純粋なる邪悪(後編)
ぽたり、ぽたりと音が響き、白い床を赤く染めていく。
それと同時に、苦悶の表情を浮かべるメルクリウス。
その腹部には前の時と同じ様にアリスの手が貫通していた。
一日に二度の腹部貫通。
正直、破瓜どころか出産の痛みにすら今なら耐えられそうだ。
そんな良くわからない事をメルクリウスは考えていた。
「……じわじわ簒奪するんじゃ、なかったのか?」
顔を顰めながらもニヤリと笑い、メルクリウスはそう言葉にした。
「だって飽きちゃったんだもん。しょうがないじゃない」
そう言って余裕な態度のままニヤニヤ笑うアリス。
だが、内心逆に怯えている事にメルクリウスは気づいている。
アリス最大の長所であり短所は、この臆病さにあるからだ。
要するに、メルクリウスが何か奥の手がある様な態度を取っていたから、アリスは怯えた。
極度なまでに有利な状況で、いつでも逃げる準備まで出来ていて。
そこまでしたにもかかわらず、アリスはメルクリウスの行動に怯え、ドラゴンという最上位の種族に怯え、その奥の手を出す前にメルクリウスを殺そうとした。
ただそれだけ。
そんなただただ浅い考えだという事をメルクリウスは知っていた。
「にしても……本当死なないわね。正直これで殺せたって思ったんだけど」
ずぶりと音を立てながら強引に腕を抜き、アリスはそう呟く。
アリスの手は肘先まで真っ赤な血液に染まっていた。
「ああ。殺せただろうさ。私以外だったらな」
アリスはギリッと音が鳴る程、歯を噛みしめた。
「ほんっと、忌々しい種族だこと」
そう言って、嫌悪と憎しみをメルクリウスに強く向けるアリス。
メルクリウスはそれを見て、楽しそうに微笑んだ。
「やっとお前らしくなってきたじゃないか」
そう、これこそがアリスであり、アリスらしさ。
口数が少なく、いつも小馬鹿にした態度を取り、そして何かあるとすぐ癇癪を起こし周囲に憎しみを叩きつける。
それがアリスを知る者皆の評価だった。
「何が私らしくよ。良いから抵抗しないで早く吸われ尽くしてとっとと死になさい。その龍としての力、貰ってあげるから」
「はっ! その気もない癖に」
「――は?」
鼻で笑ったメルクリウスの態度に、アリスは顔を顰める。
侮蔑的で差別的で、そして憎悪を帯びた、そんな表情。
「本当に私の力が欲しいなら、その手に付いたものを吸えば良い。違うか?」
そう言ってメルクリウスは真っ赤なアリスの手を指差す。
一度目と異なり、アリスの手は未だに真っ赤に染まったまま、メルクリウスの血液が付着したままだった。
「もう限界なんだろ? 龍の血を喰らうのは。違うか?」
そんなメルクリウスの嫌味ったらしい言葉に、アリスは何も言えず歯ぎしりを見せる。
おそらく、一度目の吸血の段階でアリスの肉体が耐えられる限界量だったはずである。
だからこそ、アリスはさっきまで直接血を奪って取り込むのではなく、かなり効きは悪くとも、間接的にメルクリウスの力を簒奪していたのだろう。
「ぐっ……! ええそうね。あんたみたいな化物じみた体してないからこれ以上ドラゴンの血を取り込むのは無理よ」
「ははっ。一部でも取り込んだ時点で十分貴様も化物だ。まあ……それ以前にその酷い体で生きている事自体が化物みたいな事だけどな」
たった一言。
メルクリウスのその言葉だけで、この場にいる全員――世界が凍り付いた様な錯覚に陥った。
冷たく、それでいて恐ろしい、真冬の吹雪の中の様な……。
そんな空気に、一瞬で変わった。
「……あんたみたいな奴には、何の努力もなしに生きる事が出来る奴にはわからないでしょうね」
アリスはそう呟き、空気の様に冷たい瞳をメルクリウスに向ける。
激しい憎悪と、燃え上がる様な怒りと……そしてどんな感情すらも殺す程の嫉妬。
そんな表情をアリスはメルクリウスに叩きつける。
そのとたん、メルクリウスは一気に脱力し膝から崩れ落ちそうになる。
傷の影響ではない。
今まで弱くしかかかっていなかった簒奪の能力が、ここにきて何倍にも強く膨れ上がりメルクリウスを襲っていた。
「はは。それがお前の本気か」
「煩い。……私は死にたくない。それが手に出来るなら、他に望まない。死にたくない。何故なら私こそが世界で最も優れているから。死にたくない。その為ならば私は何でもやってやる。死にたくない。死にたくない……死にたくない。どうしてどうでも良い愚民共が平気な顔をして生きているのに、私が死ななければならない。代わりに死ねば良い……」
ぽつり、ぽつりと言葉を、いや心を吐露していくアリス。
メルクリウスはその言葉を聞いてから、頭の中でサイレンの様な音が鳴り続ける。
凍える様な恐怖と共に過去最大級の危機が迫っているのを理解出来た。
それはメルクリウスが本性を明かすのと同等、いやそれ以上の力だろう。
魔物にとって深淵足りえる力、魔物の本質。
魔物が魔物と呼ばれる所以。
つまりそれは、本当の意味でのアリスの切り札、簒奪の能力の本質そのもの。
おそらく、都市喰らいという名前に相応しい事が、その言葉を言い終わる時には起きるだろう。
「おい! どうすれば良い!?」
とんと背中に誰かが当たる感触がメルクリウスに響き、主であるクロスの声が響く。
クロスもまた、今までの経験からこれは本当にやばいという直感を覚えている。
というよりも、あの男と時計人間がクロスとの戦闘を止め慌てて部屋の隅に移動し防御態勢を取っているあたりでもう本当にやばい事だとクロスにも伝わった。
「んー。丁度良いタイミングではあるか。ご主人。私の事を綺麗だと思うか?」
「あん? 一体こんな時に何を――」
「良いから答えろご主人。言葉は短く端的に、そして心の底からの声でだ。時間がないから急げ」
「あ、ああ。綺麗だと思うぞ」
「無理やりにでも手にしたいか?」
「無理やりかはともかく、欲しいと思うぞ。男として当然かもしれんが」
「命を賭けてもか?」
「ああ。命を賭けてもだ。気の多い男で良ければな」
「それはどうでも。次だ。アリスの事をどう思う?」
「え? 一体何を。どうって……」
「時間がない。急いで答えてくれご主人」
「あ、ああ」
理解が追い付かない中クロスはおずおずと頷き、そしてアリスの方を見る。
世界を憎み、世界が憎む最悪の犯罪者。
多くの無辜の民が犠牲となり、多くの魔物が、人間が生贄となった。
自分の為だけに世界を犠牲にしても何一つ罪悪感を抱かない、本当の意味での自己中心的価値感しか持ち合わせない少女。
機嫌が悪いというだけで健康な魔物を病気にしたり呪ったりと本当にただの理不尽でしかなく、元勇者の仲間として絶対に許したらいけないタイプの存在。
だけど……それでも……。
「メルクリウスには悪いけどさ、すげー綺麗だと思う」
「……肌はボロボロ、全身内出血での痣だらけ。痩せすぎて頬もこけ、目も醜く濁って。厚着をしているから見える箇所は極一部だが、それでも世間一般で言えば綺麗の正反対。むしろ化物と言える容姿だ。それでもか?」
「それでもだな。どうしてだろうかわからんが……嫌いになれそうにない。すまん」
本心を語れと言われたクロスはそう言葉にし、メルクリウスに頭を下げた。
どうしてか自分でもわからないが、アリスという存在が、その生き方が美しい様に、クロスには思え……どうしてかわからないが、胸の内から自然に、敬意の様な物をアリスに向けていた。
メルクリウスは、ニヤリと笑った。
「それで良い。ご主人。アリスの相手は任せた」
「……は? いや、俺じゃ実力不足過ぎてちょっと……」
「その時は一緒に死んでやるから安心して良いぞ。それとも何か? 私の為に命を賭けるってのは嘘だったのか?」
ニヤニヤした口調のメルクリウス。
その顔は酷く魅力的で挑発的で……とてもではないが、クロスは自分の本心に逆らえそうになかった。
「はぁ。後でエリーに泣かれるかなぁ……」
「安心しろ。閣下にも泣かれるから」
「はぁ……憂鬱だ。……あっちは任せた」
「任されてやろう」
いつもの様に尊大な態度を取り、メルクリウスは時計人間の方に向き合う。
その後、ぶつぶつと何かを呟くアリスの方に、クロスは突撃していった。
正直に言えば、まるで勝てる気はしない。
クロスが全力を出しても追いつけないメルクリウスが苦戦……というか勝てない戦いしか出来なかった相手だ。
勝てるビジョンがまるで見えず、そのプレッシャーはかつての仲間クラス。
だけど、それでもせめて出来る事はしてみよう。
やけっぱちという程ではないが、あまりに相手が格上過ぎてそんな気持ちになっていた。
それは、その男はアリスにとって羽虫以下の存在でしかなかった。
鬱陶しいという意味で言えば、見苦しいという意味で言えば、不快という意味で言えば、かなりのものではある。
なにせ二度目の生を受けているなんて嫉妬に狂いそうな相手なのだから。
これで失敗作でなければアリスはクロスに対して凄惨極まりない行為を行い殺し、全てを奪っていただろう。
だが、相手はただの失敗作で、そして実力も大した事はない。
だからこそ、羽虫以下という評価だった。
アリスは口を止めず、クロスの突撃に合わせ面倒そうに手を振るう。
軽くではあるが、それでもその手はクロスが見切れない速度であり、当たれば武器ごと体を切断出来る強さもある。
もしそれが失敗したとしても、剣と指が触れた瞬間にクロス程度なら一瞬で骨に出来る。
メルクリウスの場合は吸い過ぎたら体に害があるかもと思い遠慮していたが、クロス程度なら、ただのネクロニア程度なら全て一度に吸いつくしたところで何の影響も受けない事は経験から理解していた。
その手に触れたら、確実に絶命する。
それは人生の経験則でもなければ戦いの中染みついた直感でもない。
それは、ただの純然たる事実。
一目見ればそうだと誰もが理解出来る、そんな攻撃。
それほどに、アリスという存在は圧倒的だった。
華奢な少女の手から繰り出される、優しいスイング。
にもかかわらず、その威圧は過去経験した死の刹那、ギリギリの向こう側そのものだった。
だからクロスは、攻撃を止め回避に専念する。
そうでなければ、避ける事も出来ないからだ。
剣で防ぐというのも一瞬考えたが……それは駄目な気がした。
理由はわからないが、剣で防いでも死ぬ未来しか見えなかった。
だからクロスは、恥も外聞も捨て、ただ全力でその腕を避ける。
大きく飛び退く様に、地面に倒れ込む様に、クロスは必死に避け、アリスの腕は空を切った。
アリスは詠唱を止めていない。
ぶつぶつと『死にたくない』『貴様らが死ね』『それを寄越せ』『どうして』『何故』というような言葉を繰り返す。
まるで呪詛の様な言葉。
それでも、ほんの一瞬だけ、アリスは眉を顰めクロスに対し不快そうな表情を向けた。
再度の攻撃、全く同じスイング。
それをクロスは躱す。
先程よりも丁寧に、それでいて慎重に。
今度は倒れ込まず、膝立ち程度しか姿勢を崩さず避け、次の攻撃を待ち受ける。
アリスはクロスが迫りくる度に同様の攻撃を繰り返し、クロスはそれを何度も避ける。
何度も何度も繰り返し……そして遂に、アリスは詠唱を止めた。
「……なんであんた如きが避けられるのよ。あんたなんかじゃ避けられない程度に力入れてやったのに……。むかつく。中途半端な実力の癖に私の前に立たないでよ」
その言葉は明らかにイライラした口調で紡がれていた。
まっすぐと、恐怖の象徴とも言われるアリスに見つめられるクロス。
瞳は淀みきり、表情は嫌悪と嫉妬と怒りに満ち、世界全ての憎しみすら飲み込みそうな少女。
世界の敵という表現は決して過分ではない。
そんな少女に見つめられているはずなのに……クロスは、アリスに対し恐怖を覚えなかった。
怖くない訳ではない。
死ぬかもという恐怖ならさっきからずっと感じている。
だが……アリス自身をクロスは怖いと思わず、ただ美しいとしか思えなかった。
「あんたは……動けなくなる恐怖の中息絶えなさい。ただ、私の平穏の為に」
そうアリスが言葉にした瞬間アリスの背後からじゃらりという音が響き、クロスに向かい何かが襲い掛かってくる。
鞭の様な柔軟性を帯びた鈍い銀色の直線状の金属。
それは、鎖だった。
襲い掛かってくる太さ三センチ位の鎖。
その鎖をクロスは避けた。
避けたつもりだった。
だが、鎖はクロスの太ももに突き刺さり、貫通する。
肉を抉り、骨を砕き。
その様子を見て溜飲が下がったのか、アリスは邪悪な笑みを浮かべる。
そんな笑み目掛け、クロスは剣を振り抜いた。
ショートソードの一閃、更に隙を見せずの短剣の追撃。
アリスから見てその斬撃は大した事のないものでしかなかった。
だがそれでも、アリスはその攻撃に強い動揺を覚えた。
理由は二つ。
太ももが貫かれた直後のノータイムで攻撃が来るとは予想していなかった。
それと、アリス本体は大して強くないので、大した事のない格下の攻撃でも十分死に至る為。
故に、アリスは怯えた様子を見せ、悲鳴を上げた。
「嫌ぁ!」
そう叫び、両手に強い光を纏わせ剣を弾き飛ばす。
ショートソードはその滅茶苦茶な一撃でぽっきりと折れた。
クロスはショートソードを捨て、右手に持っていた短剣を左手に持ち直し、右手に新たな短剣を持ち構えを取る。
それを見て――再度戦う様子のクロスを見て、アリスは発狂した様に叫んだ。
「なんで……なんでよ!?」
クロスは何も答えず、油断せず剣を構え続ける。
だがそんな事お構いなしにアリスは叫び続けた。
「なんであんたまだ死んでないのよ!? どうして吸い殺されてないのよ!」
そう言われても、クロスは理解出来ず、首を傾げる事しか出来なかった。
「私と戦って、私の鎖に貫かれて……どうしてそれで、死に絶えず、腐り落ちもせず平然としていられるの!?」
発狂しながら、アリスはクロスに突き刺さる鎖を引き抜き、何度もクロスを襲った。
しなやかな鞭の様でありながら、同時に金属でもある鎖。
その上それは、剣の様に突き刺さる。
実際貫かれたクロスの左足はほとんど動かない状態となっており、動きもかなり制限されてしまっている。
だが、それすらもアリスは気づいていない。
鎖を突き刺したままの方が都合良かったのだが、そんな事にすらアリスは気付かない。
自分の絶対とも言える能力が発動しない事はそれだけアリスにとって脅威となる事だった。
クロスは左足を庇いながら両手の短剣を重ね、鎖を何度も撃ち落とす。
思った以上に単調で、威力こそすさまじいが正直アリスの手よりも防ぎやすい。
しかも、どう見ても鎖の勢いや威力は受ける度に下がり続けていた。
それが手加減なのか油断なのか、クロスにはわからない。
メルクリウスから奪った力が徐々に抜け、クロスから一切力が吸えない為弱体化しているとはクロスに分かる訳がなかった。
ただ、自分の事であるアリスにはわかっていた。
自分の状態が非常にまずいという事に。
少しだけ、気づくのが遅れたが。
じゃらっという音と共に鎖は地面に落ち、そのまま消え去って行く。
それと同時にこぽっという音が響き、クロスは音の発信源、アリスの方を見る。
口から黒い血液を吐き出し、目から赤と緑の液体を流し、苦悶の表情を浮かべるアリス。
そんなアリスは、水混じりの聞き取りづらい声で、クロスに疑問をぶつける。
クロス程度がアリスの作り出した能力を無効化する術を持っている訳がない。
であるならば……クロスの能力を簒奪出来ない理由は、たった一つ。
能力の発動条件を、クロスが満たしていないから。
「何で……あんたは、私を恨まない。憎まない」
「……いや、恨んでいない訳ではないぞ」
「じゃあ……どうしてぶつけてこない!? 貴様如きが一体何を考えて私と向き合っている!?」
クロスは頬をぽりぽりと掻いた後、ぽつりと呟いた。
「何を考えてと言われても……敵だなとしか」
「……私をどう見る。貴様に私はどんな化物に見えている?」
「……あー、うーん……ただ、綺麗だなと……」
その言葉がアリスには理解出来なかった。
綺麗?
一体何が?
アリスは毎日鏡で自分の顔を見ている。
健康状態をチェックする為に。
そしてその顔が綺麗だと思った事は、今の今まで一度もない。
当たり前だ。
頬はこけ、肌の色はスライムやゴブリンよりも醜く、血液すら赤から変色している。
体の至る箇所の腫瘍でボディラインもボロボロで、痛々しいという言葉すらもう足りない。
そんな醜さしかない自分を綺麗だと言うクロスの言葉の意味が、さっぱりわからなかった。
「一体、どこを見てそんな事をほざいている? 自分が醜い事位、私は知っているわよ? それとも嫌がらせ?」
「いや。本気でそう思っているけど?」
わかっている。
だからこそ、やっかいだった。
それが本気だからこそ、発動条件が酷く緩い能力が発動していないのだから。
「どこが綺麗なの?」
「瞳」
「この汚く血で淀んで、色の抜けた瞳のどこが綺麗なのよ?」
「まっすぐで、強い意志で、力強くて、超綺麗だと思ってるぞ。言ったらあれだが、俺の知っている女性で一番綺麗で、かっこいい瞳をしている」
アリスはその言葉が信じられなかった。
信じられないのだが……、能力が発動していない事が、それを真実だと物語ってる。
だからこそ、アリスは生涯で初めて、理解不能という恐怖を覚えた。
アリスにとって、最強の種族の一角ドラゴンや、謀略の魔王よりも、その何もないただの失敗作の方が、何倍も悍ましく、気持ち悪かった。
過度のストレスと、戦闘の疲労から、アリスを蝕む病が悪化し、症状が表に現れる。
アリスは俯き、地面に嘔吐する。
だが、出て来るものは腫瘍と淀んだ自分の血液と、消費しきれずストックしていたメルクリウスの血液だけ。
食事なんて上等な行為、ここ数か月行っていないのだから当たり前だった。
アリスは歯を食いしばり、そしてクロスを睨みつける。
一瞬だけ怯えた様に体を震わせるが、それでも、クロスはアリスを正面から見据えた。
「俺は、あんた程生きる事にまっすぐな奴を知らない。だからさ、あんたの事、綺麗だと思うんだ。ぶっちゃけ抱きたい位。それ位は魅力的だ」
背筋にゾワリと冷たい感触が流れる。
ただただ気持ち悪い。
その男の思考が、行動が、衝動が全く理解出来ない。
アリスの脳内は、逃走一色に変わっていた。
こぽり、と本日何度目かわからない吐血をアリスは行う。
そのまま、泣きそうな瞳で……縋る様な瞳で、クロスの方を見た。
「生きたいって願う事は、悪い事なの? 死にたくないって思うのは、駄目な事なの?」
弱弱しい声、縋る様な瞳、衰え死を待つだけの少女。
だからこそクロスは、そんな彼女を、アリスを何とかしてあげたくて、手を伸ばして――。
そしてその手を、アリスは優しく、震えながら掴んだ。
「――同情、したね?」
地獄の底よりも低く、ざらりとした不快な音がまじった濁声での一言。
その瞬間、アリスの能力が発動する。
クロスは全身から急激に力が抜けるのに――いや、力そのものが吸われていく事に気付く。
慌ててアリスから手を離すのだが――クロスはそのまま、うつぶせに倒れた。
直後アリスは口の血を吐き出し、クロスやメルクリウスに目もくれず、部屋の隅で防御障壁を張る少年の様な外見の男と時計人間の方に慌てて走って行った。
「交渉よ。私の目的の手助けをしてくれるなら、あんたのソレ完成まで手を貸してあげる。早く返事して」
男は、歓喜の笑みを浮かべ頷いた。
「ああもちろんだとも! これで私は……我は我らの神と――」
アリスの背後から黒い闇が広がり、そしてその闇はアリスと男、時計人間を飲み込むと同時にゆっくりと閉じていく。
そして闇が消えた時には三体共が姿を消していた。
状況が理解出来ず、ただただ何も出来なかったシンカとグラノスはその場で茫然とし、メルクリウスは慌ててクロスの方に駆け寄る。
「ご主人。おい! 無事か」
そう叫びメルクリウスはクロスを揺さぶるが、クロスは青い顔のまま一切反応を見せなかった。
ありがとうございました。




