目覚めぬその裏で
パァン!
と、乾いた破裂音が耳のすぐ傍で響き、鼓膜を震わせる。
それと同時に頬が熱を帯びた様に熱くなる。
自分が、頬を思いっきり叩かれたのだとメルクリウスは理解した。
とは言え、外見は乙女の柔肌であっても、中身は正真正銘のドラゴンのメルクリウス。
衝動的かつ突発的な怒りに身を任せ手を挙げた位では、悲しい事に傷一つ付かない。
だが、痛かった。
他の何でもなく、自らの主に叩かれた事が。
ご主人と呼ぶクロスではなく、本当の雇い主である魔王アウラフィールに涙を流させた事が、普段冷静沈着なアウラが手を上げる位取り乱させた事が――とても痛かった。
「どうしてっ!? どうして貴女がいながらこんな状況に……」
メルクリウスは直立不動のまま、動かない。
何と罵られようと、叩かれようと、何も弁解する権利などないとメルクリウスは考えている。
意図的に命令を破ったのがこの結果であるのだから、当然の事だろうと。
そしてその結果、翌々日である現在ですらクロスが目覚めないという状況なのだから……殺されようと、文句など言える訳がない。
メルクリウスもアウラも、クロスが現状どうなっているか知らない。
最上位の治療チームを派遣し、つきっきりで治癒に当らせているがそれだけ。
状況説明、報告、対策に忙しない為クロスの部屋に見舞いにすら行けていない。
だからこそ、アウラの心は搔き乱され不安定な状態となっていた。
「どの様な処罰でもお受けします。それだけの事を……閣下を裏切りました」
その言葉を聞き、涙目のままアウラは強くメルクリウスを睨みつける。
クロスをアリスに関わらせたのが、意図的な物だと受け取った報告からわかっている。
わかっているのだが、同時にメルクリウスが一方的に悪い訳でない事もわかっている。
今現在平然と立っているメルクリウスだが他の魔物であるなら十度は死んでいたであろう程の負傷と体力、魔力の簒奪を受けている。
アリスの簒奪は龍としての力など物理的な戦闘能力は一時的な物であり時間が経てば戻ってくる。
だが、体力や魔力だけは戻ってこない。
アリスに持っていかれたままとなる。
その上でメルクリウスは決して軽くない傷を負った。
それこそ、ドラゴンですら死んでもおかしくない位の。
そして、その状況を何とか出来る可能性がある、クロスがそこにいた。
だからクロスに助けを求めるという選択は現場判断として間違いであるとは言い切れない。
だけども、だけれども……アウラは事前に厳命していた。
クロスだけは、他の誰を見殺しにしてでも連れて帰ってくる様にと。
クロスは軍どころか魔王陣営のどこにも所属していない。
というよりも所属していない事になっている。
つまり、善意の外部協力者。
だからこそ、殺してしまえば評判に響き最悪アウラの足場すら崩れかねない為絶対に、何があってもアリスと戦わせず連れて帰れと。
そんな建前を含め、厳命していた。
そのはずなのに、実際はあろうことかアリスと一騎打ちし、しかもクロスはアリスに手傷を負わせてしまった。
それは本当に、最悪としか言えなかった。
「わかっているんですか!? クロスさんはこれからアリスの敵としてロックオンされてしまいました。あの誰ですら自分の生贄としか思えないアリスから直接……。これから……ずっと……」
メルクリウスは何も言わない。
何も言えない。
そして、何も間違っていない。
実際、メルクリウスは見ていた。
アリスがクロスに対して心底怯えて見せ、そして明確な恐怖と敵意を抱いたのを。
だが、メルクリウスはアウラと異なり、クロスがアリスから狙われる様になったという風には考えていない。
それ自体は間違いないのだが……メルクリウスは逆にクロスこそが、アリスを滅ぼす切り札になると考えていた。
流石にこの場でそれを口に出す程、心配と罪悪感で仮面すら付けられないアウラの前でそれを言う程メルクリウスの性根は腐っていないが。
結局のところ、どちらも間違っていない。
クロスを戦わせないというアウラも、クロスを戦わせたメルクリウスも。
いや、もっと正しく言えば、どちらも回答としては間違っている。
罪悪感からクロスの意思関係なく戦いを遠ざけようとするアウラも。
クロスの意思こそ確認しているが自分の都合でクロスをアリスの前に出したメルクリウスも。
等しく自分本位であり、それは明らかな間違いだと言っても良いだろう。
こんこんとノックの音と共に、そっと静かに誰かが入ってくる。
遠慮がちな表情の金髪の女性。
それはエリーだった。
「し、失礼しまーす……」
おそらく、外でアウラの剣幕を聞き様子を伺っていたのだろう。
「エリー……。クロスさんの容体は?」
アウラはメルクリウスから視線を移し、涙を隠し無表情となりそう尋ねた。
「あ、はい。まだ起きる気配もありませんでしたが問題はないらしいです。半ば健康体と言っても良い位ですね」
エリーの言葉にアウラはほっと安堵の息を吐いた。
「もう少し詳しく聞いても良いでしょうか? 治療術士はクロスさんの容態をどう言っていました?」
「診断結果は極度の疲労状態だと。本来なら放置しても一週間もあれば戻る程度の状態なのですが……まああれだけ丁寧かつ丁重な治療を受けましたのでそう遠くない内に起きるでしょうと。わざわざクロスさんの為だけに専門の医療チームの結成までして下さりありがとうございます」
そう言って、エリーはぺこりとアウラに頭を下げる。
それを見てアウラはいたたまれない表情となり唇をかみしめた。
「お礼なんて……言わないで下さい。私の所為で……」
「いいや違う。私の所為だ。閣下ではなく、命令違反をしご主人を、いやクロスを危険な目に合わせたのは私だ。エリー。お前にも権利がある。私を這いつくばらせ、苦しめ、殺す権利が」
メルクリウスはそう言葉にする。
それは確かな本心である。
エリーがどれだけ強い想いでクロスと共にいて、従者となったのか知っている。
そのエリーが今回命令で別行動を取らされた中、そんな状態でクロスが死にかけた。
どれほど苦しみ、どれほど後悔したか、メルクリウスは理解しているつもりだ。
それをわかった上で、メルクリウスはあの選択を選んだ。
クロスを戦わせるという選択を。
「……いえ。クロスさんが望んだ事にとやかく言うつもりはありません。それより、連れて帰って下さりありがとうございました」
そう言って、エリーは微笑みながらぺこりと頭を下げる。
口には出さない。
表情にも出せない。
だが、メルクリウスは強い、心の痛みを感じていた。
閣下であるアウラに涙目で叩かれた事以上に、辛い。
今日まで一睡もしていないであろう表情で、自然に笑うエリーの姿を見る事は、メルクリウスにとって何よりも辛かった。
「アウラ様。一つ、気づいた事を話しても宜しいですか?」
エリーがそう尋ねるとアウラは少し驚いた表情の後頷いた。
その様子を見て、メルクリウスは脇に退ける。
メルクリウスは、この場ではあくまでメイドでしかない為邪魔をするつもりはなかった。
「気づいた事と言いますと、クロスさんについてですか?」
「というよりも、その症状ですね」
「……聞かせて下さい。治療術士ではなく、貴女の所感なのですね?」
「はい。あくまで私の所感ですが……ダメージが少なすぎると感じています」
そう、エリーは断言するような口調で言葉にした。
「と、言いますと?」
「私、実際に受けているんですよ。アリスの簒奪を。それを考えまして……例え一瞬であっても、クロスさんが受けた傷は少なすぎますね。疲労こそすさまじいですが傷はほとんどなくて、その上魔力も七割以上残っています。時間経過の回復としても多すぎますので……今回クロスさんはほとんど簒奪されていないかと」
「……それはどうしてだと思います?」
「正しいかはわかりませんが……報告を見せて頂いた状況の事を考えますと……アリスの簒奪の条件にほとんど適さなかったからかと思います。簒奪の条件については良くわかりませんが……」
「……なるほど。一例として資料に残し、後の考察に役立てさせていただきます」
「いえそんな仰々しくなんて! ただの所感ですので……」
「精霊の貴女が直接クロスさんの状況を見て、自分の状況を考察してなのですから、十分資料足りえますよ。ありがとうございます」
そう言って、アウラはエリーに微笑みかけた。
そう、今回の事はメルクリウスの失態ではあるが、状況が遥かに好転した事は間違いない。
アリスの能力について非常に多くの情報が出たからだ。
一つ、クロスは最初簒奪能力に全くひっかからなかった。
一つ、クロスは途中同情した事により能力にわずかだけ引っかかった。
そして最後、アリスが使う簒奪能力はまだ不完全な物であり、完全なる能力発動には詠唱が必要である。
これらは、今まで持ち帰る事すら叶わなかった情報である。
情報すらなかった今までに比べたらはるかに好転したと言って良いだろう。
代わりに、クロスがアリスに付け狙われる事になったが。
直接現場を見たメルクリウスとアリスという存在を知るアウラ。
二体の考えは一致していた。
あの臆病者は、絶対にクロスをどうにかして排除しようとすると。
アウラはメルクリウスにクロスの事を命をかけても護れと命じようと一瞬考える。
だが、それは出来ない。
魔王としてクロスだけにリソースを注ぐ事は許されない。
それも、アウラにとっても切り札とも言える水銀龍を守りだけに使うなんて。
それに加えて、アウラは今、メルクリウスの事が信用出来なくなっている。
今回の事で、アウラはメルクリウスの事がわからなくなっていた。
命令に逆らう事なんて今まで一度もなく、ましてや最重要保護対象を蔑ろにするなんて考えもしなかった。
しかも、メルクリウス自身がクロスに対しそれなり以上に友好的関係となっている。
少なくとも、アウラはそう思っていた。
だからこそ、どうしてこうなったのかわからず、それがそのままメルクリウスに対しての不審となっていた。
「……ふぅ。とりあえずエリー。予定ではもう少し先でしたが、アレの事をクロスさんに説明しておいてもらえますか? もしもの為に早めに」
アウラにそう言われ、アレという言葉にすぐピンと来たエリーはこくんと頷いて見せた。
「わかりました。と言っても、使えない私が説明するってのも何となく滑稽なんですけどねぇ……」
「そんな事ないですよ。頼みま――」
アウラの言葉を遮る様、部屋の扉が乱暴に開かれる。
魔王の政務室であり、個室の部屋をノックもなく開かれるというのは滅多にない事態であり、皆が扉の方に目を走らせる。
そこにいたのは、ただのメイドだった。
アウラも良く見るごく普通のメイド。
上級と称されてはいるが魔王城内で言えば一般的な、そんなメイドは慌てた様子で叫ぶ様アウラに声をかけた。
「ク、クロス様がお目覚めになられました!」
直後、エリーはすさまじい勢いで部屋を飛び出す。
それに茫然とした表情をメイドは見せ、しばらくしてから我に返りアウラに頭を下げた。
「……あ、すいません。ノック……」
申し訳なさそうにそう呟くメイドにアウラは苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「いえ。構いません。良く知らせてくれました。彼に問題はなさそうですか?」
「あ、はい。極度の空腹を訴えておられますが特に問題はなく、何時も通り穏やかで楽しそうな表情を浮かべていましたよああとてもお世話したいなぁ」
「本音が漏れてますよ」
「あ、失礼しました。では私は通常業務に戻りますので失礼します」
そう言ってメイドはアウラとメルクリウスに深く頭を下げ、扉をそっと閉めて退出していった。
「……流石の忠義心だな」
そう、メルクリウスはこの場にいないエリーに対し呟いた。
「……メルクリウス」
アウラに呼ばれ、メルクリウスは直立不動となり命令を――いや、罰を受ける体制を整えた。
「はっ。どの様な罰でも甘んじて」
それは比喩ではない。
メルクリウスは、本当にどんな罰でも受け入れるつもりだった。
クロスを傷つけた事だけではなく、命令に逆らい信を裏切った事はメルクリウスにとってそれだけ重たい事だった。
だが……。
「その言葉を聞けただけで十分です。今回は不問とし、処分も下しません。強いて言えば……さきほどのビンタ一発。あれでチャラです」
微笑みながらのアウラの言葉はメルクリウスにとって衝撃そのものだった。
アウラは親しい相手を優遇するような、そんな優しい性根なんてしていない。
故に、今回も最悪死罪、そうでなくても降格なり危険任務なりの処罰が下ると思っていた。
この場で何の罰も与えないというのは、メルクリウスの知るアウラにとってはあり得ない事でしかなかった。
「……閣下。理由を尋ねても宜しいでしょうか?」
「うーん。……内緒で。それよりも大切な事があります」
「それよりも大切な事? それは一体……」
「私は貴女に何の仕事を任せましたか?」
「へ? 何……とは……」
「その恰好は飾りでしたか? ただのコスプレですか?」
そう言って、アウラはメルクリウスの着るメイド服を指差した。
「しかし……今私が行くのは……」
「エリーは気にしていません。クロスさんは喜ぶ。何か問題が?」
「いえ。閣下が……その……」
「その私が行くべきと言ったのですけど?」
メルクリウスは酷くうろたえた表情を一瞬で切り替え、軍としてではなくメイドとしての立ち振る舞いで頭を下げ、静かに部屋を退出する。
そしてその後、メルクリウスは廊下を走りクロスの元に向かった。
そんな走って行くメルクリウスの音を聞き、アウラはくすりと笑い微笑んだ。
何てことはない。
メルクリウスが命令を無視した理由なんて、考える必要もない位単純だった。
クロスが起きたとメイドが報告した時、まっさきに反応したのはエリーだった。
その言葉の時点で飛び出していた位には早かった。
だが同時に、メルクリウスもその言葉を聞き、落ち着きなんて失った表情となりほぼ同時に飛び出そうとしていた。
飛び出さなかったのは、自分の所為で傷ついたというクロスに対して罪悪感に加えて、アウラに任されたメイドとしてだけでなく命令違反という軍所属としても信頼を踏みにじった事に対しての罪悪感から。
それさえなければ、きっとエリーと共に走って向かっていただろう。
そう、メルクリウス自体は何も変わっていない。
命令に対する気持ちも、アウラに対する信も。
変わったのは、メルクリウスの目線位。
それがわかったからこそアウラはメルクリウスに叱責なんてするつもりはなく、いつもの様にメルクリウスを信じれば良いのだと理解出来た。
「メルクリウス。貴女は気づいているのかしら。自分の状態に」
そう、アウラは楽し気に呟いた。
ドラゴンは戦闘本能の塊である。
欲求の中で最も強いのが戦う事であり、その他の感情は全てその付属に過ぎない。
だが、決して他の感情がない訳ではない。
ただ戦闘本能が強すぎるだけで、その他も感情も十二分に強い位である。
ドラゴン達は、いつか将来誰が自分を倒してくれるだろうという事を期待している。
その理由はそういう種族だからとしか言いようがない。
それ位当たり前な事。
そして、その自分を負かした相手に全てを捧げるのもまた、ドラゴンの本能だ。
それこそがドラゴンにとって愛であり、時にそれはそのまま恋愛的要素に繋がる。
種族どころか性別の垣根すら超えて……。
そんなドラゴン達は時折その誰かを、戦う前に特定の独りに絞る事がある。
その事をドラゴン達は、恋と呼ぶ。
ありがとうございました。




