故に彼女は邪悪と呼ばれ
薄汚れた少女の前に、天使はいた。
慈愛の笑みを浮かべて、まるで母であるかの様に。
天使により渡される『杖』を、少女がおずおずと手にしたその瞬間だった。
少女が着ている服が変化したのは。
スラム街特有のボロボロな衣服はお貴族様かの様な汚れ一つない綺麗な物に。
そのドレス風の衣装はどこか天使の様な神聖さもあり、また同時に可憐さもあった。
だけど、少女にとってそれは『お姫様』になる為の魔法であった。
それも、ただのお姫様ではない。
力があって、魔法も使えて、そして攻撃を喰らってもびくともしない、無敵のお姫様。
少女の憧れる、理想を越えた姿である。
「やはり、貴女は杖に選ばれた様ですね。さあ、可憐なる少女よ。愛しき人間よ。私と共に戦いましょう」
そう言って、翼を持つ彼女は少女に手を差し伸べた。
「え? でも、私人間じゃ……」
「我々にとっては魔物も人間です。それとも……杖を手放しますか?」
少女はぶんぶんと何度も首を横に振る。
これを手放したら、お姫様じゃなくなったら、また前の生活に戻ってしまう。
何もない毎日に、友達が死んでいく毎日に。
それだけは嫌だった。
「私が戦えば、誰も飢えないの?」
翼を持つ彼女は、微笑み頷いた。
「もちろんです! あの邪悪を、総ての富を独占するバッカニアを潰せば、皆お腹一杯食べられる様になりますから」
「……わかった。だったら頑張る。お腹一杯食べる為に、お友達が飢えて死なない為に……」
少女は戦う決意を固める。
飢えて苦しむ少女には、飢えないというだけでそれは魅惑の言葉であった。
天使はその決意に、微笑で答える。
善意もない、悪意もない。
嘘を口にして罪悪感さえ覚えない。
なにせ、この天使に感情なんて物は当然自由意思さえ存在しないのだから。
この天使にあるのは、与えられた役割を遂行するというプログラムのみ。
アリスが用意した『寿命を代償とし少女を兵士に変える武器』を配り、その気にさせるというその役割だけが、洗脳された天使が唯一許された事であった。
天使が発生するよりも以前に、アリスの策略により馬鹿をやっていた魔王国の……いやクロスの敵は一通り叩き潰している。
だがそれでも尚、敵と呼べる馬鹿はまだ大勢残っていた。
残っていたというよりも、敢えて隠れていたといった方が正しいかもしれない。
例えば、傭兵。
アリスが有能だと思った傭兵はあえて表に出さず温存し、今このタイミングで出撃させられ天使と共に使い潰されている。
例えば、蛮族。
パイが少なくなるまで待っていた奴、魔王国に隙がないと気付いていた奴、単純に乗り遅れた奴等々……。
何故ここまで生き残っていたのだと思う程度にはまだ蛮族は生き残っており、そして天使に上手く誘導されバッカニアに襲い掛かろうとしている。
例えば、別の国の単なる住民。
飢えたり、滅んだり、恨んだり。
良くある事象を全てバッカニアの所為にするアリスに騙され、彼らもまた戦いを望んだ。
また単純に魔王国の手が届かないところで蔓延る犯罪集団なんてのも存在する。
先の少女の様に騙された者もいれば、悪質な天使に脅迫されただけの単なる村人もいる。
前の時の様にドラゴンであるにも関わらず弱者を嬲る為に手を貸すなんて恥知らずだってまだ残っている。
つまり……。
「貴女が外に出た事は失策よ。本当に愚かね。アウラフィール」
天使は酷く見下した視線でそう言い放つ。
確かに、アザゼル三姉妹という悍ましい屑を利用しているその手腕だけは評価できる。
だが、どれだけ高性能であってもたった一機に護り切れる程この戦いは甘いものではない。
こちらにはまだ無限に等しい天使兵にいるのに加え、愚かにも利用されている事に気付かずバッカニアを狙っている無数の人間共がいる。
更に、洗脳や脅迫と言う様な手段にて連れて来られた様な、殺す側の精神に亀裂が走る程胸糞悪くなる様な被害者もこれからどんどん到着する。
つまり……このバッカニア侵攻作戦において、愚かにも外壁の外に出たアウラフィールが生き延びる可能性は――零だった。
「ふふっ」
アウラの笑う顔を見て、天使は眉を顰めた。
「何その笑い。恐怖で狂ったの?」
「いいえ。そのですね……随分と……矮小なお考えをしているなと思って、つい笑ってしまいました」
くすくすと、楽しそうに。
それが小馬鹿にした仕草だと理解した瞬間――天使の怒りは一瞬でレッドゾーンに達した。
「殺せ。苦しめ、汚し、死骸をつるし上げろ」
「まあ、野蛮ですね。天使ってなんて下賤なんでしょう。ハルピュイアを見習ったらいかがでしょう?」
「あ……あいつに減らず口を叩かせるな! 何をしてでも殺せ!」
命令を下し、天使が一斉にアウラに襲い掛かる。
だがその猛攻はアウラの魔法による障壁と銀騎士により阻止された。
『マスター。これで良いの? 時間を稼ぐだけではジリ貧になりませんか?』
「ええもちろん。これで構いませんよ」
アウラは答える。
そもそもだが、銀騎士には大量破壊兵器に類する物を積んでいない。
飛行による荷重限界は非常に厳しく、武装は光学ブレードと龍血合金パイルバンカーの二つだけである。
ぶっちゃけ戦闘力の確保はアザゼル三姉妹の演算処理能力による物が大きい。
だから、最初から銀騎士に天使を殲滅する役割を任せるつもりはなかった。
クロス達が出て行けるだけの穴を開けた後はただ耐え、庇い、時間を稼げられたそれで良い。
アウラは、後は自分で全部何とかするつもりだった。
「は、ははははははは! なんだその体たらくは。あれだけ粋がっておいて耐えるしか出来ないのか? 貴様が愚かという私は、この時でも戦力を強化しているぞ? ほら、この通りにな!」
この声と同時に、遥か遠くから砂煙が見えて来る。
それは、馬に乗った魔物の軍の姿だった。
「最初は騎兵。続いて騎兵戦車。続いて随伴歩兵のヨロイ部隊。これが即席の先発部隊だ。どうだ? 私達に比べ随分とローテクノロジーだが、それでも貴様らの決戦兵器なのだろ? ヨロイというのは?」
楽しそうに、心底楽しそうに、天使はアウラを嬲る様に見下した目を向ける。
これから無限に等しい戦力が集まって来る。
人が、人を殺しに来る。
世界を護ろうとせん組織を、ただの我欲と騙された馬鹿が台無しにしようとしている。
その愚かさが、惨めさが、人間という醜い存在の無価値さを証明している様で、彼女には心地よかった。
他の天使が言う人間を救うという気持ちが、彼女にはどうしても理解出来なかった。
この、地上に蔓延る価値なき生物を救う理由などない。
滅ぼす事こそが、真なる天使の務めであると――。
「あのさ、天使様。一つだけ、忠告してあげましょう」
「敗戦の将程度に何を語れるか知らぬが言ってみるが良い。心地よいさえずりなら、速やかに殺してやろう。そうでないなら、あの汚らわしい蛮族共に犯させてから殺してあげる」
「ふふっ。ああ怖い怖い。で、忠告ですけど……」
アウラの言葉より先に、到着した魔物の騎兵が攻撃を開始した。
ただし、狙いはアウラではなく、空に飛ぶ天使であったが。
「天使長! あいつら、蛮族共が私達を……」
慌てた様子の部下らしき天使の叫びに、これまで高圧的なだけであった彼女は狼狽えだした。
「な、何だこれは!? 何故我らに逆らう!? 我らと同盟を結んだはずであろう!?」
「あらあら。忠告が遅れてしまいました。これではもう意味がありませんね」
アウラはその様子に微笑を浮かべる。
それは見下すとか馬鹿にするとかではなく、幼子を生暖かく見守るという様な類の物であった。
これまで温存してきた多数の戦力が、一斉に訪れた。
そしてその大半が裏切っているという状況は、間違いなく天使にとって誤算であるだろう。
「お前ら、こいつを見張っていろ!」
叫び、先程からずっとアウラにマウントを取っていたリーダーぽい天使は奥に引っ込んでいく。
この行動が後続の人間達を処理する為なら天使にもワンチャンあるだろう。
急ぎ裏切者を処理すればまだ立て直せる状況だからだ。
だが恐らく、あの天使はそんな事考えてさえいない。
それだけ状況を読めるようには見えなかった。
どうせ『どうして裏切ったんだ?』と尋ねに行ったり『お前達野蛮人は狙う相手もわからないのか!?』と罵声を浴びせに行くのが精々だろう。
そんなだから、天使は戦力としては恐ろしくても敵としては怖くなかった。
「あの、質問なのですが、先程何を言おうとしたんです?」
先程の天使と打って変わって大人しそうな天使が、そう尋ねて来た。
前髪で目を隠し、俯き気味でおどおどして……。
このタイプは見覚えがある。
自分で何も決められず、流される事しか出来ない。
つまり、自分を出さないタイプである。
人でもいるのだから、感情がズレている天使なら尚そういうタイプもいるのだろう。
そして、この手のタイプはさっきのキーキー言って押さえつけてくるタイプとは相性が最悪であるとも。
「はい。さっきは、『人を愚かと決めつけるなら大切な場面で人に頼らない方が良いんじゃないでしょうか?』って煽ろうと思ってました」
「……これは、貴女の仕込みなのですね、元魔王アウラフィール。そしておそらくこれからも……」
「あら、貴女は先程のマウンテンゴリラみたいにマウントを取る事しか出来ない天使よりも大分頭が柔らかいのですね。いえ、失礼しました。ゴリラに失礼でした」
天使は我慢出来ず、くすりと噴き出す。
彼女達大人しい集団のその様子から、ここにいる集団はあのリーダー達からは嫌われ嫌な事など押し付けられる不遇な立場にいるとアウラは理解する。
更に、それに納得していないけれど臆病だから逆らえずにいると。
つまり……。
――彼女達とはちゃんと内応工作が出来そうですね。
アウラは優しい微笑を浮かべ、彼女達の自己肯定感をくすぐる様に煽てだした。
何故、書類仕事が最も出来るバッカニアの政治家を外に出したのか。
何故、アウラでなければいけなかったのか。
これこそがその答え。
天使と共に戦う人間を利用し、天使を殺し尽くす。
それは他の誰でもなく、アウラにしか出来ない事であった。
アウラは暴力蔓延る群雄割拠の時代に、策略を以て魔王となった身である。
レンフィールドというカリスマに焼かれた残党兵を、口先だけで解体し二度と立ち上がれない様にしながら他の魔王候補を絶望の中殺し尽くした存在である。
他ならともかく、策略で天使に負ける事などある訳がなかった。
アウラの戦略はいつだってシンプルである。
敵に不信感を植え付け、疑心暗鬼に陥らせ、裏切らせ、争わせ、敵を不安にさせ、更に敵戦力を削り恐怖に追い込んでいく。
敵には猜疑を植え付け、こちらは戦力を蓄え強大になった様に見せ、絶望を持って心を折り笑顔で上から降伏宣告を下す。
だからこそ、アウラは真っ当な政治をし続けても一定層から蛇蝎の如く嫌われていた。
敵からだけでなく、味方からも。
誇りなき作戦に参加させられた一般的な下級兵や裏切り壊れていく敵を見た親族や友などが、アウラに好意的な目を向ける訳がなかった。
もしもクロスがいなければ、反アウラ国がぽこぽこと生まれていただろう。
いや、実際クロスが来る前までは相当生まれていた。
クロスという正しい存在が、クロスというアウラのスキャンダルが、クロスとデートする時のほんわかしたアウラの姿が、市民のアウラを見る目を大分緩和させた。
だが逆に言えば……恨まれるという事は、アウラは机の上にいながら戦場にいる敵を恐怖させ嫌悪に追い込む事が出来るという事でもあった。
今回の先兵蛮族の裏切り。
それに関しては、これでもかというシンプルさである。
天使に多大な兵力を与えられた蛮族集団の幾つかに、たった一言こう伝えれば良い。
『天使の方が色々蓄えてますよ。あいつら体そのものがお宝だし』
これで蛮族陣営は三分割された。
天使を熱心に襲い食い荒らそうとする者。
消極的に天使を襲いいざという時逃げられる様にしている者。
そしてバッカニアを攻める予定のはずが天使を襲っている周りの所為で右往左往する事しか出来なくなった者。
バッカニアを襲う戦力が、一気に天使の不安材料に早変わりである。
ヨロイまで与えた物だから天使とても決して無視は出来ない。
確かにヨロイは天使と比べローテクである。
だが、あれは戦争の決定権を奪い合う文字通りの決戦兵器である。
火力だけで言えば、天使にだって決して見劣りしないだろう。
そしてもちろんの事だが……仕込みはこれだけではない。
洗脳された者はこの戦場にこれない様別口で対処している。
単なる住民は純粋な交渉で誤解を解きながら天使の支配を解除しようと動いている。
反魔王国に属する者はトップに対し内応か暗殺の二択を先んじて選択させている。
ここに来る予定の大半に対し、アウラは既にアクションをかけていた。
もちろん……蛮族達への仕込みもあの一言以外に無数に仕込んでいる。
一つの行動で三つや四つ結果を出せるかどうか。
それが、策略家と呼ばれる者とそうでない者の差だった。
蛮族の一体が、馬に乗りアウラの元に訪れる。
その時間差で、アウラの周りをずらっと蛮族が取り囲んだ。
その数、およそ三十。
そして……。
「約束通り馬鹿共を裏切らせてここに来たぞ! さあ、俺を幹部として招け!」
ドヤ顔で、男はそう言葉にする。
直後、アウラは悲鳴を上げた。
「何てこと!? 私はたった一名にしか声をかけていないのに……この中に嘘をついて自分が幹部になろうとしている人がこんなに!?」
アウラが叫んだ直後、男が一体馬から落馬する。
その胸には矢が突き刺さっていた。
「俺が呼ばれたのに何だ貴様らは! 恥を知れ! この……嘘吐き共が!?」
男はそう叫ぶ。
それが蛮族同士の恐怖と疑心の同士討ち、その始まりの合図だった。
この場にいる三十程の蛮族の長は、本来ならそこそこ実力ある厄介な手合いである。
ただ強いという訳ではなく、生き汚いのだ。
殺そうとしても逃げられて殺せず、また再び油断したら荒らしに来る害獣共。
そんな彼らでも、こうなってしまえばもうどうしようもなかった。
当然だが、全部仕込みである。
何なら最初に矢を放った蛮族は魔物に擬態しているラグナであり、この場からこっそり逃げようとすればラグナがそっと暗殺する手はずとなっている。
例えアウラと言えども、策が全部通っている訳ではない。
敵の多さから手広さを重視した為、一つ一つの策ははっきり言って杜撰であった。
実際幹部を餌に釣った蛮族の長は百体近いが、到着したのはおよそ三十体。
これが作戦の成功率と大体一緒と思って良いだろう。
内応工作が成功しているのは実質三割程度。
だけど、それで十分だった。
三割が動けば、残りの過半数も勝手に動き残りは全く動けなくなるからだ。
全体という物は、組織という物はそういう風に出来ている。
「さて……」
アウラはちらっと、おどおどしている天使の一個集団に目を向ける。
天使の内応というのはアウラにとっても未知であり……少々はしたないが、ワクワクみたいな気持ちがふつふつと湧いていた。
本当に幸いな事だが、受け皿はもう整っている。
何者にも救われない者達を救おうとする、誰よりも清き心を持つ彼女。
こうなれば、彼女が旅立った事だってきっと運命だっとさえアウラは思えて来た。
とは言え……救うべきとそうでない者は分けるべきだろう。
アウラは聖母の様な慈愛の微笑を浮かべながら、剪定を始めた。
ありがとうございました。




