黒き魔女
彼女は焦っていた。
この終わりに向かいつつある争い、その状況に関われず取り残されて……なんて常識的な理由ではない。
取り残されるという事はつまり、上手くいけば戦いなんて下らない事から離脱出来るという事でもあるのだが、それに気づけない程度には、彼女は焦っていた。
上級機甲天使『イスラフィル』は今現在が、非常に好ましくない状況である事を理解している。
だがそれは、アリスの暴走によってナンバーズがいなくなった事ではなく、上級機甲天使の大半が喰われた事でもない。
イスラフィルは、天使部隊壊滅を大した事だと思っていないからだ。
部隊の……いや、組織そのものの壊滅。
アリスとクィエルの凶行によって天使はもはや絶滅寸前である。
そんな状況で焦らないというのはあまりにも鈍すぎる様に見えるだろう。
だが、それこそが天使の生態であった。
イスラフィルが焦っているのは組織壊滅といった常識的な内容にではなく、他者から見れば馬鹿馬鹿しいとしか思えない事……。
彼女は……自分が下級天使達からちやほやされない事に危機感を持っていた。
上級機甲天使というのは、下級達にとっては神に等しい存在である。
その為下級天使が上級を敬い崇める事は当然なのだ。
少なくとも、イスラフィルにとっては。
実際彼女は多くの配下を持ち、それを回りが認めている程優秀な天使であった。
優れた能力、優れた容姿、優れた治世、天使らしい慈悲深い性格。
そんな自分がちやほやされない現状がおかしい。
自己肯定し過ぎな気もするが、それがイスラフィルの見ている世界である。
もしも本当に彼女が慈悲深い性格であったのなら、きっと気づいただろう。
イスラフィル本来の配下がいなくなっているという事を。
イスラフィルを信じ、従っていた下級の天使達は優秀であった。
優秀だったから、アリスに殺されたかクィエルに喰われた。
今まで自分を信じてくれていた配下が今誰独り存在していない事に違和感を示さない程度には、イスラフィルは部下に興味がなかった。
だから当然、今イスラフィルを信仰せず小馬鹿にしている周囲の下級天使、その内訳が『アリス謹製』『元々性格悪い鼻つまみ者』『洗脳済み』しかいないという事にさえ気づいていない。
ちやほやされたいと思っているのに、その相手がどういう存在なのか見ていない。
下級という自分の下位互換というレッテルしか彼女には見えていないからだ。
ナンバーズが全滅した事よりも、上級がほとんどいない事よりも、自分がちやほやされないのがおかしいと考える程に、彼女は天使らしくあった。
だが今回は、それが幸運であった。
優秀かつ有能な能力を持ちながらイスラフィルがクィエルに喰われていないのは、彼女がそれほどに愚かで、滑稽であったから。
自分が生かされている事に気付かぬ程の道化であるからこそ、上級機甲天使なんて美味しい餌でありながら彼女はまだ生存を許されていた。
だけど、その幸運な時間も、もうあまり残されていない。
アリスは面白がって放置しているがクィエルにとって生き残っている上級機甲天使は残り少ない強化パーツである。
更に言えば、クィエルは自分の事を『ロストナンバー』と称している。
ラストナンバーを殺し、総てがいなくなったから喪失。
要するにこれ、天使を皆殺しにするという自己表明である。
アリスの許可が出た瞬間、総ての天使を殺し天使という存在を自分だけとするつもりであった。
既にイスラフィル終了のカウントダウンは始まっている。
そんなイスラフィルだが……彼女は、クィエルやアリスが思う以上に、愚かであった。
彼女は捕食カウントダウンを待つ事なく、彼女は己の足で地雷原に……いや、爆心地に突っ込んでいった。
「行きましょう。再び私が評価される為に」
そう呟き、彼女は仲間を一機だけ引き連れ、外の世界に出た。
外界を探索していたメディールの元に、彼女は姿を見せた。
過去、イスラフィルと名乗った彼女の能力をメディールは既に知っている。
カウンターマジックにより魔法の発動そのものを阻害する究極のアンチマジック。
つまり、メディールの天敵である。
しかも今回は一機だけでなく、上級機甲天使らしきもう一機を引き連れていた。
フライトユニットにより空から現れた二機はメディールの近くにまで降り立つ。
「申し訳ありませんが……時間が惜しいので早々に済ませてしまいますね」
イスラフィルはそう告げ、もう一機を前に出した。
もう一機の天使、その外見は非常に強い特徴を持っている。
メディールが上級機甲天使『らしき』と感じたのはその特徴的過ぎる外見によってだった。
まず、全身灰色一色。
灰にしか見えない淡い鼠色、地味なライトグレー。
服や髪は当然、顔色さえも灰色一色オンリー。
その上瞳は虚ろでどこを見ているのかさえわからない。
人の姿をしているが、人と呼ぶより人形に等しかった。
『僕は……誰ですか? 僕は、貴女ですか?』
それは、酷く抑揚のない声でそう呟く。
「何……これ?」
こいつと呼ぶ事さえ憚られる何か。
実際連れて来たイスラフィルも彼女の事は仲間と思っていない。
会話さえなりたたないから、これは単なる便利な道具であった。
「私と違って上級機甲天使の面汚しなのですが、これがまた面倒な事にかなり優秀な能力を持っているのですよ。ええ……私よりは劣りますが」
『僕は、面汚し? 面汚しが、僕?』
「どうでも良いですよ。さあ『戯言人形』、目の前の相手の車輪を回しなさい」
『車輪? 車輪? ……車輪。くるくるくるくる……歯車が回る。くるくるくるくる、想いは巡る。くるくるくるくる……貴女は、だあれ? 黒い姿の、貴女はどこに?』
淡々と、抑揚もない歌。
戯言人形と呼ばれた灰色のそれは『くるくる』と歌っていたかと思うと突然メディールに焦点を合わせ見つめ出す。
直後、メディールの視界がぐらっと揺れる。
まるで気を失う前の様に目の前が真っ白になった。
上級機甲天使ではあるが、これは自主的には何もしないし何も出来ない。
精神があるのかないのかさえわからないから、それは戯言人形などと呼ばれた。
そんな彼女が出来る事は、たった一つだけ。
『洗脳』
彼女の能力は記憶の改竄である。
「大丈夫ですよ。ええ……大丈夫。貴女は幸福です。私の教え子として、幸せに生きる事が出来るのですから。だからもう……何も心配は要りません……」
イスラフィルは微笑みながら、メディールを見つめる。
洗脳し自分の配下とすれば、裏切らせれば、それは大きな功績となる。
その為だけに、イスラフィルは気持ちが悪いのを我慢し、戯言人形を連れてきたのだ。
これで自分は再び地位も名誉も手に出来る。
いや、ナンバーズがいない今自分こそがナンバーズとなれる。
それどころか天使を支配する立場にだって……。
既にイスラフィルは成功する事しか考えていない。
そう……彼女はいつだって、失敗する事を考えない。
自己を振り返らず、己の過ちはない物としか思わず。
だからこそ、イスラフィルはカウンターマジックなんて力を持ちながら、メディールに魔法を行使させるなんて愚挙をおかした。
洗脳、記憶の浄化。
それが強力な力である事に違いはない。
だが、相手が悪かった。
サキュバスは相手を魅了し虜にし吸い殺すという最悪な生態を持つ、最低な種族である。
サキュバスが餌を得る為には、必ず相手を罠に堕とさなければならない。
吸い殺す事が前提である以上交渉の席を用意する事さえも望めないからだ。
つまり……彼女達にとって洗脳能力は持っていて当たり前の能力である。
そんな洗脳と共に歩んで来たサキュバスという種族に、何の前準備もなく不信感顕わにした状態で洗脳が通用する訳がなかった。
メディールは己が洗脳されかかったと気付いた瞬間に、即座に己に洗脳をかけ直した。
天使はサキュバスを知っておりその対策も持っている。
にも関わらずこの状況に陥ったのは、他者を軽視するイスラフィルの悪癖故と言えるだろう。
そしてその悪癖が、眠っていた物を叩き起こした。
古来より<ドラゴンの尾を踏む>ということわざがある。
類似の言葉は無数にあるが、これが最もわかりやすいから、人類、魔物両方が周知している程幅広く伝わっている。
逆鱗を知らぬ物でも、絵本しか読んだ事ない子供でも、知っている位だ。
内容もまた単純で、触れてはいけない部分に触れ、相手をとても怒らせるという事。
イスラフィルが、戯言人形が消そうとした最初の記憶は、クロスとの出会いの記憶だった。
戯言人形であったそれは、パンと乾いた音を共に、内側からはじけ飛んだ。
「……面白い出し物だったわね。ええ……気が狂いそうな位に」
メディールの殺意を向きだしとした一言を聞き、イスラフィルは苦笑する。
油断し、失敗し、仲間を死なせてしまった事にではない。
イスラフィルは失敗したという自覚さえない。
この期に及んでまだ己の方が有利であると高を括っているから故の、嘲笑を意味する苦笑だった。
「唯一のチャンスを無駄にしましたね。もう魔法を使わせませんよ」
やはり彼女は、失敗を考えない。
何故、アリスがメディール討伐命令を取り下げたのかさえ、彼女は一度も考えた事がない。
数か月という時間があったのだから、メディールが対策を用意しているという当たり前の発想さえ、彼女にはなかった。
「ミツバチって、知ってる?」
「いきなり何を言っているのですか? 人程度が知っている事を、私達天使が知らない訳がないでしょう」
「そう。だったらもう良いわ」
メディールは会話を途切れさせ、わざとらしく魔法を発動させる。
だが、魔法が形となる事はない。
その前に阻害され、打ち消されるからだ。
「無駄ですよ。その程度もわかりませんか? いえ、それもしょうがない事です。大きすぎる我らを人は正しく認識出来ませんからね」
「本当にそう?」
呟き、再び魔法を発動させ、打ち消される。
一体何を――と尋ねる前に再度魔法が発動され、イスラフィルは打ち消した。
発動阻害した魔法を解析し、イスラフィルは気づいた。
使おうとしている魔法自体限りなく微弱な物で、こんな物を発動させたところでイスラフィルは何のダメージも喰らわない。
つまり……。
「数を打てば何とかなると思ってるのですか? ……哀れな」
「あら? どうにかならないの?」
呟き、メディールは再び魔法を行使する。
ただし、今度は二つ同時に。
同じ魔法が二つ同時に発動されて――同時にキャンセルされた。
「一つしか消せないと言った覚えはありませんが?」
「ええ、聞いてないもの」
呟き、四つ同時に発動しキャンセル。
何をしたいのかまるでわからない。
一体何故こんな無駄な徒労を重ねているのか。
発動そのものをキャンセルしているから魔力は消費されないが、それでも疲労は残るというのに。
イスラフィルはそう考えながら、十六同時詠唱をキャンセル。
まだ、イスラフィルは気付かない。
普通の人間は、例え同じ魔法であっても十六同時発動なんて出来ない事を。
攻撃を雨の様に無数に降らせる魔法はある。
無限に等しい程の連続した攻撃を行う手段もある。
だがそれらはそういった形式の『一つの魔法』である。
魔法の同時行使というのは、数に伴い難易度が上がっていく。
二つの魔法を実戦で使えたら十分に一流である。
最も優れた学者であり研究者であるアウラでさえ、慣れている魔法でも同時行使なら十を超えるのが精々だろう。
メディールはずっと、イスラフィルの対策を考えていた。
そして出した結論が、これ。
限りなく省略し『呪文も動作もいらない簡略化し切った魔法』を用意し、そして発動する事にコピーし再発動させるという技術。
発動させる魔法自体はぶっちゃけおまけ。
本命は、魔法内容の保存と繰り返しの方にあった。
つまり、二なら四、四なら八、八なら十六という倍々計算を、シングルアクションで行える特殊形態の魔法である。
八千を超える魔法の発動を同時にキャンセルして、そこでようやく、イスラフィルはその特異性に気が付いた。
簡単すぎる魔法である上に同じ魔法である為、まだまだ処理には余裕がある。
元々イスラフィルは世界総ての魔法使いを封殺する事を想定し造られている。
だから気づくのに遅れたが、個人で八千の魔法同時行使というのは魔力消費なしの空撃ちにしてもあまりにもおかしい。
そう考えている時に一万六千の魔法発動を感知し、イスラフィルは魔法をキャンセル。
静かに顔を青ざめさせるイスラフィルとは対照的に、メディールは平然と、どうでも良さそうな顔で殺意を送り続けていた。
「くっ! 一体どんなトリックを使った。たかだか人間如きにそんな事出来る訳が……どこかに部下を隠しているのか!? それとも脳の直列といった非人道的な手段を……」
「いやトリックなんて大した事じゃないわ。精々小技よ」
無限倍増コピー魔法と言えば聞こえは良いが、本当に簡単な、魔法である必要さえない程の魔法しかコピーできない欠陥魔法である。
今回が終われば使う事はなくなるだろう。
だがそれでも、イスラフィルを殺すのには十分だった。
数億という同時発動の並列キャンセル処理によって、ついにイスラフィルの限界が到達しその魔法が発動される。
その魔法は……。
「何……これ……」
イスラフィルはぽかーんとした顔で、妨害に失敗し発動された数個の魔法を目視する。
これはおよそ二センチ位の、小さな火の玉だった。
何の特徴もない。
強大な魔力を持っている訳でもなければ途中で変化する性質もない。
ただの、キャンドルに燃える程度と同じ熱量を持っただけの火種が浮いているだけだった。
びっくり箱を押し付けられたけど、中身がしょぼくて驚けなかった。
イスラフィルはそんな心境を覚え、文句を言おうとする。
直後に再び魔法が発動されるが、今度は阻害さえしない。
こんな魔法をわざわざ阻害する必要がない。
瞬間、イスラフィルの全身が火だるまになった。
何でもない火種とは言え、火である事に変わりはない。
数十億の火種が全て、イスラフィルに直撃したらどうなるかと言えば、その結果がこれである。
とは言えイスラフィルにダメージはない。
所詮はただの火でしかない。
「……この程度の事が、貴女のしたい事なの?」
全身が炎上しながら、されど無傷のまま、退屈そうにイスラフィルは呟く。
返事がないと確認して、小さく、溜息を吐いた。
「……がっかりね。何かしてくると思ったけどまさかこの程度だなんて」
優位性を見出し、自尊心を高め、勝利を確信し見下す。
イスラフィルは気付いていなかった。
既に、負けが決まっている事に。
ぶつぶつイスラフィルが呟いている時にはメディールは既に離れた場所に移動し、外からそれを見ていた。
その、イスラフィルを閉じ込める巨大な蒼い火の玉を。
魔力が続く限り無限に繰り返し発動される倍々計算の火の玉。
通常の魔物ならとうに焼け死んでいるそれを平然と耐えている天使だが、だからこそ逆にこれから酷い事。
密集し圧縮した炎は物理的な壁に等しく、そこから逃れるのは困難。
どれだけ藻掻こうとも、幾つ炎の壁を壊そうとも、次に出て来るのはまた高度に圧縮された炎の壁だからだ。
藻掻こうとも藻掻こうとも出て来る壁は物理的な硬度を持ちながらスライムの様に粘度もあり、そして当然気体であるから振り払う事も難しい。
更に、放置する油料理かの如く炎は時間と共に徐々に熱量をあげていく。
そしてその結果最後には……。
「さて、蒸し焼きまで後何時間かしらね」
そう呟き、メディールは片手間に魔法を行使し炎の壁を追加しながら、本を取り出し地面に座りこむ。
既に脳処理の限界により倍々式はストップし、また魔力も少々怪しくなったから先程までの様に気軽に連射も出来ない。
それでも、イスラフィルが突破する炎の厚みよりも、追加される厚みの方が遥かに多かった。
三時間程経過した辺りで、炎の中で暴れ藻掻いている様子が見えたが、無視した。
そこから二時間程したら動かなくなったが、それでもしばらく無視をした。
そこから更に、六時間。
燃やす物がなくなり炎が鎮火しだしてから、メディールは水の大規模魔法にて火を鎮火する。
それでもしばらく消えなくて、メリーに聞いた事を思い出し酸素を完全に遮断して炎を物理的に燃えない状態にし鎮火した。
終わった後、その中には燃えカス一つ残っていなかった。
「リベンジ成功。悪いわね。最近失敗したばかりだったから小さくても功績が欲しかったの」
どうでも良さそうに、そうメディールは言い残した。
ありがとうございました。




