に負けてしまって、こうして戦う事が出来ない身体になってしまった事が。
いや、戦う事は出来る。
因果の逆転というのは不安定な状態であるから、この現象は容易くなかった事に出来る。
ちょっと戦えば元通りの因果となるだろう。
そう……元通りの、妊娠しなかったという状態になる事はそう難しい事ではなかった。
だけど、それを選ぶ事が出来る程、ソフィアは人の心を捨てられなかった。
自分とクロスの子供がお腹にいる。
その幸福感を裏切れない自分がやはり許せなくて……大嫌いで。
ようやく初めて、醜い物が何なのかソフィアは理解出来た。
自分だ。
自分こそが世界で最も醜い。
だから……世界は美しかったんだ……。
それでも尚泣くしか出来ない自分が、ソフィアは死ぬ程許せなかった。
「……ま、しゃーなしか」
メリーは小さな声でそう呟き、溜息を吐いた。
呆れる程に効率の良い作戦である。
なにせソフィアとそのついでにSQも無力化出来るのだから。
メディもソフィアも気づいていないが、今回一番ダメージが大きいのはSQである。
因果逆転現象を起こした事による疲労もそうなのだが、それ以上に精神的ダメージが大きい。
孤独と母性、その二つの感情に負けてしまったのはソフィアだけでなくSQもである。
その事実が、引き籠り迷惑をかけない事を選択していた自分が最愛のメディールに大きな迷惑をかけてしまった事が、強い罪悪感となっている。
事実上、今回のアリス騒動に対しSQはリタイアと言って良いだろう。
たった一手でクロスと分断し、SQという超常を封じ、ソフィアというヒーラーを行動不能にし、その介護にメディを付かせ行動を制御する。
全くもって、呆れる程に効率が良い。
「……メリー、判断はあんたに任せる。私達はどうすれば良い? だけど……」
メディは睨む様な目でそう尋ねる。
ソフィアを戦わせる事だけは許せない。
わかりやすくそう目は語っていた。
まあ、メディなら当然だろう。
ヒトデナシ全盛期の頃からメディは子供が好きだったのだから。
「安心しなさい。そんな事は言わないわ。むしろ逆」
「逆? どういう事よ?」
「……私も離脱組よ。このまま三人で安全な場所まで避難するわ」
ソフィアとメディは驚いた眼でメリーを見た。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 私は……私は大丈夫ですから……」
「何が大丈夫よ。隣を見てみなさい。あんたの所為でメディずっと『困りまくったちゃん』になってるじゃん。どうせメディは最初からアリスとは戦えない訳だし。だからここで丁度三人リタイア。それで良いのよ」
「良い訳ないわよ! 私とソフィアはしょうがないとしても、だけどあんたは……」
「私がここにいるってのはそう言う事なの。良いから聞きなさい。判断は私に任せるんでしょ?」
ソフィアとメディは納得しない。
メリーは確実にアリス戦に役立つ存在である。
実力もそうだが、チーム唯一のトリックスターであるという事実が大きい。
要するに、メリーがいなければクロスとステラだけでは、正攻法でしか戦えないのだ。
離脱するタイミングさえメリーでなければ見つけられないだろう。
そんなメリーがリタイアするのはクロスの死の可能性を限りなく引き上げる。
また同時に、メリーがそれを選択する理由がわからない事も不気味であった。
メリーは例え自分の子であろうとも殺せる。
クロスを生かす為ならその選択が出来る本当の意味でのヒトデナシとなる才能を持っている。
そのメリーが、ソフィアの子の為に引くという選択を選んだ理由がわからない。
はっきり言えば、ソフィアとメディはメリーを不審に思っていた。
それがわかるメリーだけれど今は説得する時間も惜しいから、溜息を吐き強引に二人を避難させた。
クロノアークに帰るべきか、アリアちゃんに頼るべきか、どっちが良いかと相談して――。
メリーはクロスパーティーで最もアリスに近い。
本質はまるで異なる。
アリスは後天的な異常者である一方、メリーは生まれながらの異常者である。
メリーの外れ具合と比べたら、アリスは紛い物と呼ぶに等しい。
おかしくなる土台があったアリスと異なって、メリーはもうどうしようもない。
生まれた時から今現在まで、その性根はまるで変化はない。
人間と呼ぶ事さえ烏滸がましいだろう。
ただ、本質はともかく生き方や性根の部分は似通った部分が非常に多い。
つまり、性悪部分。
だからメリーはアリスの事を理解出来ずとも、アリスの策略を読み取る事は出来る。
今回も声なきアリスのメッセージをメリーは受け取っていた。
どうして二人とメリーの合流場所を同じにしたのか。
その理由は、この選択をさせる為。
メリーはアリスから、二択を押し付けられていた。
『どっちを選ぶ?』
アリスとしてはどっちでも良かった。
『二人を護って穏便にリタイアする』
『二人を見捨ててメリーだけクロスと合流する』
それが、アリスがメリーに用意した選択肢。
そう……アリスはどっちでも良かった。
どっちを選んでも、クロスに傷を与えられるから。
リタイアしてくれたら、戦闘にメリーが来ない。
メリーはアリスでさえ認める完全に破綻した精神異常者であり、同時にあらゆる状況で合理的判断を下せる化物である。
だから出来たら戦いたくない。
とは言え、リタイアせずソフィアとメディを見捨ててくれるのなら、それはそれで構わない。
大切な物を抱え、動きが鈍った手弱女二匹。
それを凄惨たる目にあわせ、その光景をクロスに見せる。
それはきっととても面白くて、そしてとてもクロスを苦しめられる。
だから、アリスとしてはどっちでも良かったのだ。
『どっちが良い? クロスを見捨てるか、クロスを苦しめるか、選んで良いわよ? 私達の仲でしょ? 選択させてあげる』
アリスのメッセージはそんな悪辣な物で、悪辣だからこそメリーは正しく読み取れてしまった。
だからメリーもまた、ソフィア同様心が折れていた。
メディとソフィアを見捨てる事は出来る。
その位に自分の性格は最低であるメリーは知っている。
だけど……そんなメリーでも、クロスを見捨てる事だけは出来なかった。
まだ宿り切っていない命とは言え、それは命。
その命である自分の子供を失ったクロスが苦しまない訳がない。
その光景を想像したら……メリーは自分がまるで普通の人であるかの様に胸が締め付けられる。
いいや、違う、そうじゃない。
メリーが折れたのは、そんな根本的な事ではなく、もっと自分勝手な物。
『子供を見捨てたとクロスに思われたくない』
他人の為でもクロスの為でもない。
自分の性根の弱さと醜さと向き合う方法を、ヒトデナシのメリーは知らなかった。
だから、完璧に心が折れた。
メリーは自分が日常に入れない異常者であると思っていた。
だけど、ちょっとだけ違った。
自分にはアリスの様に非日常に生きる事も出来そうにない。
非日常の中に生きるアリスの悪辣さは、人間だからこその悪意であった。
怪物である自分に日常の居場所はなく、選択する覚悟もないからアリスの様に非日常にいる事も出来ない。
ただ生まれた時から人から外れていただけの自分に居場所なんてないと、メリーはようやく理解した。
メリーに出来る事なんてのはもう……クロスがアリスに勝ってくれるのを祈る事、ただそれだけであった。
ありがとうございました。




