考えすぎる女と考えなしの男(後編)
中庭にて、クロスは苦笑を浮かべだらだらと冷や汗を流しながらぽつりと呟いた。
「あちゃー。裏目……だったかな?」
目の前にいる相手の様子を見るに、間違いなくその選択は裏目だったのだろう。
「さあどうでしょうか。いえいえ賢者様の選択ですから。そんな間違いなんてある訳がないじゃないですか」
そう言って美しい金髪の女性騎士は満面の笑みを浮かべたままクロスに相対していた。
ちなみに、そこそこ人通りが多い中庭にも関わらず向かいあう男女の周囲には誰もいない。
それ位は、その女性騎士の雰囲気は恐ろしいものとなっていた。
ごごごとかどどどとか……そう言った擬音が聞こえそうな恐ろしいオーラが見えそうな位には、リベルの怒りはわかりやすかった。
「……はぁ。まあ貴方が悪い訳ではないんですけどねぇ。ただ私が怒ってるだけで」
そう言ってリベルは小さく溜息を吐いた。
「えっと、施しとかそういう事が嫌いで騎士のプライドを刺激したから?」
恐る恐るのクロスの言葉にリベルは苦笑いで返した。
「違います。私はそんな潔癖ではありません。本来なら、誰の施しであっても……それどころか誰かから奪ってでも功績を求め続けています。それが醜い私ですから」
「じゃあ良いじゃん。良かった良かった。俺は間違ってな――ごめんなさい何でもありません」
クロスは不機嫌オーラ満開のリベルの睨みつけに負け両手を挙げながらふるふると首を横に振った。
「……逆に聞きたいんですけど……貴方は名誉欲とか物欲とかないんですか?」
「ん? いや普通にあるよめっちゃあるよ。ほら? 名前が売れると女の子からちやほやされる様になれるだろうし。後勲章とかかっこいいし」
「今でも十分ちやほやされてるんじゃないんですか? メイド達から」
この城に住んでいる訳でもないリベルですら、メイド達がクロスに狙いを定めているのは知っている。
高名で、心が綺麗で、それでいてどこか俗物で。
その上天涯孤独の身。
お世話欲イコール本能なメイド達から人気が出ない訳がなかった。
しかし……。
「いや全然だけど。初日付近にはやけに愛想良くニコニコされたけど最近は普通の客と同じ様な扱いで、特に話しかけられる事もないし……。まあそれでも良いんだけどね。メイドさんって何か結構恐ろしいみたいだし」
「……ふむ。変な話だ。……ああいや。何でもない。気にしないでくれ」
リベルが慌てて話を遮る姿にクロスは首を傾げた。
そう、クロスという存在は明らかにメイドのお世話欲を満たす事に都合が良い。
だがそれはクロスに都合が良い訳ではない。
そういうメイド達にとって都合の良い、求められているのは言わば養分となる行為である。
それをメルクリウスが、クロスのメイドとなったメルクリウスが許す訳がないとリベルは気が付いた。
水銀龍、メルクリウス・ハイドラ。
戦闘に秀でて圧倒的かつ膨大な戦闘力を誇る種族、ドラゴン。
そんな龍種の中でもメルクリウスという存在は圧倒的な強者である五龍の一匹……いや一柱である。
五龍しか名乗る事が許されない龍名を持つ特別な存在。
それがメルクリウスであり、時代が時代なら魔王となっていてもおかしくない存在だった。
その圧倒的暴威であるメルクリウスがメイド服を着てメイドをしているというのだから本当に世界は何が起きるのかわからないものだ。
そうリベルは思わずにはいられなかった。
「……ふむ。そこだけは君を素直に感心出来るな」
「何がだ?」
「メルクリウス様……いや、何でもない。何でもない事だ」
「あー。いやまあ確かに俺は運が良いよな。めっちゃ綺麗で飯が美味くて、バイクにも乗れて頭も切れて。そんでめっちゃ強い有能メイドが付いてくれたんだから。ありがたい話だ」
にぱーと間抜け面でクロスはそう心から言葉にした。
圧倒的恐怖の象徴であるドラゴンを相手に。
「……本当に……そこだけは心から尊敬を贈れるよ」
リベルはしみじみとした様子で、ゆっくりとそう言葉にした。
クロスがさっきまで座っていたベンチに再度腰を下ろした。
リベルも同じベンチにクロスから一メートル程距離を取って座る。
そしてそっと空を見て、ぽつりと呟いた。
「どうして、辞退なんてしたんです?」
「んー」
「勲章を貰うのが、目立つのが嫌ならその分報酬を貰えば良い。今回の功績は相当以上に大きな物となるって説明を閣下からされませんでした?」
「まあ……うん。良くわからないけどしっかりとした大きな報酬が用意出来るって言われたねぇ」
「では何故それを辞退しようと?」
「……言っても怒らない?」
クロスは不安げな様子でそう呟いた。
リベルは少しだけ怒った様な顔となりながらも、しっかりと頷いた。
「どの様な答えでも怒らないと約束します」
「リベルが功績を欲しいって前言ってたから」
「それは聞きました。そうではなくて……」
「いや。他に理由なんてないけど?」
きょとんとした顔でクロスはそう答えた。
「そんなはずはありません。例えば……私に譲る事が目的なら……あんまり考えたくないですけど私の体が目当てとか……」
クロスは迷わず手を横に振った。
「いやいや。そんな無理やりな事して誰が楽しいの? あ興味ない訳じゃあないですよそういう機会があれば是非ともと考えて――」
リベルは溜息を吐き、クロスの頭を軽く叩いた。
「あいてっ。逆にさ、俺からも聞いて良い?」
「……ええ。どうぞ」
「何がそんなに嫌だったのか、気に入らなかったのか。教えてくれない?」
「何って……」
「いやリベルがプライド傷つけられて嫌がるかなーとは思ってたけどさ、それ以外でリベルが嫌がる理由がわからないんだ。だから悪いんだけどその理由教えてくれないかな? 今後そんな事しない様にしたいからさ」
「……どうして、そこまで私如きの為に?」
「え? 綺麗な女の子だから」
きりっとした決め顔でそう言葉にするクロス。
あまりに馬鹿っぽくで、あまりに適当で……。
それでも、その言葉が真実なんだろうなとリベルは思えた。
「……どうして……私が嫌がるか。それは……」
それを答えようとして、そこでリベルは気が付いた。
どうしてこんなに不快なのか、どうしてこんなに嫌で腹が立つのか。
その理由が……自分ですらわかっていなかった。
功績なんて貰えるだけ貰っておけばいい。
アウラの言われるままの出世になれば間違いなく謀略からの強制服毒コースであるからそこは色々と考えないといけないが、それでも出世も名誉も勲章も望む所である。
というよりも……才能に驕りきっていた負け犬で裏切り者な自分には、もう立場位しか縋れる何かがないのだ。
だから命ある限り、それらを望み続けるだろう。
それこそ、どれだけ恥を捨てようと、どれだけみっともなかろうと……。
であるなら、ここでは笑うべきだ。
くれるというクロスに媚びるべきだ。
それにより今後にクロスから功績を分けて貰える可能性があるのなら、操でも何でも捧げて利用してやれば良い。
なのに何故……何故こんなに苦しいのだろうか。
そこまで考えて……ようやくリベルは気が付いた。
気が付いてしまった。
自分の中にある最も醜いもの。
出世欲と権力の甘い蜜に取りつかれたただただ愚かで汚い部分。
そんなものにしかすがれない自分。
受け入れたつもりでいたのだが……どうやらまだ受け入れきれてなかったらしい。
なんてことはない……。
自分が必死にかき集めているものを、あっけなくクロスは手放した。
それをただ、妬ましく思っているだけだった。
『自分はこんな必死なのに……この男は軽々と捨てやがった。なんて妬ましいんだ』
そんな、いつもの嫉妬よりも何倍も醜く汚い感情。
今まで幾度となく感じて来た八つ当たりの嫉妬よりも、それは更に汚く醜い。
自分が出来ない事をあっさりやったクロスを妬ましく感じる。
それに気が付いたリベルは、笑った。
自分の事を毎日愚かだと思っていた。
思っていたのだが……どうやら自分が思う以上にリベルという存在は愚かであったらしい。
「ああ……なんて、なんて醜いんでしょう。自分の事ながら……こんなに醜いなんて……。消えてしまいたいものです……」
そう言って空を見るリベルの姿は、儚くて本当に消えてしまいそうで……。
だからクロスは思わず、その言葉を否定していた。
「そんな事ない」
そしたら案の定、リベルはクロスに対してきつく睨みつけて来た。
予想してはいたが実際そうされたクロスはびくっとして愛想笑いを浮かべた。
「知りもしないのに勝手な事を言わないで下さいませんか? 心がお美しい賢者様」
「あはは。欲望の塊である俺にそんな事言ってもなぁ」
「……本気で言ってるんですか? 本当に」
「え? 何で? 本気だけど?」
「賢者とは、心が綺麗な者にしか与えられない称号です。すなわち、貴方という存在はこの魔王国では……いえ、魔物が蔓延るこの世界全域で高潔であるという証明がされているという事でもあるんですよ」
「ふーん。んな事俺しらねー」
「知らねって貴方……」
「そうは言ってもなぁ。俺は年頃の男程度には頭の中欲塗れだぞ? 酒飯女に浪漫を求め、しかも夢はハーレム築く事。……これのどこが高潔なんだ?」
「……ハーレム?」
「おう。絶賛募集中だぞ? ……誰も入る予定ないけど」
そう言ってクロスは苦笑いを浮かべた。
「という事は、それ相応の権力を得るという事ですか?」
「いや。権力とか持つつもりはないけど……必要だったりする?」
「え? いや……集めるのに権力があった方が……」
「権力を傘にするつもりはない。……それは胸糞悪すぎる」
そう呟くクロスの表情は、やけに暗いものだった。
そんなクロスの表情でリベルは自分の失態に気が付いた。
勇者として、魔王を討伐したクロードパーティーの一人であったクロス。
その旅路は真っすぐと言う訳ではなく、むしろ寄り道の方が多かった。
そしてその寄り道では、必ずしも魔物が相手であったという訳ではない。
クロスが、そういう見たくもない醜く悲しいものを見ていない訳がなかった。
見過ごせる訳がなかった。
「……悪かった。正式に、謝罪をさせてもらいたい」
そう言って深々と頭を下げるリベルにクロスは慌てて手を振った。
「いやいや。そんな大した事じゃないさ。という訳で俺は冒険とか金とか集めて、可愛い子口説きまくって、とりあえずハーレム集めるのが夢だ。だから俺がそんな賢者な訳がないし何なら俺の事知れば他の高潔な賢者様は泣くぞ」
「……ふふ。確かにそうですね。他の賢者様の方々は貴方と一緒だと困りますよね」
そう言ってくすくすとリベルは笑った。
「だろ? ……いやちょっと待ってまじで俺怒られるよなそれ? 説教とかされない? 他に賢者様って何人位いんの?」
「さあ。どうでしょうかね」
そう言って楽しそうにするリベルを見てクロスは困った顔を浮かべた。
実は現在クロスの他に賢者に認定された存在はいないのだが……面白そうだからリベルはあえて何も言わなかった。
これだけ話して、これだけ聞いても……。
それでも、リベルは理解出来なかった。
クロスが功績を辞退した理由ではなく、辞退出来た理由が。
誰であっても、褒美という物には逆らえない。
世界で最も強い権力を持つ魔王から報酬を提示され、断るなんて事は、自らの物欲から逃れられるなんてのは不可能に近い。
例えどれほど普段綺麗事を言っていても、その魅力の前には膝を折る。
むしろその魅力的な罠を張るのが誰よりも上手かったからこそ、アウラという化物が魔王となり果てた。
そう、不可能なのだ。
誘惑から逃れるなんて。
自分の様に権力に固執しなければ生きていけない存在は当然として、他の誰であっても。
不可能なはずなんだ。
そう、リベルは自分に言い聞かせる。
例えそれをやってしまった相手が目の前にいたとしても……そう言い聞かせなければ自分を護る事が出来ない。
愚かな自分が生き残る為の処世術。
いいや、処世術なんて上等なものではない。
だだを捏ねる子供の様に耳を塞いでいるだけである。
だが、それで良かった。
それだけで良かった。
これからも、今までと同じ様に見たくないものを見ずに目を塞ぎ、耳を塞ぎ、知らないフリをして生きていけば良い。
それだけで、ちっぽけなプライドは保たれる。
自分という器を、壊さなくて済む。
今までと同じ様に……。
だが……それでも……今のリベルにはもう、その選択をする事は出来なかった。
引き返せないとわかっていても、自分が壊れるとわかっていても……それでも……。
自分という存在の価値観が否定されたとしても訊ねずにはいられなかった。
それが嫉妬なのか、憎しみなのか、怒りなのか喜びなのか、好奇心なのか。
どんな感情によりそんな行動に出たのかわからないが……それでも、リベルはクロスに理由を訊ねずにはいられなかった。
「クロス……今から君に失礼な事をする。許してくれとは言わない。お詫びに君が求める事に付き合おう。どんな事でもだ」
そう、リベルが言葉にすると少しだけ驚いた顔をして、そしてクロスは微笑んだ。
「俺の名前を呼んでくれたんだからそれで良いさ。出来たらこれからもそう呼んでくれ。それで、失礼な事って何だ? 誰かに見られたらやばい事なら部屋の中で頼むぞ?」
その言葉の後にリベルは立ち上がり、そしてクロスのすぐ傍に来て――そして手の平をクロスに向ける。
リベルの魔力がクロスの中に強制的に流される。
気持ち悪い事はなく、むしろ心地よい。
ただ、それでも異物感は拭えなかった。
「……で……ある……が命じる。これより嘘偽りを申す事を禁じ、思った事を発言せよ」
そう、リベルが言葉にするとクロスはその言葉の強制力の様なものを感じた。
とは言え、それは強くはあるが絶対的な物ではなく、まだ拒否する事は出来る。
多少は代償を払う事になるだろうが、それでも、まだ拒否出来るという確信があった。
だが、ここで一度でも頷けばもう逆らう事が出来なくなる。
少なくとも、リベルの魔力が体内にある内はその命令に絶対遵守となるだろう。
そう今までの戦いの記録から考察し、その上でクロスは『まあ良いや』という気持ちでにこやかに頷いた。
「ああ。ただしあまりに品がない事を言ってしまったから俺を嫌うってのは止めてくれよ。そんな事になったら俺まじで落ち込むから」
「……心配するのはそこなんですか?」
「うん」
クロスは真顔で、本気で頷いた。
「……辞退した報酬、称号、勲章に魅力を感じたはずだ。違うか?」
「ああ。色々もらえるし女の子寄ってくる様になるだろうし。後さ、俺人間の時ほとんどちやほやされなかったんだ勇者の仲間だったのに。それがちょっと悔しかったから正直そういう欲はかなーりある方だぞ。認められたいって気持ちは今も昔もずっと燻ってる」
その言葉に、リベルは泣きそうな顔で唇の裏を噛みしめた。
そこまで、強い気持ちがあるとは思っていなかった。
軽い気持ちで欲しているんだろうなとは確かに思っていたが……まさか自分と同じ様に過去に囚われ名誉を求めているなんてわかる訳がない。
罪悪感と羞恥と、情けなさでリベルは泣きそうになっていた。
「どうして……どうしてそれで辞退出来たんですか!?」
吼える様に、リベルは尋ねた。
その声は悲しくて、慟哭の様で……。
自分の声ながら女々しくて情けなくて……。
そんな声に、クロスは悲しそうな顔で答えた。
「君に笑って欲しかったから」
「――は?」
リベルはその言葉の、意味がわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
わかるのだが、それが一体何の動機になっているのか。
目の前にぶら下げられた人参を諦めるに足る理由にどうしてなるのか。
それがリベルにはわからなかった。
「……もう少し、詳しく」
「いや、詳しくって言ってもそれだけだけど?」
「私に気があったんですか? それとも体を好きにしたい? 心も? 訳がわかりません」
「いや、そりゃリベルみたいな超絶美人に色々出来たら嬉しいだろうさ。でもそういう事じゃなくて、リベル普段からあんまり笑ってないじゃん」
「……はい?」
「せっかく綺麗なのにいつも辛そうな顔してるからさ、それが嫌だから笑っていて欲しかったんだ」
「……意味が、わからない」
「目の前の誰かが悲しそうな顔してたら嫌な気分にならない? それが美人ならなおさら倍率ドンだ。逆に笑ってくれたら超嬉しい。いつも楽しそうなら口説きやすいし。だから俺は皆が笑っていて欲しいんだよ。可愛い女の子なら尚の事な。尚の事な!」
その答えは、想像以上の答えだった。
リベルの価値観が、自分の想像していた以上に壊されていく。
クロスは普通だった。
変わらなかった。
欲望を前に押し出され、思いついた事を全て口にするという呪いを受けていても、いつもと大差なかった。
それこそまさに、異常である。
どんな存在であれこの呪いを受ければ醜い言葉を繰り出してしまう。
恨みの声、憎しみの声、欲望の声、自画自賛の声。
あらゆる欲望に従い言葉を発してしまう呪い。
そんな声で埋め尽くされる様な呪いを受けても、クロスの声はほとんど変わらなかった。
いやそれだけじゃあない。
クロスが辞退した理由がリベルが笑顔ではないからなんて理由。
それも、下心は確かにあるが……それでも九割以上は善意でだ。
クロスの望み、欲望は見える範囲の皆に笑って欲しいというものだった。
自分が笑いたいでも、自分だけが幸せになりたいでもなく、見える範囲の皆が笑えば自分が幸せなんて……。
そんな事を心から望む者をリベルは未だかつて見た事がなかった。
壊れていく。
壊れていく。
自分の価値観が、守っていたものが、気持ちが、生きていく理由が壊れていく。
当たり前でしかないのに異常にしか感じないクロスによって、壊されていく。
結局のところ……リベルという存在には、一ミリたりとも存在価値なんてないのだ。
名誉というしがらみを求めなければ自分を維持出来ないリベルから見れば、クロスの望みはあまりに美し過ぎて眩しすぎて……。
だからこそ、リベルは生きている事に対しどうでも良くなってしまった。
「価値観が……壊れるのは二度目ですね」
そう言ってリベルは微笑みクロスから手を反らした。
これで二度目。
一度目はアウラの時。
何を行っても勝てない。二度と戦いたくない。
恐ろしすぎて二度と敵対したくない。
アウラの時にそう思えた。
今回はそれよりなお性質が悪い。
壊れて必死に繋ぎとめていた継ぎ接ぎだらけの醜い価値観が、プライドやら生きる意義やら意味やらと一緒にどこかに飛んでいってしまった。
子供じみた当たり前の感性によって。
今リベルに残されているものなんて……空虚さを感じる心とクロスにとって魅力的に映る体位だった。
「約束通り、どんな事でも聞きましょう。当然、貴方の望み通り嫌がりません。むしろこんな惨めな私を使って貰えるのですから喜びすら感じるでしょう。さあ、何をしたいかおっしゃってください」
割と本心で、そんな自虐的な事を口走るリベル。
それを見てクロスは……。
「いや、そういう重いのはノーセンキューで」
「……あれ?」
「いやいや。だってこう……もっと気軽な一晩のお付き合いならともかく何かこう……重い」
「は?」
失われていた感情が、リベルに少しだけ戻ってきた。
イラっとするなんて割とどうでも良い感情が。
「ま、安心してくれ」
クロスはぽんとリベルの肩を叩いた。
「何にですか?」
「俺の事を嫌っているのはわかった。俺を見て嫌な気持ちになるのはわかった。だから出来るだけ俺とリベルがあんまり会う事ない様アウラに頼んである。だから俺のいないところで笑ってくれ。な?」
そう言って、クロスはにっこりと微笑んだ。
悲しい事に、まだ呪いの効果は残っている。
つまり……これは、本当の本当に、クロスの本心である。
価値観を壊され、空っぽにされ、唯一価値あると思う体を拒絶され、その挙句にもう会わない様に配慮するなんてクロスは言葉にした。
してしまった。
その心配りが、気持ちが、優しさが――リベルの逆鱗を撫で回した。
「ふふ……ふふふ……良いでしょう良いでしょう。やけっぱちっぽくなってる気もしますが……いえ、ある意味これが正しい答えなのでしょう。ではクロスさんまた会いましょう。ええすぐにでも!」
そう叫び、リベルはクロスに威嚇するような笑顔を浮かべてその場を早足で去っていった。
「……ん? 結局、どういう事?」
事情がわからないままクロスはハテナマークを浮かべ首を傾げ続けた。
認めたくない。
思いたくない。
気づきたくなんて……なかった。
だけど気づいてしまった。
価値観が壊され、生きる意味がなくなり、空しいという事を素直に受け入れられる様になって、遂にリベルは気づいてしまった。
考えてみれば当たり前の事である。
自分が考えられないなら、無理に考えなくても良い。
考えられる誰かに託せば良いのだから。
で、あるならば……リベルの答えは、心は決まっていた。
再度恥知らずとなり大恩ある相手を裏切る事になろうとも、もう心変わりはない。
初めて、リベルは自分で自分の道を選択した。
そんなリベルの表情を見て、アウラは茫然とした顔となった。
どこか晴れ晴れとして、それでいて怒りに満ちた表情。
今までの陰鬱なまでに蓄えられた負の感情とは正反対にある怒気を孕んだその様子は、アウラにとって予想外以外の何者でもなかった。
「閣下。申し上げたい事が御座います」
「あ、はい。何でしょうか?」
「恐れながら申します。今回の報酬として求めたいものが」
アウラは少し驚いた後頷いた。
成果を出した部下には報酬を。
それがアウラの統治での絶対条件。
論功行賞を正しく行うからこそ、裏切りの毒が生きて、同時に自分に対する裏切りを阻害する。
故に、部下の願いを聞くというのはアウラの統治では必要不可欠だった。
「ええ。何でも言って下さい。むしろ相当の無茶を言ってくれた方がありがたいです」
それはアウラの心からの本心だった。
誰の目からも見てもわがままだという願いを叶えた方が、総合的に出費が少なくなる。
これはそれ位面倒な話と既になり果てていたからだ。
「…………申し訳ありません。この場で死ねと言われれば喜んで死にましょう。私の望みは……。――閣下の騎士を辞退したく存じます」
「……え?」
予想外のわがままにアウラは再度茫然とした顔を浮かべた。
裏の方で、グリュールが笑いを堪えている様子がアウラの目に映った。
「えっと……その……理由を聞いても? 流石にこのタイミングで私が暇を出したと思われたら私本当に困るから……」
報酬を渡すのを渋って騎士を首にしたなんて事が世間に流布されれば、アウラの統治に致命的な一打となってしまう。
だからその方向性だけは避けたく、その上でリベルの希望をアウラは詳しく聞きたかった。
「ラフィールよ。まだまだだのう」
そう言って横から、そっとグリュールが二人の前に現れた。
「いらっしゃったのですかハーヴェスター。失礼しました」
「いいや良い。むしろ隠れていてすまなかったね。父親と二人で仕事しているなんて言われるのを恥ずかしがる年頃になってしまったからのぅ」
揶揄うような口調でそう言った後グリュールはワイングラスを傾け――。
「話を捏造しないで下さい。それと飲酒禁止です」
傾ける前にアウラが没収した。
「それジュースじゃよ」
「…………」
アウラは無言で匂いを嗅いだ後、そっとグリュールにグラスを返却した。
「それで、ハーヴェスター殿は理由がわかると?」
アウラはジト目でそう尋ねた。
「他人行儀じゃのぅ……。無論、わかるとも。リベルよ」
「はっ」
背筋を伸ばし、命令を聞く姿勢となるリベル。
それを見て、グリュールは孫を見る様な優しい目となった。
「良い。楽にしてくれ。お主はアレじゃろ……新しい主を見定めたのじゃろ?」
「……その通りです」
アウラは目を丸くする程に驚いた。
望んでいた訳ではないが、自らが恐怖で支配してしまったリベルがそんな事を言うなんて信じられなかったからだ。
「ふふ。予想通りじゃ」
そう言って葡萄ジュースをくるくると手で回し、グリュールはそっと口元に運んだ。
「お父様。それは一体どなたでしょうか?」
「ラフィール。お主地味に危機なのを気づいておらぬのか?」
「……ええ。リベルが私よりその方を選んだという事は、その方は私にとって脅威と――」
「そうではない。ラフィールよ。リベルは先程誰と会っておったか、考えればわかるじゃろ?」
そう言った後一息付き、そして自信満々に気取った様子で言葉を綴った。
「リベルはクロス殿を主と見定めたのであろう? 愛故に……ふっ」
「え?」
「え?」
二人が同時に、間抜け面となった。
「……あれ? もしかして、違った?」
「……申し上げます。前半は正しいですが後半はちょっと……。正直、賢者様に男性としての魅力は全く感じません」
リベルははっきりと、心の底からそう言葉にした。
「……照れてない?」
「はい」
「……隠さんでも良いよ?」
「いえ。本当に」
「……今なら私が二人の仲を認める声明を出しても」
「死ぬ程迷惑です」
「……じゃ、私は仕事に戻るかの」
グリュールはそう言葉にし、さっさと奥に隠れていった。
どうやら完全に興味を失ったらしい。
「ごめんなさい……お父様……あの見た目で恋愛話が大好きだから……」
アウラは頬を赤く染め恥ずかしそうにリベルに頭を下げた。
「い、いえ。あながち間違いではないので」
「え? クロスさんの事を」
「いえそれはないです。それとその食い付きの良さはハーヴェスターそっくりでしたよ閣下」
「改めましょう。金言感謝します。さて……」
そう呟き、アウラは思考を張り巡らせる。
幸い……というよりもおそらくわざとなのだろう。
グリュールが話を混ぜ返し考える時間の余地をくれた。おかげでアウラは状況をわずかながらに把握出来た。
と言っても、リベルとクロスに何があったのかを把握した訳ではない。
ただ、魔王としてリベルにどう接しどう飴玉を渡せば良いかの把握である。
リベルは相当に嫌われている。
今までずっと自虐を繰り返した上にアウラの政敵を纏め陣営に引き込んでいるのだから嫌われても仕方がないだろう。
だがその所為で過度な報酬を与えれば間違いなくリベルに良くない事が起きてしまう。
だが逆に、リベルの望み通り騎士である事を辞めさせてしまえばアウラの立場はかなりきわどいものとなってしまうだろう。
リベルが嫌われているからその程度で済むのだが、それでも悪評が立つ事は避けられない。
その上、リベルは有能でありしかもまだその能力を幾つも隠している。
そこまで判断した上で、魔王としての最適解、それは――。
「騎士リベル。これより貴方は裏切りの騎士を名乗る事を禁止します」
それを騎士爵位剥奪であると考えたリベルはそっと頷いた。
ようやく……ずっと自分が縋っていた幻想を振りほどけた気がした。
それでも、忠誠を誓った主を裏切った事、並びにその人の騎士でなくなった事はリベルの心に深い深い棘の様な痛みを与えた。
「……はっ。ご配慮、ありがたく」
「その上で――あなたに新しい命を与えましょう。虹の賢者クロス様の護衛――いえ、騎士となる事を命じます」
「……閣下……それは……」
「もう私は貴女の閣下ではありませんよ?」
そう言って、アウラは微笑んだ。
騎士を奪うのではなく、騎士としてまだ生きていて欲しい。
そうアウラが言っている様で、リベルは我慢出来ずに一筋の涙を流した。
魔王の騎士から賢者の騎士になる。
これはアウラの望みとしては理想だが、事実だけでいえば左遷に近い。
故にこれは周囲の目から見ればマイナスと映り、同時にアウラがリベルという政敵を蹴落としたという風に映る。
これでリベルに過大なる勲章を渡しても……。
『魔王様は勲章を渡して名分を作った後リベルを左遷した。それだけ憎かったんだろうな』
という風に映る。
リベルに対して多少の同情も向かうし恨まれないしその上でリベルの希望通り。
アウラは我ながら完璧なアンサーが出せたとドヤ顔をしたくて仕方がない気持ちとなっていた。
困るのは知らない内に突然部下が増える事となったクロス位だろう。
「……ありがとうございます魔王様。その命、心より望み受けさせて頂きます」
そう言葉にし、リベルは深く深く頭を下げた。
「はい。ですので、これからはリベル以外の名前を使いましょうね。裏切りの騎士なんて名前だとクロスさんが困りますから」
「そう……ですね。割と気に入っていたのですが……自虐が過ぎますし……新しい呼ばれ方を考えておきましょう」
「……貴女の口から自虐が過ぎるなんて言葉が出るなんて……嬉しいものですね」
「ご苦労おかけしました。少しだけ、前向きに生きようと思いまして」
どちらかと言えば価値観が崩壊したから考えるのを止めて全部上に任せようなんて事情だが、それをリベルは説明する事はなかった。
「では、これより閣下の元に馳せ参じ魔王様の命と共に騎士となる事をお認め頂く作業に移ります」
嫌がらせに向かう子供の様な晴れ晴れしい笑顔のリベルにアウラは苦笑いを浮かべた。
「ええ。ところで今更ですけど……貴女の事、何か教えていただけませんか? 最後ですし、何も知らないままというのはどうも寂しいので」
ファミリーネームどころか職業すら知らないアウラは最後にそうリベルに訊ねた。
「え? 魔王様は知っていて私を騎士にしたのではないのですか?」
「いいえ。単純に戦力として優秀であったのと元いた陣営で貴女が精神的な支柱となっていたからです」
「そう、ですか……では種族だけ。私の種族は――」
リベルはその答えだけ告げた後、そのまま部屋を出ていった。
リベルが出ていった後、アウラは苦笑いを浮かべ、少しだけ、ほんの少しだけ、クロスにリベルを譲り渡した事を後悔した。
さて、何と言ってやろうか。
何と言えば驚き困惑するだろうか。
そんな事を考えながら、リベルはニコニコとした表情でクロスを探していた。
迷惑がるだろう。
困るだろう。
だけど、断れないだろう。
何故なら自分の容姿はクロスが好む容姿だからだ。
その上で、心から尊敬と敬意を送ってやろう。
その時どんな顔をするだろうか。
その時のクロスの顔を考えたら、リベルは自然と微笑む事が出来ていた。
ありがとうございました。




