シア
暗黒の世界に、一組の男女がいた。
少年の様な幼き容姿をした男のジブリール。
引き締まった肉体の背が高い女性、ルジュナ。
それに加えこの部屋にいないもう一名、至宝の肉体を持つ男アバドン。
この三名は自らを観測者であると定めていた。
観測者、それはこの世界の秩序を乱さぬ様関与せず観測に留めようとする者達。
つまるところ、単なる覗き見集団である。
もっと言えば、機人よりずっと昔に、機人と同じ結論に至り引き籠ったと言える。
超越した者は、みだりに人類と関わるべきではない。
己の為でもあるという部分もあるが、何よりも人類の為でもある。
己が人であり人の感性を理解する彼らでさえ、そう決断する様な事件が過去に多々あった。
故に、ここに彼らは引き籠っている。
アリスが今いる隔離施設以上に世界から外れているこの自分達の空間に――ただしアバドン以外。
とは言え、例え世界線から外れていてもこの空間が同一世界上に存在する事に変わりはない。
外宇宙程ここはズレた場所ではない。
テクスチャが違う、次元が違う。
同じ場所を軸としているけれど位相空間がズレているから干渉を遠ざけられる。
ここはそういう類の場所。
だから、生命としての格が異なる者しか、この世界を認識する事が出来ない。
そして今……その資格を得ようとしている者が居て――。
「どう思いますか? ルジュナ」
ジブリールは無駄な質問をなげかけた。
「答えなんてわかってるでしょう? どうでも良い」
ルジュナの興味は己を鍛える事に収束している。
ただそれは肉体を鍛えるアバドンとは少々趣が異なり、彼女の関心はもっぱら技術の方にある。
磨き上げた技術はどの宝石よりも美しく、そしてその為の努力はどんな美酒よりも酔いしれられる。
そんなルジュナだから当然、隣人が一人増えようが増えまいがどうでも良い。
些事でしかない。
更に言うならば、そういう細かい事に拘りを持つのは何時だってジブリールの方である。
わざわざ自分に尋ねて来たその理由が、『自分の意見を伝える為の枕詞』なだけだとルジュナは最初から気付いていた。
「……はぁ。しょうがないわね。ジブリールはどう思うの?」
「――反対です」
ぴしゃりと、言い切る。
それは否定と呼ぶよりも、拒絶と呼ぶ方が正しい位であった。
「……どうして?」
「己の力で成し得た物ではないからですよ。偶然と幸運……ではないですね。これを招いたのは彼女の生き方ですから。ですが、降って湧いた力である事に違いはないでしょう。なので、反対です」
そう、シアがここに訪れる資格を得たのは貰い物の組み合わせがとても良かったからに過ぎない。
奇跡とも言えるぐらい組み合わせが良い力を得て、魂が上位存在を認識出来る様になったというだけ。
だから正規でない彼女をここに受け入れるのは先人として納得が――。
「で、本音は?」
ルジュナは冷たく尋ねる。
これがアバドンだったら、もう少しジブリールの無意味かつ無駄な会話に付き合ってあげたかもしれない。
あれで彼は優しいナマモノだからだ。
だけどルジュナはそういうタイプではない。
無駄は無駄、もっと合理的にいきたい。
いや……こう言った方が良いだろう。
とっとと本音で話せ。
「貴方のその悪びれるツンデレ癖に付き合う趣味はないんだけど?」
そう、ジブリールの拒絶は本心ではない。
そもそも、ジブリールは元から力などに関心はない。
御大層な事を語っていたが、思ってもない事だからその言葉はもう……薄っぺらいにも程がある。
ジブリールは真理を求める。
だからこそ、知らない訳がない。
努力し手にした力。
偶然会得した力。
この二つに、違いなんて何もない。
力とは所詮力であり、重要なのは手にした事ではなく、手にしてそれをどうするかの方にある。
それはジブリールが誰よりも大切にする、答えの一つのはずだ。
だから、ジブリールの発言は全部ただの嘘。
悪びれたいなんて、ちょとした中二的な露悪癖とも言えるだろう。
「……別に、三人だけで良いと思う気持ちに嘘はありませんよ?」
「そうね。でも、貴方は新入りが来るのを拒絶する程器量が狭くもないわ」
「…………」
ジブリールはどこかそっぽを向きながら、小さな声で呟いた。
「ここに来れば、彼女は現実に干渉する術を失う。少なくとも、数年は。……彼女はきっと救われるけれど、彼女以外は……」
「なんだ。結局ツンデレじゃない」
「違います。観測者としての正しい考察です」
「はいはい。それで、どうしたいの? 魂を改竄して普通に目覚めるだけにして、全部なかった事にする? 今ならまだ間に合うけど?」
「彼らの献身をなかった事にしろと?」
本当に珍しく、ジブリールの口調に怒りが混じっていた。
零落したとはいえ、あの腐れ神が他者の為に己の命を投げ捨てた。
誰かの幸せを願いその命を諦めた。
それがどれ程の事か、実際に零落した神と対峙したジブリールは知っている。
神々がどれ程醜く愚かであったかをジブリールは知っていて、そしてそれ故にあの行為の価値を誰よりも――。
己の事で精一杯で、誰かに優しくする事も出来ず誰かに頼る方法も忘れた真なる弱者。
そんな彼らが勇気を振り絞り誰かの為の最後を迎えた。
奪われるだけだったの母娘が、夢を捨てて未来を願った。
それらをなかった事になんてしていい訳がない。
蔑ろになんてできる訳がない。
それは、それだけは……。
「許されない事だ。例え我々であっても……」
「そう……。それで、どうしたいの?」
「そもそも。これは単なる私のエゴです。なのに、ここに受け入れないと決めて、それで良いのでしょうか?」
「良いんじゃない?」
「その良いんじゃないは、どうでもが付きませんか?」
「ええ、私にはどうでも良い事だもの。それに……」
「それに?」
「悩んで苦しんで答えを導くのは、何時だって貴方の仕事でしょう? 真なる賢者、ジブリール」
「……はぁ。もう少し、もう少し貴方達が考えてくれたら……」
「流石にアバドンと一緒扱いは心外」
「……いえ、アバドンの方はアレで結構考えていますよ? 政治も出来ますし」
「……私、アバドン以下!?」
政治のせの字もわからずただ技術を磨く事にしか興味がない貴女は間違いなくそれ以下です。
その言葉は流石に棘が多いとジブリールでも思い、口にはしないでおいた。
「……まあ、そうですね。最悪でもこことは別の擬似神域が出来るだけです。それで良いでしょう」
ジブリールは覚醒した者はこちらに来るという定めた流れを変更する。
いや、変更というよりも正規の物に戻したという方が正しいだろう。
最初この場所は、観測所は、最初は彼ら三人が作り出した避難所の様な物であった。
突然に迷い込んでいく場所もなくなり、世界に干渉出来なくなったから、自分達の空間を作りだし、そこを快適に改造した。
つまり、彼らは最奥に未到達であった。
だから、こんな隔離場を作るしかなかった自分達とは違って、シアならばもしかしてその先にいけるかもしれない。
そう、ジブリールは願わずにはいられなかった。
例え那由他程の可能性がない奇跡だとしても、元神様を更生させるというそれ以上の奇跡を為したシアに……。
眠っていた訳ではない。
だから、意識はずっとあった。
ただ、意識とは裏腹に体は全く起きられなかった。
原因が何だったのかと言えば、ぶっちゃけ単なる栄養不足。
肉体的な意味ではない。
急速に拡張される器に魔力が追い付かず、精霊としての機能が停止してしまっていた。
クロスの真似がいつからか真となり、シアはその心は魂の力となり精霊としての格を高めていた。
心の底から誰かを助けたいという願いが原因で何も出来なくなったというのだから、もう皮肉としか言いようがなかった。
そんなシアが目覚めた時、世界は光だけとなっていた。
その光は全てが真っ白と感じる程の強烈で、自分がどんな状態なのか、今どこにいるのかさえ理解出来ない。
だけど痛さや辛さはなく、何かに包まれている様な優しい光だった。
上下左右も移動しているかどうかもわからない、平行感覚が完全に壊れてしまっている。
肉体も精神も、まるで存在しない様にしか感じられない。
だけど、何となく、登り続けている様に感じた。
あり得ない程の速度で、世界さえも飛び越える様な速度で、どんどん上に、高く高く……。
ふと、理解出来てしまう。
自分の中に入ったのは、彼らが与えてくれた物は、ただ魔力だけという訳ではなかった。
彼ら自身の持つ特徴、彼らの強い祈り、彼らが背負って来た今日までの生き様。
それらをそっくりそのまま、貰ってしまった。
返す事が出来ない程大きな物を、受け継いでしまった。
だから今、自分は登っている。
これは正規の方法ではなく、きっと限りなく異端に近い手段なのだろう。
それでも、登っているのだと実感出来た。
一つ目の壁を越えた。
二つ目の壁を越えた。
まだまだ上り続けている。
だけど、三つ目の壁を前にして動きを止める。
今の自分では、この先には行けない。
自分はここまでなんだ。
だからここでどうにか足掻こう。
隣人がいる気配のする、ここを己としよう。
己の空間を生み出し、ここを支配し精霊として高みに登る。
何故かわからないが、そうすべきだと知っていた。
だけど同時に、ここで立ち止まるべきでないとも考える。
自分がここにいるのは努力ではなく、百パーセント貰い物の力のおかげ。
それだけの物を貰って、ゴールに辿り着かず途中で諦めるというのは、いささか怠慢ではないだろうか。
抱える罪悪感が、胸の内にある彼らの声が、もっと先に行けと背中を蹴っ飛ばしている様に感じられた。
そうしていると、急に体の感覚が戻って来た。
それは痛みだった。
左目があると思われる場所が内から抉られる様な強烈な痛みに襲われる。
だけど、どうする事も出来ない。
叫びをあげる事も、蹲る事も、その目を納める事さえも。
ここには、口は当然手も足もない。
目だって本当にある訳ではない。
ここにあるのは魂なのだから。
あれ? だったらどうして、痛いんだろうか?
そう思っているシアの前に、突如としてそれは現れた。
小さな女の子とその母親。
幻覚なのか妄想なのか、それとも残響なのか。
何かわからないが、会えた事が嬉しかった。
だけど、親子はシアが謝罪も感謝もする前に、どこかを指差したらふっと消えた。
その方角に『眼』を向ける。
そしてじっと見て、何故か急に、それが理解出来た。
奇妙な感覚だった。
問題さえも知らないというのに、答えだけ理解出来るなんてのは。
一つ目も二つ目も、壁と言う事はわかったがそれが何なのかわからない。
いや壁でさえなかったのかもしれない。
物理的な障壁ではなく、ただ自分が通り抜けられなかったというだけなのだから。
要するに、壁だと自分が思い込む様な何かであっただけ。
だけど三つ目の壁の正体だけはわかった。
これは、次元の境界線だ。
シアの眼は次元の壁を物理的に認識し、精霊の力にて中和を行う。
何故そんな事が出来るかわからない。
だが、認識出来ず、出来たとしてもどうしようもないその現象を演算し判別出来ていた。
まるで機械になったかの様に。
そうして壁を越え、シアはその先に足を踏み入れる。
多くの物達の後押しを受け、犠牲を生み、偶然に助けられ、想いをそこに届けた。
その祈りを背負い、彼女は到達した。
有史以来、これまでずっとそこに足を踏み入れた者はいなかった。
本当の意味で、シアが初めての踏破者である。
そこは知らない場所であり、知る事も出来ない場所。
縁も所縁もない場所である。
だけど、新鮮味は何一つない。
だってそうだろう。
そこにいる相手には、しっかり見覚えがあるのだから。
そこに居る『彼女』は、泣いていた。
ようやく本当の意味で『クロノス」は孤独でなくなった。
ふと、当たり前の様に目覚めるシアを見た時に、エリーは何かとてつもない違和感を覚えた。
目の前にいるのはシアのはずである。
だが、シアであると何故か認識出来ない。
相変わらず透き通る様な綺麗な顔立ちのままで、美しい空の様な髪で、ついでに胸はボーイッシュ。
つまりいつもの容姿である。
多くの人を魔力としその力を得たから……と思ったが、どうもそうではない。
魔力の大小とか、そんな細かい変化ではない。
もっと、何か根本的な……。
「シア、その目は……」
エリーはシアの左目を見て、唖然とした表情となる。
形が目である事に変わりはない。
だが、それは目ではない。
白目にも黒目にも境目の様なジグザクの線が見え、そしてその内側には鋼色の構造物が見え自然的でない発光をしている。
はっきり言ってしまえば、その目は一目でわかる程の機械であった。
「ああ。だから『認識』出来たのか。本当、助けられてばかりだな。私……」
左目とその機能を認識し、シアは呟く。
見えない物が見える目、演算してくれる目。
完全自動で扱える特別な力を持つ目。
己の夢を捨て未来を託した少女と、それを見ている事しか出来なかった母親。
その後悔と覚悟の残響。
機械であって機械でないそれは、シアの身体の一部となりきっていた。
立ち上がるシアにエリーは何と言って良いかわからなかった。
寝た切りだった割にはシアは普通に立って、そして何を思ったか窓を開けて、外に出た。
「ちょ!? ここ二階!」
慌てて窓の外を見ると、シアは下ではなく上に居た。
ふわふわと、当たり前の様に空を飛んで。
ゆっくりと、だけど、その飛行は天使よりも尚自由であった。
「ちょっと行って来るね」
そう言って空に上がっていくシアを見て、エリーは違和感の正体に今更理解する。
シアはもう、精霊ではなくなっていた。
ありがとうございました。




