拝啓、檻の中より(前編)
それはリベルにとって、生涯で最も酷い……まさしく最悪の目覚めだった。
これまで決して平穏とは言えない生き方をしてきて、前魔王の残党という過酷な環境にいたリベルは普通経験し得ない嫌な事も多々経験している。
それでも、これほどまでに酷い目覚めは経験した事がなかった。
床は嫌になる程冷たくて寒く、肉が腐り血が乾いた様な腐敗臭がする場所で、全身激痛に苛まれ倦怠感に呑まれ……。
そしてそれ以上に我慢ならないのが……このモーニングコール。
それが五割方八つ当たりであるとわかっていても、リベルはそれに対して納得する事が出来なかった。
「おいリベル。しっかりしろ。大丈夫か!」
そう声をかけ、クロスはリベルを揺さぶる。
それに合わせてリベルは死んだ魚の様な目をクロスに向けた。
「……おい。意識あるか? 俺が誰かわかるか?」
そのあまりの酷い顔に不安になりながらクロスはそう声をかけた。
「はい大丈夫ですので……今すぐ離れてください」
そう呟いてからリベルは自分の力だけで体を起こそうとするが、上手く起き上がれない。
それを見てクロスは手を貸そうとするが、リベルはそれを拒絶する。
そして……ゆっくりゆっくり、一人で何とか上体を起こす事が出来た。
リベルは両手の指をゆっくりと動かし、体の機能を確認する。
恐ろしくだるく、活力が湧いてこない。
まるで重度の風邪を引いた時の様な最悪な状態だが、どうやらまだ動くらしく体の機能や能力も欠損していない。
ただ、魔力だけはほぼ完全に枯渇していた。
続いてリベルは周囲の状況を確認する。
背筋が凍る様な冷たく狭い個室で、どうしたらこんな酷い匂いになるのかという悪臭の中、賢者様と二人っきり。
何度考え直しても、それはリベルにとって最悪より尚酷いと呼んで良い状況である。
この狭い部屋がどこなのか、それは正面に見える鉄格子を見れば馬鹿でもわかるだろう。
檻の中。
それは殺されるよりはマシな状況だろうか……それとも素直に殺された方がマシな状況になるのか。
そんな嫌な発想をリベルはしてしまった。
そこまで考え、ようやく――リベルは自分が寝ぼけていた事を理解する。
何故平然と、そして普通に状況を整理していたのか。
もっと先に、確認しなければならない事があったはずだろう。
それを後回しにした事を、リベルは恥じた。
「ホワイトリリィさんは?」
恐る恐るという様子なリベルにクロスは首を横に振り答えた。
「捕まって……そこからどうなったのかは把握出来ていない」
その言葉に リベルは目の前が赤く染まった様な、そんな強烈な怒りを覚えて、クロスを思いっきりぶん殴ろうとする。
だが、意識が覚醒したてな上に衰弱しきっているリベルではそこまで体を動かす事は出来ず……ぽかり、と弱弱しく頬を叩く事しか出来なかった。
それでも、その一撃はクロスの心に酷い痛みを与えるに十分な一撃だった。
「どうして……。何故守ってやれなかった……。賢者様だろ。貴方は英雄だった者だろ……」
そう、リベルは呟く。
自分で、それが八つ当たりであると理解している。
自分があの場に残っていればこういう結果にならなかった可能性もある。
そう考えると、むしろクロスも被害者と言っても間違いではない。
だが、それでも、八つ当たりに八つ当たりを重ね生きて来たリベルはそれ以外出来る事がなかった。
クロスは何も答えない。
泣きそうな顔で、申し訳なさそうな顔で。
何も言葉に出来なかった。
そんなクロスが明らかな程苦しむ様子を見て、リベルは少しだけ溜飲が下がる様な気持ちとなった。
何も出来ず、苦しめば良い。
もがき、足掻き、その上で徒労と化してしまえ。
それが醜い愚かな感情であると、他の誰でもなくリベルは理解している。
理解した上で、リベルはこの感情を抑制出来ずにいた。
複雑に絡んだ負の感情。
それを全てひっくるめて言葉にするとしたら……結局はただの八つ当たり。
「どうして彼女を守れずこんな場所に? ああそうか。君にとって彼女、というよりも魔物なんて守る価値がないって事か。そうだよな。君は先代魔王様を滅ぼした勇者の仲間、人間の賢者様だもんな。魔物なんて賢者様にとってはただの養分でしかないと」
そんな訳がない事をわかっているのだが、こう言えばきっと苦しむだろうと思い、リベルはそう言葉にする。
言い返せないクロスをサンドバッグにする事は、リベルにとって心地の良い事だった。
「……流石にそれは酷いと思うよ」
そんな声が鉄格子の外から聞こえ、クロスとリベルは同時に険しい表情に変わり鉄格子の方に目を向けた。
かっかっかっ……。
足音が何重にも反響しこだまする。
そして足音がすぐ傍まで来ると、二人がいる牢屋の前に一人の老人が姿を見せた。
ぼさぼさで整わない真っ白い髪をした、白衣の老人。
威厳もなければ偉人らしきオーラもなく、それでいて異常者の風貌もない。
そこいらに転がってそうな、ありふれた平凡な見た目。
そんな外見の老人だからこそ、こんなありふれていない悍ましい牢屋の前で浮かべる微笑がやけに映えていた。
「やあどうもどうも。こんな場所で悪いね。もっと良い設備の方は今全部埋まっててねぇ」
老人は悪びれもせずそんな言葉をのたまった。
「そう思うならもう少し良い部屋を用意しても良かったんじゃないかな?」
そうクロスが返すと、老人は両手を広げ「やれやれ」と呟いた。
「申し訳ない。良い部屋は関係者以外立ち入り禁止でね。今は助手もいなくて部屋を用意する手が足りないんだよ」
老人はそう言い切った後言葉を切り、オペラグラスの様な物を取り出しクロスを見つめた。
「まだ魔力は無色なのか……。ふむ……ん? 何だこれは……まるで人工的に作られた様な奇跡的な構成バランスじゃないか。……ああそう言えば君は例の計画の転生体だったね。それなら納得だ、うん。面白いね。一区切り付いたら君も詳しく調べてみなければ……」
「一体何の話……ってああ。前魔王による転生の呪いの話か」
「呪い? ふむ……。いやまあ君にとっては呪いの様な物か。それで……そっちのは……」
そう言葉にし、老人はクロスからリベルの方に目を向けた。
「……君も面白いんだけど……私の専門は肉体だからアストラル体はあんまりわからないなぁ……まあそれでもデータにはなりそうだ」
値踏みする様な言葉と動物を見る様な目線は、リベルにただただ不快さを与える事しかしなかった。
「なああんた。リリィちゃんはどうしてるんだい?」
クロスの言葉に老人は首を傾げた。
「リリィ? それは……ああ、白い翼のハルピュイアか。ああ。まだ元気だがそれがどうかしたかね?」
「……ん? あんた、リリィちゃん目当てじゃなかったのか?」
ターゲットの名前も知らなかった事に違和感を覚えクロスはそう尋ねた。
「ああ。私の狙いだよ。今回の場合は副産物の方が贅沢だけど」
「ああそうかい。贅沢な副産物で良かったな。……リベル。何か聞けるなら聞いとけ。このジジイ色々教えてくれるから」
そう言ってクロスはさっきから静かなリベルに発言を促した。
おそらく、情報を少しでも探るという意図からだろう。
「……アリスは今どこに?」
リベルの言葉の意味をクロスは知らない。
わからないからこそ、邪魔をしない様クロスは黙っておいた。
「もう帰ったとも。元々研究のお手伝いだけだったところを頼み込んで誘拐の手伝いまでしてもらった形だったし。彼女は忙しくてあんまり時間のない人だからねぇ」
「そう」
それだけ呟き、リベルは安堵の息を漏らした。
勝ち目が全く見えないアリスがこの場にいないという情報は、リベルにとって目覚めてから聞く初めての良いニュースだった。
「さて、今度は私の番。老人らしくちょっと説教してさせてもらうね。あのね君、さっきのはちょっと酷いというか……醜いよ」
そう、老人は呆れ顔でリベルに言葉を投げかけた。
「……さっき?」
「君がそこのネクロニアを罵っていた事だよ。彼は頑張ってハルピュイアを守っていたよ」
まさか敵すらも賢者を庇うとは思っておらず、リベルは忘れていた燃える様な怒りを少しだけ取り戻した。
「ですが、結果的に見れば守れていない訳ですから。そうでしょう? 無傷でここに捕まっている辺り……保身が働いた様にも見える。ああ、責めているわけではないですよ。ただ賢者様の守るって言葉はその程度かと思いましてね」
「あのねぇ君……彼が捕まった最後の理由はさ、君の所為だよ?」
その老人の言葉に、リベルはぴたりと動きを止めた。
わかっていたが、逸らしていた現実。
ピシリと、心に罅が入る様な音が聞こえた。
「必死に戦って、守ってて、それで最後の最後に増援と共に空を塞ぎ、同時に君を捕まえて人質にする私を見て彼らは諦めたんだから。まあ君がいなくても捕まえる手段はあったよ? だけど、君がいるお陰でハルピュイアを無傷で捕まえられた。私にとって『お陰』であるという事は君達にとって『所為』だろう? だったら……全部君の所為じゃないのかな?」
老人の言葉はリベルの耳に入っている。
だけど、リベルが言葉を返す事はなかった。
焦点の合わない茫然とした瞳のまま、リベルは虚空を見続ける。
その様子は明らかに普通ではなかった。
「……壊れたか? ああ、アストラル体がメインである彼女にとって精神攻撃は殴ると同じという事か。だがこの程度で……ああ。魔力を失って弱っていたからか。という事は魔力は彼女の様な存在にとって防具の様な役割でもあると……ふむ……」
そう呟いた後、老人は楽し気な様子のまま考え事をし、くるっと振り向きその場を後にしよう――。
「待った」
後にしようとする老人をクロスは呼び止めた。
「……何かな?」
若干不機嫌な様子となった老人を気にもせず、クロスは再度質問を投げかけた。
「どうして俺達にそんな親切なんだ? わざわざ質問に全部馬鹿正直に答えてくれて」
「ああ。そんな事か。……私はね、検体には最後まで優しくいると決めているんだよ。感謝を込めてと、それと少しでも長持ちして欲しいからね」
そう言葉にしてから老人はにこりと微笑み、その場を後にした。
どこからどう見ても真っ当で、ごく普通の人。
ボサボサの髪によれよれの白衣と少々無精そう。
そんな普通の人に見えるからこそ、老人は完全に異常者であるとクロスは理解した。
「いやあんなじじいの事なんかどうでも良いわ。今は……」
そう呟き、クロスはリベルを見る。
焦点の合わない瞳で茫然とするリベル。
それは精神崩壊したと言っても納得出来る程の酷い様子だった。
「リベル。……リベル! ……駄目だ今度は反応しない。りべるー。おーい。反応しないとキスするよー」
そうクロスが声をかけると、リベルの瞳にわずかな力が入った。
そんなに嫌なのかとクロスは少し悲しくなったが、それでもリベルに変化があった事を喜び苦笑いを浮かべた。
「……好きにすれば良い。いやもっと酷い事でも良い。時間を取らない事なら私は君に何をされても文句の言えない立場なのだからな」
「そんな自分を蔑ろにしなくても……」
「……もう……疲れたんだ。もう……何もかもどうでも良い」
そうリベルは何も映さない瞳で呟いた。
ただただ八つ当たりし続けている事。
名誉に縛られリリィを守る事を疎かにした事。
その時点で恥多き状態で、ちっぽけな自分を感じ続けていた中、自分が原因で二人が捕まる。
嫉妬という感情に囚われ切った醜い心。
誘蛾灯に招かれた羽虫の如く目先の欲に溺れた自分。
そんな自分が、妬み切った賢者と護衛対象で善良な市民であるリリィを犠牲にした。
それはリベルの心にトドメを刺したと言って差し支えなかった。
後悔、羞恥、屈辱、情けなさ。
だけど……一番酷いのは……最初からわかっていた通り、罪悪感だった。
「まあ……気にするなとは言えんな。嫌いな俺に借りを作ってしまったんだからなぁ」
「借りなんて小さな物じゃないさ」
「ま、その上で……気にするな」
能天気な様子でクロスはそう言葉にしにっこりと笑った。
「……先程気にするなとは言えないと言ったばかりじゃないか」
「だって俺気にしてないし」
そう、クロスははっきりと断言した。
それはどう見ても、本気でそう言っていた。
「……それは、私なんて歯牙にもかけない存在が歯向かったところで何も問題ないって意味?」
「どうしてそうネガティブなのかねぇ。そうじゃなくてさ、俺可愛い子になら殴られても回復する男だから」
クロスはきりっとした口調でそう言葉にする。
それを見てリベルはふっと小さく笑い、クロスはにやっと笑ってみせた。
「軽薄だと思っただろ。はい軽薄な男です。そんな程度なんだよ俺なんて」
リベルは苦笑いを浮かべ首を横に振った。
「ううん。こんな嫌な事があるのに自分の事なんて度外視で、嫌っている私を心配して元気付けようとしてくれる。……その時点で軽薄なんかじゃない。懐が広くて……博愛主義者で……やっぱり賢者様だよ」
そう、本気で言っているリベルを見て……クロスは本当に、心の底から嫌そうな顔をした。
「俺は欲塗れだぞ。だからそんなレッテル貼りは止めてくれよ……賢者様なんて呼ばれたらキャバクラにも行けねーよ……。いや行った事ないけど……勇者様パーティーだからいけなかったけど……」
もじもじとそう呟くクロス。
どれだけ嫌がらせをするよりも、賢者と褒められる事の方が嫌がる。
それがリベルがこれまでクロスと付き合ってきて、クロスの事を理解出来た唯一の部分だった。
「それにさ、あながちあの場でのリベルの選択は間違いとは言えないしな」
「……どうして?」
「あそこにリベルがいても封殺されていた可能性が高いから。結果論で考えず、次善の作戦で考えるならリベルが別行動で親元を叩くというのは間違いじゃあなかったんだ。ただ戦力が足りなかっただけで」
慰めではなく、クロスは自分の経験と考え方からリベルの行動を正当化する。
それは口八丁の方便も多く含んでいるだろうが……それでも、リベルの心から少しだけ棘が抜けたのもまた、事実だった。
「さて、会話が出来る様になったし……どうするか対策を練ろう。すまん。俺に力を貸すのは嫌かもしれんが今だけは本気で手を貸してくれ」
そんなクロスの言葉にリベルはしっかりと頷いた。
「騎士として……なんてもう私は言えない。だからせめて恥知らずとして多少でも挽回のチャンスは欲しいから、出来る事はすると君に誓おう」
そう、リベルは他の誰でもなく自分にとって妬み対象であるクロスに誓う。
それを見てクロスは頷いた。
「頼もしいよ騎士リベル。……と言う訳でさ、とりあえず出来る事を考えてみよう。悪いがリベル。今出来そうな事を教えて欲しい。リベルも俺に聞きたい事があったら何でも聞いてくれ」
その言葉にリベルは頷いた。
初めて、リベルはクロスと同じ魔物、同じ仲間であると実感した。
ありがとうございました。




