気付いた時にはグラヴィティ
「……まじで?」
クロスはアウラからそれを聞いた時、そう呟く事しか出来なかった。
それは、人間の頃の多彩な経験をしてきたクロスにとって、いや、数多くの経験をしたからこそ、あり得ない事だと認識していた。
クロスが魔物界で経験した事は、はっきり言えばかつての仲間達でなら何とか対処出来た事でしかない。
例え本物の邪神がこの世界に君臨したとしても、クロスはクロード達なら対処出来ると信じている。
そしてかつての仲間達なら、邪神程度が行う事と同等の事が可能だと知っていた。
だが、今聞かされた話はかつての仲間の力を凌駕している。
剣一本で魔王と渡り合ったクロード。
神に愛されし祝福の聖女ソフィア。
闇夜に溶ける盗賊メリー。
最高峰の魔法使いメディール。
その誰でも、それだけは行えないような所業、まるで神の御業。
未来を視通すなんて芸当は、人の身で出来る事の限界を遥かに超えていた。
「まじですよクロスさん。魔王国には未来予知を行う為だけの機関が存在しています」
エリーはそう助言する様伝えた。
「……はー。エリーから色々お勉強を受けたが……まだまだ知らない事あるんだなぁ……。でもさ、それなら……」
「それなら?」
「それならどうして前の魔王は負けたんだ? いや、そもそもそんな力あるならどうして魔物は人に負けるんだ?」
そう言葉にしクロスはアウラの方を見た。
「そんな便利な物じゃないからですよ。特に先代の泉守……ああ、組織のトップを泉守と呼ぶのですが、先代魔王だった頃の泉守は能力をあまり使いたがっていませんでしたし」
「ほうほう。んじゃ、その組織って何をする組織なんだ?」
「最悪の未来、最悪の結末を避ける為の組織です」
「最悪って?」
「世界崩壊や魔物の滅亡等ですね。逆に言えば、魔王が死ぬ事は最悪に含まれていませんでした」
そう、アウラは言葉にした。
未来予知の性能は才能に依存する。
だが、才能があるだけでも意味がない。
才能に驕る事のない努力を重ねなければ開花する事はない。
そしてそれだけやっても、望んだ未来にするという事は不可能に近い。
専門的な教育を施し生涯全てを捧げたとしても、万能の力には程遠かった。
つまり、その組織の目的は最悪の回避、ただそれだけという事である。
限られたリソースをその一点に費やす事で、滅亡を回避する為その機関は作られた。
その最悪の定義は泉守によって変わるが、魔王にとって都合の良い結果となる事はない。
魔王が死のうと彼女達にはどうでも良い。
いや、魔王が死ぬ事で最悪が回避出来るなら、彼女達は必ずその選択を選ぶ。
重要なのは、世界が終わらない事。
崩壊のトリガーを引かせない事。
その為の情報を独自に集め、握り、管理し、そして魔王に命令を下す権利を持つ団体。
それが、叡智の泉守イディスである。
「……んで、急にその組織の話出て来たけど……どうかしたのか?」
そう、クロスは尋ねた。
わざわざ魔王城に呼び出してまで話すという事は、何か重要な事があるという事だろうと考えて。
「そうですね。その事を教えるカリキュラムはまだ先でしたし……」
エリーもそう呟き少し考え込む仕草をしてみせた。
「その、イディスの方からクロスさんに……要請がありまして……」
アウラがそう言葉にする表情は、酷く苦々し気で、苦しそうで。
その雰囲気を例えるなら、死地に赴く様な命令を部下に下す上司だろうか。
そんな雰囲気が、強く醸し出されていた。
「あー。うん、なんか俺にとってあんま良くない事だってのはわかった。それはわかったから気にせず、かつ馬鹿な俺でも理解出来る様わかりやすく話してくれ。大丈夫だから」
そう言ってクロスが言葉にし微笑むと、アウラはゆっくりと、ぽつりぽつりと事情を話し出した。
事の始まりはまた元老議員。
クロスは元人間である為、その裏切り者なのではないかという疑いの声がかかっている……というイチャモン付けをしてきた事から始まった。
賢者と呼ばれる存在を疑う者自体少なく、それ以前にクロスの知名度はそこまで広がっていない。
だからこそ、それはただの嫌がらせだとわかる。
それでも、疑いがあるなんて言い方をされてしまえば否定する事が出来ないのもまた事実だった。
とは言え、それだけならいつもの事でしかない。
元老機関とバチバチやり合うなんてのはアウラにとってただの日常。
適当に誤魔化し屁理屈をこねなあなあにしてしまえば良いだけの話。
だが、アウラにとって想定外の相手が出てきてしまった。
クロスが人間の裏切り者かどうかを判断する事になったのが、件の叡智の泉守イディス。
世界規模の厄災に備える機構だった。
当然だが、イディスは元老機関の下位組織ではない。
また、魔王の要請により余ったリソースで未来予知による助言をくれるが、魔王の配下という事でもない。
そもそも魔王陣営と元老機関がどれだけ醜い争いをしようと、魔王がどれだけ私利私欲に塗れていようと、イディスは動かない。
イディスが自ら動くのは、いつだって世界規模の厄災の時。
実際はどうなのか、それはアウラにはわからないが彼女達がそう言葉にしている事だけは確かだった。
イディスが元老機関に買収されたか脅迫されたか……それとも、今回の行動を取らないと世界が崩壊するからか。
それはわからないが、一つだけ確かな事がある。
今回、アウラはクロスを庇う事が出来なくなってしまったという事。
イディスが動いたとあればアウラは逆らう事が出来ない。
例え、クロスにとってそれが命の危機であったとしても。
アウラは、より多くの命を選択しなければならない。
その為に、魔王を継いだのだから。
「具体的な内容は、イディスに向かい証明の試練を受けるという事になるそうです」
「試練?」
「はい。内容は私も知りません。ただ、命を落とす事になる可能性が高い様な……そんな危険な試練である事は間違いありません」
「そうなのか。……ふむふむ。んで、試練を突破したらどうなるんだ?」
「クロスさんの信用が上がります。逆に言えば、ただそれだけですね。一応……イディスと元老議員からお詫びとして色々とあるでしょうが……」
だが、命を賭けてまでの価値はない。
そう、アウラが言っている事はクロスにも理解出来た。
ここまで話を聞いて、クロスの脳内では七割方受けないで逃げるという方向性で考えていた。
受けなければ、きっとアウラは困るだろう。
そしてアウラが困るなら、命の危機でも受けて良いだろうと思う自分もいる。
だが、クロスは今それよりも、アウラが困る事よりも優先すべき事があった。
エリーの事である。
もし今自分が死ねば、エリーの精神は間違いなく壊れる。
メンタル自体はあの時よりも回復しているが、長い間離れていたという経験自体は消えておらず、不安定な部分が残っている。
下手すれば、一生そうな可能性すらありえる。
それほどに、悠久の時間は心を摩耗させた。
だからこそ、アウラの元から脱走しどこか果ての地に逃げるとしても、クロスは受けないでいようと考えていた。
アウラもまた、口には出せないがクロスに逃げて欲しいと思っている。
立場上言えない事ではあるが、クロスを犠牲にするのをアウラは非常に嫌がっている。
だからこれは、ある意味で言えば両者の思惑通りの事。
逃げる時間や準備、方法をお互いが言葉にせず考えている様な段階。
だが……そうはならないという事を、その希望が叶わない事をアウラは知ってしまっていた。
「クロスさん。私は受けた方が良いと思いますよ?」
そう、エリーは微笑みながら言葉にする。
その言葉に、クロスは驚いた。
「……へ?」
それはクロスにとって、本当に予想外の事だった。
クロスの危険を絶対に嫌がると思っていたエリーの言葉。
それだけはないと思っていた状況に、クロスは固まり動かなくなった。
「まあ気持ちはわかりますし嬉しいですよ? ですが……私はクロスさんの保護者ではありません。従者です。つまり、クロスさんの目的を達成する為に手を貸す存在という事です」
そう、エリーは自信満々に言葉にする。
それだけは、その誇りだけはエリーは失う訳にはいかなかった。
「つまり、俺にとって何か良い事がそこにあるっていう事か?」
「はい。説明しましょうか?」
「頼む」
「どっちが聞きたいです?」
「どっちとは?」
エリーはいたずらっ子の様な笑みを浮かべ、指を二本立てた。
「真面目で論理的だから納得出来る奴と、不真面目だけどクロスさんが本気になる奴」
「その順番に頼む」
予想通りの答えにエリーは嬉しそうに頷いた。
「間違いなく、クロスさんが成長出来るからです。イディスはその未来を予知するという性質上嘘を極力嫌います。そのイディスが出す試練という事は本当の意味での試練という事。そして試練であるという事は……」
「俺が強くなるという事か」
エリーは頷いた。
「はい。精神的か魔力的か肉体的か技術的か、それとも神秘的な何かか。それはわかりませんが、間違いなく強くなります」
「そこに知能的という言葉がない辺り本当にエリーは俺の事良くわかってるな」
エリーはそっと顔を逸らした。
「ま、そういう事なら……というか、エリーが嫌でないなら行くよ。アウラに迷惑かけたくないし」
その言葉は、アウラの表情を曇らせる。
だが、それはクロスにとって嘘偽りのない気持ちだった。
アウラの為に死ぬのなら、一切後悔はない。
アウラの夢の礎となるのなら、それは本望。
それ位、クロスはアウラの夢に希望を感じ取っていた。
魔物と人間が争わなくても良い世界という希望を。
「ところでさ、ぶっちゃけるけどエリーは辛くないのか? 試練というのだから失敗する事もあるし、アウラの話し方から俺死ぬかもしれないし」
エリーはにっこりと満面の笑みで微笑んだ。
その優しくにこやかな笑みからは酷く重たい感情しか感じる事が出来ず、空気が一気に、ズンと重くなる。
「大丈夫ですよ。今回は私もお供しますから。一体だけしか入れないとか言うなら私はクロスさんの剣の中に入りますし。今回はどんな手段を用いても離れません。それと……」
「そ、それと?」
クロスは震えながらそう尋ねた。
「クロスさんから死ぬ事はありませんから。死ぬなら、私からです」
クロスは小さく溜息を吐き、こめかみを抑えた。
「……おもてぇ……」
「今頃気づいたんですか?」
そう、エリーはドヤ顔で言葉にした。
あまりに重たい感情をブチあてられ困惑しているフリをするクロスだが、本音を言えばそれは全く嫌ではなく、とても嬉しく感じている。
誰かにこれほどに思われるなんて考えた事さえないクロスにとって、その感情は乾いた大地に水を浸すかのよう心に沁み込む。
過去の経験、苦しみからクロスはここまで深く思われないと、感じる事が出来ない程心は鈍くなっていた。
とは言え、照れ臭いのと、死んで欲しくないなんて気持ちからクロスはそんな嫌そうな演技をしてみせる。
エリーに見抜かれているとわかっていながらも。
繋がっているからこそ、バレているとわかっても、やらずにはいられない。
クロスは暖かい目で見て来るエリーに恥ずかしさを感じ、そっと顔を反らした。
「それでエリー。一つ良いでしょうか?」
アウラの言葉にエリーは頷いた。
「はい。何でしょうかアウラ様」
「もう一つの、クロスさんが本気になる不真面目な理由って聞いて良いですか?」
「あ、俺も気になる」
二体の言葉にエリーは頷き、微笑んだ。
「叡智の泉守イディスは、女性だけで構成されています」
クロスの耳がぴくりと動き、アウラの顔が「あ」と何かに気づく様な表情と変わった。
「ついでに言いますと、非常に綺麗な方が多いです。身だしなみを整えるのも修行の一環らしいので」
ぴくり。
クロスの耳は更に動き、エリーの言葉に注目する。
「更に言いますと、人間における巫女とかそう言う類とは異なるので、恋愛とかそういう事も禁止されていません。実際既婚者の女性も入り込んでいます」
ぴくーり。
「ただまあ、恋愛は自由なのですが出会いは少ないんですよね。男性が機関内に入り込む事ってほとんどないので。そういった訳で、かなり恋愛とかワンナイトラブとかそういうのにアクティブな方が多いらしいですね」
ぴくぴく。
「そして、試練を達成するという事は組織内でも尊敬を得るに値する事らしく、まあちやほやされるでしょうね。とても」
クロスはすくっと立ち上がった。
立ち上がり、空の方を見上げ、握りこぶしをぐっと作ってみせた。
「……エリー。俺について来てくれるか。俺はアウラの為、そしてこの身の潔白を証明する為イディスに向かう運命にあるらしい」
キリっとした顔でそう言葉にするクロス。
それにエリーはニコニコした顔を向けた。
「私はそういう現金で馬鹿で単純で正直な所好きですよ。ああ、答えはもちろんです。例えどの様な場所でも、望むのなら付き従いましょう」
アウラは本当にこれで良いのかという気持ちのまま、そっと頭を抱えた。
アウラからの指示を聞いた後、準備の為にクロス達は部屋を退出する。
そして独りになったアウラは一枚の紙を手に持ち、それを眺める。
そこには、こう書かれていた。
『アウラが指令を出し、クロスは拒否的な姿勢を見せるがエレオノールの助言により指令を快諾する』
先程の会話の流れが、そんな大雑把な形で書かれていた。
それこそ予言、それこそ未来視の力。
精度こそ低いものの、その流れは完璧に的中していた。
此度の泉守は自分と同じく代替わりしたばかりだが、十二分に優秀らしい。
「一体何が起きてるんですかねぇ。……まあ、何も言われていないという事は、私は普通にお仕事してたら良いんでしょうが……」
そう言葉にし、アウラは小さく溜息を吐く。
「とは言え、あんな風に重苦しい雰囲気にしておいて何ですが……なーんか、今回は正直全然心配してないんですよねぇ」
色々な物から敵意を感じない。
何なら今回は元老機関からさえ敵意や悪意の様な物がない位だ。
イディスにしてもクロスを試しているというよりは、クロスを知ろうとしているフシがある。
だからだろう。
今回の事でクロスが死ぬとは全く考えられない。
きっとこの騒動は大した事がないまま終わるだろうとさえ考えている。
未来予知なんて力はない為それは予言ではなく、ただの予想だが。
だが同時に……今回の騒動はただの呼び水に過ぎず、近い将来何か大きな騒動がある様な気がする。
そんな不穏な気配を、アウラは感じ取っていた。
ありがとうございました。




