絶対に後悔する選択
楽しい時間はあっという間で、気づけばもう夜遅く。
エリーでさえ、今日という日はそれはもう完璧に、任務の事を忘れていた。
食後にあった事なんて、翡翠を加えての三名程の女性達と軽く簡単なゲームをしただけである。
絵を合わせる様なカードだったり、女性の踊りに合わせて踊ったり、そんなレクリエーション程度のゲーム。
ただそれだけなのに、恐ろしく楽しかった。
同性であるのにこれだけ楽しかったのだ。
男の人がハマる気持ちをエリーは痛い程に理解出来てしまった。
もし、もしもの話だが、クロスと出会う前の自分がこれに出会ったら間違いなくハマっていただろう。
そんな事を考えると少し恐ろしい事この上ない。
とは言え、それも今日まで。
明日からは公務としてやらないといけない事が多々あるのだから、接待で遊べるのはクロスはともかくエリーは無理である。
だからこそ、その今日残されたわずかな時間を精一杯楽しむ為に、魔王城の風呂よりも広いと噂される風呂にエリーは向かい……そこで風呂上りの翡翠を目撃した。
もとから長く艶めいていた髪は湯で濡れいつもよりも尚色気が醸し出され……。
そんな精霊であるエリー以上にこの世離れした美女の翡翠は、エリーの姿を見てにこりと微笑んだ。
「あら惜しかったどすなぁ。もすこしあてが遅ければ、ご一緒出来ましたのに……ほんま堪忍な」
「あはは……それもそれで楽しそうですけど、色々と見て自信を失くすのも悲しいのでまあ良かったと思いましょう」
「いけずやなぁ。あてとあんさんなんてそないに変わらへんのに。そんで、少々聞き辛いんやけどあてはまあばっさりいく性質やさかい、はっきり聞きましょ。……この後あてがあの方と逢っても、本当にええの?」
そう、翡翠は少しだけ真面目な口調で尋ねる。
夜に、男女が逢うという事。
つまりそういう事である。
そもそもの話、前提の事なのだが、この場所はそういう事も踏まえての接待である事など、考えなくともわかる事だ。
女性しかいない桃源郷で男の客に人気。
それは当たり前でしかなかった。
そして翡翠の言う通り、確かにエリーはクロスに対して並々ならぬ感情を抱いている。
ただし、それは決して恋愛感情ではなかった。
「構いませんよ。いえ本当に。そもそもあの方常日頃からハーレム希望とか後腐れない一夜の出会いとか大好きな方ですし」
そう言って、エリーは溜息を吐く。
事前に、ハニートラップに近い事があるかもしれないから注意してくれとは伝えてある。
国内とは言え独自勢力で、立場は魔王代行。
であるならば、きっと何か仕掛けて来るだろう。
だからそう伝えているのだが、ぶっちゃけエリーは無駄だとわかっている。
クロスが女に弱くない訳がない。
女に弱いからこそ、自分みたいなのが傍にいても嫌がるそぶりを見せず、むしろ喜んでいるのだから。
そう思うと、エリーは再度、溜息を吐いた。
嬉しいけど、代行業を受ける者として失格の困った主に対して。
「おや? あんさん達はえろう仲良くみえたさかいそないな事尋ねたけど……余計な気遣いやったなぁ。堪忍な」
「いえいえ。仲が良いとは思いますよ。クロスさんは我が主。忠誠を誓い命を捧げています。逆に言えば、主だからこそ彼女面するつもりもその行動に私や周りに不利益が出ない限り抑制するつもりもありません」
「羨ましい様な邪魔くさい様な……何とも不思議で素敵な関係やね。ちょっと妬けてまうわぁ」
「あはは……。ただ、一つ良いですか?」
「はいはい何でっしゃろ? ご忠告?」
「いえ、我が主は貴女の様な美女に底抜けに弱いです。特に、色気の強い女性には即ひっかかるでしょう」
「……名代やろ? なのにそないでええの?」
「良いんですよ。それも味で、そして何かあればその為に私がいますから」
「おや。それはあてに対しての忠告かえ?」
「いえ。そういう話ではありません。確かに主は弱いです。でも、だからこそ、きっと今日は貴女に手を出しません。だからあまり気にしないで下さい」
そう、エリーはきっぱりと断言した。
「……それは、あてに魅力がないという事かえ?」
「まさか。女性として嫉妬をする事すらない程、翡翠さんは大変魅力的ですよ。クロスさんも常時鼻の下伸ばしていたじゃないですか」
「じゃ、あれかえ? 商売女は嫌やーとか、そういう?」
「いえ。むしろ喜びます。時々行きたそうにしていましたから。……まあ財政を私が握っているので行かせませんでしたが」
「あんさん、角は生えとらんのに立派に鬼やっとるなぁ。鬼嫁みたいや」
そう言って翡翠はけらけらと笑った。
「だらしない主を支えるのも従者の使命ですから。とは言え、そういう役割は主にパートナーが出来たら譲るつもりですけどね。翡翠さんはどうです? 立候補しません?」
冗談なのか本気なのかわからないエリーの言葉。
その言葉に翡翠は微笑んだ。
「男女の縁はどうなるかなんて誰にもわからへん。ま、その時が来たら、その時はその時でよろしゅうという事で」
そう言葉にし、ぺこりと頭をさげ翡翠は去っていった。
「……傷付けちゃったかなぁ」
そう、エリーは呟いた。
クロスが手を出さないと言った時、翡翠は確かに、少しだけ苛立ちの感情の色が魔力に現れていた。
表面に一切出さないのは見事だが、エリーには残念な事に意味がなかった。
超一流で、おそらく篭絡させる事も仕事の内なのだからプライドを傷つけたのだろう。
だが、エリーは確信していた。
クロスが、今晩だけは、翡翠に絶対に手を出さないと。
「だって……私にすらわかる事ですからねぇ」
そういう方面で言えば、女性の扱いという意味で言えば、エリーはクロスならそう行動すると確信していた。
でなければ、自分は未だあの暗い思想に支配され名誉だけを求めて生きていた。
こんな風に嫌いだった誰かを主として敬愛するなんて事なかっただろう。
クロスの行動を確信しているからこそ、エリーは苦笑いを浮かべた。
明日から、また新しい厄介事を手伝う日々になるだろうなと思いながら。
招かれた部屋の前で立ち止まり、クロスは一歩踏み出せずガッチガチに緊張していた。
クロスは女性が好きで、そしてそういう大人な交流が大好きである。
だが、実際そういう経験が多かったかと言われれば、実はそうでもない。
回数で言えば十数回、人数で言えば二人。
酒に酔ってとかそういう記憶にない事はわからないが、クロスの記憶にある誰かとむつみあった記憶は、たった二人分だけだった。
人間の頃、勇者の仲間となる前、クロスが生まれた村で暮らしていた時の事で、一人は普通に恋をして、そしてあっさりと捨てられた時。
『元々キープだったから』
そんな言葉と共にクロスは振られ、その女性はその本命の男の住む大きな都市の方に向かい、それっきりとなった。
もう一人は、酒場で仲良くなってその流れで。
深い理由も悲しい動機もない。
ただウマがあって楽しんで、そして翌日いつも通りただの村人同士に戻って。
そういう関係を半年程続け、自然消滅した。
クロス自身は割とゆるい人間であり、本来ならもっと多くの人と交流(意味深)したかったのだが、それでもたった二人に限られる。
何故なら、クロスがこの村を去った時、勇者の仲間となったからだ。
勇者の仲間として恥ずべき事は出来ない。
この一員として誰かに恥を掻かせてはいけない。
出来る限り、公明正大でいなければ。
そう考え、クロスは己を戒めてきた。
それだけでなく、彼ら勇者達に付いて行く事に必死だった為余裕がなかったのと、彼らと共にする事があまりに居心地が良くてそう言う事に興味が薄れ、気づけば誰に手を出す事もないまま、旅は終わりとなっていた。
だが、それはそれ、前世の考え方。
本来のクロスは、そういう事が大好きである。
その上で、絶賛絶頂期の肉体に、全ての経験が詰まった心。
思春期男子位には、クロスはそういう事を好む性質となっていた。
だからこそ、クロスは緊張していた。
意識があるだけでもそれは数十年ぶりの事であり、そしてこの肉体では初めての事。
期待に膨らむのと反面、息子と心は小さく委縮しきっている。
それでも、その変な汗が出そうな緊張をクロスは必死にこらえ、そっと引き戸を開け放った。
中は、少し前の桃源郷の続き、幸せしかない世界だった。
明りにて明るい中、中央にふとんが敷かれた部屋で、翡翠はそっとクロスに微笑みかけた。
「遅かったやん。ふふ……。あて待ちぼうけになるかと思ったわ」
そう思ってもないようなそぶりと共にこの世ならざる厭らしい妖艶な笑み。
ふとんの傍で正座をしている翡翠。
ほとんど露出がなく、ただ真っ白いだけで何の色もない着物を着ているだけなのに、クロスには何故かそれが卑猥な服装の様に思えた。
「すまん。緊張して……」
「あらあら。あんま硬くならへんでも大丈夫よ? とりあえず、少しお話しましょ?」
そう言葉にし、隣に座る様翡翠はちょいちょいと手を動かす。
それに頷き、一メートル程開けてクロスは隣に胡坐をかいて座った。
翡翠はニコニコと邪気のない様な笑顔を浮かべ、手の平よりも小さな器に透明な液体を注ぎ、クロスに手渡した。
「こういうのは勢いが肝心やさかい、緊張なんてもの、これと一緒に飲み干しや」
その言葉に頷き、クロスはその液体を一気に傾ける。
食事の時に飲んだ『酒』という名前のお酒。
鋭いかぎ爪の様な辛さと水よりも潤う様ななめらかさを持った、不思議な酒。
ただこのお酒は、夕方食事と共に嗜んだ物よりも辛みはなく、同時にすっきりとした味わいだった。
「……同じ種類の酒と思えない程に味が違うな」
「そらお酒言うても誰が、どこで、どう作るかによって味は変わるもんやろ?」
「まあなぁ。だが、それにしてもまるで別物だわこれ」
「辛いのが好きなんも、甘いのが好きなんも、みーんな自由や。だから酒は美味いんやろ?」
「……違いねぇ」
そう呟き、クロスは残ったお酒と共に、この場を楽しむのに不必要な緊張と共に一気に流し込んだ。
「ちなみに、それ、あての好きなお酒やさかい、あてが気に入ったなら是非覚えといて」
「ほぅ。なるほどねぇ。こういう味が好きなのか」
「せやで。そんで覚えてもろたなら……今度逢う時はこういうのもってきてくれるの、期待してはるよ?」
「俺としちゃ、次も期待して良いのなら嬉しい限りだな」
「ま、それはあんさん次第やろなぁ」
そう言葉にすると、当然の様に翡翠はクロスの肩にしな垂れかかる。
そっと柔らかい身体を預け……甘い様な艶のある顔で、潤んだ瞳でクロスを見つめる翡翠。
それが演技であるとわかっても、それでもぐっと来る表情である事には違いなかった。
その時、クロスは興奮こそしているが、緊張はしていなかった。
男性を悦ばせるプロである翡翠が、男性を緊張させたままでいさせる訳がない。
だからこそ、緊張していた時に気づかなかった事につい気づいてしまった。
そして、一つの違和感に気づいてしまえば、後はもう一瞬。
気づくべきでない事に色々と気づいていく。
クロスは確かに学は足りず、馬鹿と呼んでも良い。
だが、決して鈍くはなかった。
「あてな、実はこういう事すんの、とてもひさしぶりなんよ。何百年か……そこらの。せやから……優しくな?」
翡翠は頬を紅潮させ、そっとふとんの方に移動し、そのまま体を倒す。
それと同時に、枕元にある小さな明かり以外が消え薄暗くなった。
目が利きにくいからこそわかる、甘い香り。
この時の為の様なお香が、部屋と翡翠から漂ってくる。
そのまま動かないクロス。
それに潤んだ瞳のまま、翡翠は呟いた。
「あんさんいけずやね……。いつまで……あてを待たせはるの?」
ああ、これは……絶対に後悔する。
それだけは確かだった。
だが、それでも……どうせどっちを選んでも後悔をするのなら……せめてかっこつけられる方で後悔しよう。
そう、クロスは心の中で泣きながら、選択をした。
「……で、出来るかー!」
唐突に、そんな叫び声をあげるクロス。
それに、翡翠はびっくりして固まった。
そう、気づいてしまえば、それはもうどうしようもなかった。
部屋の隅にある小さな机。
正座したら丁度膝の位置に来るような変わった形の椅子もない机の上には、何かの書類が散乱して乗っていた。
ここは男の桃源郷。
男を癒す事を誇りとし芸を磨き続ける女の世界。
そんな場所に、仕事を匂わせるものが置いている事はありえない事だった。
そこに気づくと、もう重箱の隅をつつく様な細かい事がボロボロ目に付いて、そして最大の要点、問題、大切な事に繋がり、答えが見えてしまった。
翡翠という存在について、とても大切な事に。
「翡翠、いつから寝ていない?」
「はい? 別にあては……」
「顔、やつれてるし隈が酷いぞ」
「そんな訳、あてはちゃんと化粧で隠し……」
翡翠は自分の口に手を当てた。
自分の失言に気づいて。
確かに、翡翠の化粧は完璧で、そんな様子微塵も出ていない。
逆に言えば、風呂上りでありながらもそこまでがっつりメイクをしないといけない様な顔となっている事だった。
「はぁ。やっぱりな。流石に、化粧で誤魔化しきれないレベルで酷くなってるぞ……」
そう言ってから、クロスはふとんの上、翡翠の隣に座った。
そう、手を出せる訳がなかった。
クロスが望むのは、お互い楽しくて気楽で、後腐れもない逢瀬である。
だからこそ隈が酷く、やせ細るまで悩む様子の弱った女性となんて、出来る訳がなかった。
「あてが日々の苦労を癒す為に、ちょいと付き合って欲しかったって言ったら、あんさんは何て――」
「そんな小さな悩みじゃないだろ?」
クロスは言い切った。
何に悩んで、どんな苦労をしているのかわからない。
どれほど重たい過去を背負っているのか知る由すらない。
だが、短い時間でもわかる事はある。
翡翠は文句なしの客を楽しませるプロである。
おそらくだが、夜の方も楽しませる事の一流であろう。
その超が付く一流が部屋を散らかしたままにしているのだ。
それは、極普通の内容ではない事だけは確かだった。
「今の翡翠みたいな様子の奴、人だった時見た事があるんだわ。自分の限界点のトラブルを抱えて破滅寸前の奴だ」
「……ほんま、堪忍な。あはは……あても老いたもんやなぁ。お客様に見抜かれて、同情までされるなんて……。待っててな。すぐにあての代わりを――」
そう言って立ち去ろうとする翡翠の手を、クロスは掴み止めた。
「いらん」
「え? いや、あんさんすっかりその気やろ? だったら……」
「いらんったらいらん! それより、何に困ってるか教えてくれ。手が貸せるかわからんが、出来るだけの事はする、いや、させてくれ」
翡翠は最初、何を言っているのかわからなかった。
すこし考え、クロスが手助けしたいと申し出てくれていると気付くと、翡翠は笑った。
いまにも泣きそうな顔で。
「あんさんほんといけずやなぁ……。あてが抱えとるもん。そんな簡単なものやないで?」
「ああ。助けられるなんて無責任な事は言えん。だから、出来る事はするからさ、君の苦しみを少しだけでも、背負わせてくれないか?」
そんな事、最初からクロスにはわかっている。
こういう店で働いているのだ。
抱えている事も、溜め込んだ想いも一つや二つである訳がない。
それでも、例えそうでも……見逃せる訳が、放っとける訳がなかった。
別に深い理由や重たい事情は関係ない。
この後きっと苦労するだろうが、そんな事すら正直どうでも良い。
ただ、女の子が夜も寝れない程困っているのだ。
ならば、かっこつける為に助けなければいけないだろう。
たったそれだけの事。
たったそれだけだが、クロスが手を貸すに十分な理由だった。
ただ一つ……ただ一つだけ……後ろめたいながらも正直な事を想うならば……。
手を出す事を諦めた事。
こんな良い女との夜を見栄の為捨てた事。
それだけは、きっと生涯後悔するだろう。
そうクロスは確信していた。
「……はぁ。ほんと……あの子の言う通りやったなぁ……」
「ん? 何か言ったか?」
「なーんも」
そう言葉にし、翡翠は再度、クロスの肩にしなだれかかった。
今までの様な、作った妖艶さ、男の為だけに作られた顔ではなく、諦めた様な、そんな顔で。
「あんさん。ほんまいけずなお方やなぁ。わてを袖にするなんて……。泣いてまいそうやわ」
「……本当はいますぐ野獣になりたいんだけどねぇ……」
「なりはればええやん」
「出来る訳ないじゃん……。はぁ」
「ふふ……。せやろなぁ。あんさんはそういうお方やもんなぁ。……なああんさん。あまえたな事、言うても……ええかな?」
「甘えたって言うと……我儘って事かな? そんなら何でも言ってくれ」
「ほな……今晩、一緒に寝てくれへんか? あて、あんさんとならゆっくり眠れそうなんやけど……」
それはある意味、拷問に近い。
極上の料理が目の前にあるのに手が出せないのだから。
だが、それでも、クロスという男の答えは一つ以外ありえなかった。
「もちろん喜んで。こーんな美女と一緒に寝れるんだ。拒む男がいる訳がないだろう」
「ふふ。閨は断ったのに……ほんま、悪いお方……い……」
そう言葉にし、そっと横になる翡翠。
その横にクロスも移動すると、上布団をそっと被せ、翡翠はクロスの腕を枕に胸の中で目を閉じた。
今だけは、妖艶で、男の為に生きる桃源郷の住民でも、自分だけではどうしようもない苦難を迎えた者でもなく、翡翠は男に守られるただの美女として、何もかも忘れ眠りにつけた。
その横でクロスは美女と共に寝るという最高の幸福と生殺しという絶妙な地獄、両方を味わい続けていた。
ありがとうございました。
いるかわかりませんがもしいましたら……。
女性の読者の方、本当に色々と申し訳ありませんでした_(._.)_




