その翡翠は悲しむ様な藍だった
気付いた時には、朝となっていた。
至福とも言える時間だった。
拷問とも言える時間だった。
美女と抱き合いながらの睡眠。
それはクロスにとって、特別な時間である事は間違いなかった。
男として、誇らしい時間だった。
清々しくもさっぱりとした気分になった。
同時に、男として、情けない時間でもあった。
目の前のご馳走に手が出せぬ事はあまりにも惨めな気分であり、悔しさで一杯になっていた。
それでも、まあ、悪くはなかった。
寝起きで見た最初の翡翠の顔。
作り物でない穏やかな笑みを浮かべ、こちらが目を開けるのを待つその顔を見ると、まあ……我慢して良かった、なんて思える自分の現金さに、クロスは苦笑いを浮かべた。
「おはよう翡翠。良く眠れた?」
その言葉を聞き、翡翠は自分の頬をぷにっと指差した。
「あてね、今ちゃんと化粧落としとるんよ。ふふ……けったいな顔やったら堪忍な?」
「まさか。昨日よりも綺麗だよ。化粧なんていらないんじゃないかな」
「まぁ……。あんさんも口がお上手やね」
「そりゃ、本心で言ってるからね。さて……朝になった事だし、君の事情、聞かせてくれるかな?」
そう、クロスは問いかけ体を起こす。
昨日まではただ接待されるだけの時間。
これからは、ここの里長とか言われるのには悪いが、この子の為のお節介の時間。
その為以外に時間を使うつもりは、クロスにはなかった。
「うん……ええよ。ほんまはあんさんにどうにか出来る問題やないんやけど、それでもあんさんに預けるのが一番なのわかっとるし」
そう言って安らかな笑みを浮かべる翡翠。
その顔は助かる事に期待するというよりも、どう見てもただの諦めだった。
「……そんなに大変な事なのか? これでも、そこそこコネとかあるし割と何でも解決出来るつもりだけど……」
「そのコネが問題なんやけどな。ま、詳しい話は……朝餉、朝ご飯の後にしよ? 流石に昨晩程豪勢にはいけへんけど、朝も朝で趣があるから、期待して――」
「いや、昨日は予想以上にがっつりだったし、後、君の普段の事とかも知りたい。だから朝食は気分を変えて翡翠が食べてるものが食べたいかな」
「別にええけど、ほんま大したもんだせんよ?」
「それで良いんだよ。ほら、普段の君らの事を知るのも仕事の内と言う事で……」
「……ただ、かわったもん、食べたいだけやろ?」
「うん」
クロスは素直に頷くのを見て、翡翠はくすりと笑った。
「はいはい。しゃーないお方やなぁ。それじゃ、まずはお布団片付けな。あんさん、のいてくれるかな?」
「あ、ああ……」
ようやくが我慢せずに良くなったという心境と、チャンスがなくなるという未練、それに、翡翠ともう少しくっついていたいという気持ち。
それが入り交じった様子のクロスを見て、翡翠は見上げる様に、クロスを見つめた。
「あては……今からでも、ええよ?」
頬が高揚し、瞳は潤んで。
誰しもが手を伸ばしたくなるの様な、そんな表情。
文句のつけようがない、男性の理想図。
男性が望む、女性の表情。
つまり、作り物である。
だからこそ、クロスは布団から離れた。
「我慢するって決めたからな! そんな事よりも、翡翠の問題の事の方が先だ!」
そう、クロスは叫ぶ。
他の誰でもなく、自分を説得する為に。
そんな意地張った子供みたいなクロスが可愛くて、翡翠は嬉しそうに微笑んだ。
「ほんま、堪忍な」
そう、ニコニコする翡翠を見ると、クロスは何も言えなかった。
「それじゃ、あてらのご飯持って来るからちょいと待っててくんなまし」
片した布団の後にテーブルを置き、そう言葉にする翡翠。
それにクロスは頷いた。
「あ、その」
「大丈夫。ちゃんと連れて来よります」
何を言いたいのか理解した翡翠に先回りで言われ、クロスは微笑み頷く。
それを見送って、翡翠はその部屋を後にした。
軽く身だしなみを整え、エリーを呼びに行く翡翠。
その丁度で、エリーは格好を整えて部屋の外に出て来た。
昨日の様なしっかりした高価な着物ではなく、安いけれどもしっかりとした着物。
そんな服装のエリーは翡翠を見かけ、ぺこりと小さくお辞儀をした。
「おはようございます」
「おはようさん。朝はよから着替えて、どうかしはった?」
「いえ。朝食の事を尋ねようと」
「そら丁度良かった。いまあての部屋にあんさんの主様おるから、一緒に食べよって誘うつもりやったんよ」
「なるほど。……ふむ、もしかして、私の予想外れました?」
エリーの言葉に翡翠は微笑み、首を横に振った。
「いいや。悔しいけど、あんさんの予想、大当たりやったよ」
「それは良かった。いえ、良くなかったのでしょうか」
「さて、どっちの方がえかったかなんて、あてにはわからんな。ただまぁ……今日のご飯はいつもよりも味がわかる様な気がするわ」
「それは何より」
「さて、主様からのご要望で、食事はいつもあてが食べとるもんが良いというとりますが、それでええですか?」
「ええ。私は構いませんよ」
「それなら……」
そんな会話をしながら、翡翠とエリーはゆっくりと歩く。
昨日よりもずっと、話しやすい雰囲気になっていると感じるのはきっと気のせいではないだろう。
そう、エリーは思った。
「そんで……これは?」
クロスは半月状の硬い物をさくっとフォークで差し尋ねた。
「たくわん。野菜の漬物……えっと……ぴくるすやな」
「ほーん……」
そう言いながら口に頬張り、目を丸くした。
塩辛くてすっぱくて……。
苦しむ様子のまま、クロスは熱いお茶を一気に流し込み、むりやりそれを飲みこむ。
とてもではないがクロスの口に合う物ではなかった。
「あー。クロスさん子供舌ですからねぇ」
ぽりぽりと同じ物かじりながらエリーはそう呟いた。
「ほな、これは?」
同じ形状の白い物を指差し尋ねる翡翠。
それにクロスは怯える様な顔で首をふるふると横に振った。
「大丈夫。これ、魚のすり身や」
そう言われ、クロスは恐る恐る蒲鉾を小さくかじった。
「……あ、美味い」
「せやろ? うちはええもんつことるから切れ端でもおいしやろ」
「ああ。こっちなら大丈夫。つか幾らでも食えそうだ」
「ふふ……たんとおあがりや」
ニコニコ顔で、そっと卵焼きの切れ端もクロスの方に動かす翡翠。
そんな翡翠の変化を当たり前の様に思い気にもせず、エリーは黙々と箸の練習をしながら食事を続けた。
おにぎりと漬物や卵焼き等の切れ端、それに具のない味噌汁。
お客様の為に用意した料理、の余り。
それが翡翠の普段の食事だった。
「おもたよりもわびしかったやろ?」
ケラケラ笑いながらの翡翠の言葉。
それにクロスは笑いながら頷いた。
「ああ。と言っても、そんなもんなんだろ? お偉いさんはともかくここの嬢達って」
「いんや。ここにいるんはお客様の疲れを癒す桃源郷の担い手。桃源郷を守る女を、桃源郷が蔑ろにするわけあらへんやん。もっとええもんもろとるよ」
「んじゃ、この食事は?」
「あての分。別に嫌がらせを受けてるわけやないよ。ただな…………残ったらもったいないやん?」
そう言って翡翠は悪戯っ子の様に微笑んだ。
「なるほどねぇ。残り物処理に手伝わされたと?」
「おこらんといてー」
そう言って、翡翠は可愛らしい笑顔で両手を頭の上においた。
「怒らないって。ただ、それを毎日してるんだろ? 本当に翡翠は良い子だなと思ってな」
「褒めても何もでーへんで」
「そりゃ残念」
両手を横に広げ、お道化る様な仕草をし、その後……クロスは表情を切り替えじっと翡翠の方を見つめた。
「それで、そろそろ聞かせて貰えるかな?」
「……ええよ。どうやらあんさん、ほんとに引いてくれそうにないし」
苦笑を含んだ寂しい笑い。
そんな表情をした後、翡翠はちらっとエリーの方に目を向けた。
「そんで、あんさんはなーんも事情知らへんはずやけど、話に付いてこれてる?」
「えっと。想像ですけど、翡翠さんが何かやっかい事を抱えていて、それをクロスさんがかっこつけの為に助けると言って、これからその厄介事の話をする、で良いでしょうか?」
「……なんで、一から十までわかってんの?」
「そりゃ、クロスさんのする事ですから」
そう言ってエリーはにっこりと微笑んだ。
「俺の事が良くわかってる従者を持てて幸せだわ」
「そう思うならもう少しこう……従者らしく扱って貰えませんかねぇ。まあ、クロスさんらしいですけど」
「努力はしてるから」
その言葉にエリーは溜息で答えた。
ただ、その表情は柔らかく、決して嫌そうではなかった。
「はいはい妬ける妬ける。……それで、お話してよろし?」
少し拗ねた様な顔、そんな顔の翡翠に気圧される様クロスとエリーは頷く。
それを見て、翡翠はすっと立ち上がった。
「話す場所があるさかい……ちょっと黙ってついてきてもらえへんか?」
その言葉に、クロスとエリーは頷いた。
翡翠に案内され、クロスとエリーは翡翠の背中を見ながら、ゆっくりと豪勢な建物を歩く。
出会うのは皆、麗しい女性のみ。
角が生えていたり、翼が生えていたり、目が一つだったり、手が多かったり肌の色が違っていたり。
だが、みーんな同じ様に、同じ笑顔でクロス達に頭を下げる。
それにぺこぺこ頭を下げ返しながらゆっくりと進み、そしてクロス達は、翡翠が立ち止まったその背を見て、同じ様に立ち止まった。
両開きの扉の、その部屋の前で。
その扉だけは、少々雰囲気が異なっていた。
今までの蓬莱風の引き戸ではなく、普通の鍵付きで金色のドアノブのついた扉。
どことなく魔王城や人間の城のお偉いさんの部屋の様な、そんな今までクロスがこの里の外で見て来た雰囲気の扉。
そこに、翡翠はノックもせずに入っていった。
部屋に入った翡翠はコート掛けに掛けられた上着を羽織り、着物を内に隠して軍服にも似た凛々しい制服姿となり、そのまま個人用テーブルの奥にある椅子に、部屋主の為の椅子に座った。
「では改め……、蓬莱の里にて長の座を務める、玉藍と申します。どうぞ、よしなに」
翡翠と名乗っていた女性は今までの様な変わった話し方をせず、まるで当たり前の様に普通な言葉遣いで、清々しい程にわかりやすいビジネススマイルを浮かべた。
「……え……えぇ……」
流石にそれは予想外で、クロスはぽかーんと間抜け面を晒し、エリーは困惑し顔を引きつらせた。
「さて、こんな厄介な私でも……あてでも、助けてくれはりますか?」
意地悪な笑みを浮かべながらの、そんな言葉。
遠ざけたいという気持ちと、縋りたいという気持ち。
そんな物が見え隠れする翡翠に、玉藍に対して、クロスが持つ答えなんて一つしかなかった。
「当然だろ。綺麗な女性が笑う為なら、俺は多少の無茶はするさ。……とは言え……そうかぁ里長様だったかぁ。どうやら俺ではなく、エリーが役に立つ場面の様だ」
クロスに政治はわからない。
クロスは他者の気持ちには聡く、子供相手は出来て、器用な事は自負している。
だが、それはそれとして、学はなく、馬鹿で、スケベで、そして政に対しては無知そのものだった。
「はい。微力ですが、主の手が届かぬ部分は私が補いましょう」
「という事だ。翡翠……じゃなくて玉藍。俺に何をして欲しい。どうすれば、君が笑顔になれる?」
その言葉に、嬉しそうな、泣きそうな、そんな表情を玉藍は浮かべていた。
ありがとうございました。




