圧縮濃厚お仕事体験
時間で言えば、精々一時間から二時間の間位でそう長い時間ではなかった。
だが、たったその程度の時間であっても、クロスは二度目の生にて最も過酷でかつ最も苦しむ様な、そんな辛さを濃縮した時間だった。
別に大した事をした訳ではない。
ただ、食堂に行ってお手伝いをした。
ただそれだけ。
それだけなのだが……その時間は控えめに言っても、地獄そのものだった。
クロスが手伝いに来たタイミングもまた絶妙だった事も理由の一つだろう。
数度のレースが終わり、運営が決勝レースの準備を始めた。
つまり、観客がフリーになるその瞬間である。
しかも、遅れたら良い席が取れないだけでなく最悪決勝レースの開幕すら見逃しかねない。
だからこそ観客達は我先にと一分一秒でも早く食事を取ろうと食堂に駆けこみ、怒鳴り散らす様に注文を出す。
まさしく、それは地獄の様な有様だった。
そんな振り返る事すら難しい程の濃厚な時間が過ぎさり、ようやくそこそこ繁盛している位に落ち着き食堂で働く者達が一息付けるようになった頃――。
気づけば誰もクロスが食堂の手伝いをしている事に違和感を覚えなくなっていた。
あの修羅場を共に経験したという事は、戦場を共にした戦友と同様。
誰一人クロスを部外者であるとすら考える事はなく、ちょっと技術が足りない可愛い新入りメンバーという悪くない扱いとなっていた。
「ふぅー。しばらくは大丈夫かな?」
クロスは皿を洗いながら安堵の息を吐き、そう言葉にする。
「おう。お疲れクロス。決勝レースが終わった後はこっち来る奴少ないから安心しな」
クロスの言葉に緑色の肌をしたゴブリンがにこやかに答えた。
今回新入りであるクロスに直接指導する先輩役である。
クロスはこの名前も知らないこのゴブリンに相当迷惑と面倒をかけた事を理解していた。
「ああ、すいません先輩。くっそ迷惑かけまくりましたね。本当……多少自信あったんですけど足引っ張ってばっかですいません」
そう、料理の腕にクロスは多少の自負があった。
そりゃあプロで店を開ける程ではないのは確かだが、それでも最近はエリーがお代わりをして体重を気にする位腕前も上がり、料理店の従業員程度なら余裕でいけると思う位には自信があった。
思っていたのだが……何もかもが追い付かなかった。
味も、知識も、体力も。
そして何より速度が足りていなかった。
クロスが野菜を一つ剥く間に周囲は三つも四つも剥いている。
クロスが十枚皿を洗っていると周りはその二倍三倍は当たり前。
料理の速度が足りず怒鳴られる事もしょっちゅう。
久方ぶりにクロスは自分が思い上がっていたのだと思い知らされた。
「あん? いや新入りでこの中で動けるだけでお前はまじで凄い方だぞ? 自信持って良いさ」
「そうなんですかね?」
「そうなんだよ。ほれ。あいつとあいつ。あの二体が丁度勤めて一月位だけど、さっきまでいなかっただろ?」
リザードマンとはまた異なる茶色の爬虫類風の男と頭に小さな花を生やした背の高い女性をゴブリンは指差した。
「ええ、見てないですね」
「厨房に入る許可すら得られなかったんだよ。アレはあいつらへの扱いが悪いんじゃなくって、むしろ新入りってのは普通修羅場中厨房に入れないんだよ。だからお前は本当すげーよ。臨時じゃなくってちゃんと来て欲しい位にはな。それに――」
「何そこで油売ってやがる! おいそこの雑魚新入り! 言われた事すら出来ねーのか!?」
空間が震えあがる様な怒鳴り声が、クロスに降り注ぐ。
その声量はどうしてガラスが割れていないのかと思う程度には強い。
「すいません! ジャカイモの皮むき終わりました!」
慌てて言い訳をするクロス。
「だったらさっさと揚げろ! 早くこっちに来い!」
再度怒声を浴びながら、クロスは腕を掴まれ強引に連れ出される。
説明が間に合わなかったゴブリンはその背をいたたまれない表情で見送る事しか出来なかった。
その男の容姿を例えるなら、髭のないドワーフとなるだろうか。
背が低く恰幅の良いスキンヘッドの中年男性。
そのつるっつるの頭と怒鳴る度に赤くなる事から多くの魔物は彼をタコの魔物だと勘違いするが、実際はただの雑種で毛が無い事も怒鳴って赤くなる事も彼自身の個性に過ぎない。
その男、この食堂の纏め役で皆からおやっさんと呼ばれる男に、クロスはみっちりたっぷり怒鳴られ続けた。
さっきまでと異なり、すぐ隣で。
やれ芋の切り方が雑だの、やれ油の温度が低いだの高いだの、やれ揚げ過ぎだの足りないだの。
まるでイチャモンの様に聞こえる怒鳴り声を罵声と共に浴び続け、クロスが解放されたのは連れ出されてから十分後。
たった十分ではあるのだが、その間の空気は完全に冷え切っていた。
おやっさんとの付き合いが長い魔物は気にもしていないが、慣れない新入りにこの空気はとにかく恐ろしく、特に新しく入った二体の魔物なんかは震え半泣きとなっていた。
その十分後、クロスは野菜と肉を手に持ち直下の先輩であるゴブリンの元に戻ってきた。
「せんぱーい。すいませんが特選Bスープの作り方おせーてくださーい」
びっくりするほど明るく、けろっとした様子を見せるクロス。
それはとてもさっきまでさんざん怒鳴り散らされていた相手とは思えなかった。
「お前……よく平気だな」
「何がです?」
「いや。おやっさんのアレを受けて」
「ああ。ちょっと耳がキーンってしてます」
「いやそうじゃなくって……」
「でもあれ。俺の為を思って言ってくれてる事ですし。ありがたい事ですよ」
そう、クロスが平然と言い放つのを見てゴブリンはぽかーんとした顔の後、苦笑いを浮かべた。
この食堂が万年欠員だらけで、仕事を始めて一月以内で三割、半年で五割が辞めるその理由。
それはおやっさんのこの怒鳴り散らす癖が原因である。
ただし、残った皆は知っていた。
おやっさんは気に入った相手にしかそれをしないという事を。
怒鳴ってでも、叫んででも、自分の料理の技術を伝えようと必死であるという事を。
とは言え、それを初見で理解しろというのはあまりに酷である。
真っ赤な顔で今にも殺してきそうな形相で延々と怒鳴られる状況を相手の為だと言われても、わかれという方が無茶な話だ。
その無茶をクロスは平然と行っているのだからゴブリンが苦笑するのも無理はなかった。
「クロス。あんた臨時じゃなくってまじでウチで働かない? あんたなら間違いなくやっていけるわ」
「ありがとうございます。ですが……」
「止めとけ止めとけ! そいつはウチにゃ絶対来ん! やる気ない奴呼ぶよりもさっさと飯の作り方教えてやれ!」
クロスの声を遮る様に、おやっさんのそんな一言。
新入り二体にはクロスがいびられている様に聞こえているが、残りの魔物にはちゃんとおやっさんの意図が正しく伝わっている。
『クロスは事情があるからここでは働けない。だからせめて今の内に少しでも役に立つ事を教えてやってくれ』
そう、おやっさんが伝えていると。
クロスはこのおやっさんの事が嫌いではない。
むしろかなり気に入っている。
気に入った相手に損得度外視で自分の知っている事を少しでも伝えようとするその姿勢を見て、気に入らない訳がなかった。
「……あんた本当に気に入られてんな」
ゴブリンの言葉にクロスは少し照れた様子で頭を掻いた。
「どうしてでしょうかね? 嬉しくはあるんですが……」
「それで嬉しいって言えるからじゃないか?」
気に入られるという事はその分怒鳴られるという事。
それでも嬉しいと平然と言えるのは本当に凄い事だった。
ここに長いこといるゴブリンですら、偶にならともかく毎回怒鳴られるのは溜まったもんじゃない。
それでも、ここにいる皆はおやっさんの事が気に入っているから残っている。
そしてそのおやっさんが気に入っているから、クロスに残って欲しいと皆が願っていた。
たとえ無理だとわかっていても。
客の入りがほとんどなくなり、明日の仕込みや調理器具のメンテが中心となった時間帯。
相も変わらず怒鳴られ技を仕込まれるその隙間に、クロスはゴブリンに本題の質問を投げかけた。
「先輩。何か変わった事知りません?」
「あん? 変わったってどんな事だ?」
「普段と違う様子の事とか……今回のレースでいつもと違う事とか」
「んー。メイドさんなんて名前でエントリーしたレーサーがいる事位か?」
「ああ。そう言えばそれも気になってた。彼女決勝に出られたんですかね?」
「あの修羅場の時ちらっと噂話で聞いたけど……」
「凄いですね……あの時間で噂話に耳を傾けられるって……」
「慣れだ慣れ。んでそいつら曰く一位通過で決勝進出だってさ」
「ほほー。そりゃ凄い」
「ああ。まじで凄いな。そんな感じか?」
「あざっす。でも他の噂話何かないです?」
「他ねぇ……。仕入れが変わったってのはちょっと違うし……悪いが俺は知らんな」
「そっすか。すいません変な事聞いて」
「良いさ。気にするな――ってああ。一個あったわ。一週間位前から変わった事」
そう言って、ゴブリンはおやっさんの方を指差す。
おやっさんは自ら作った料理をワゴントレーの上に積んでいた。
「うぃ。ちょっと行って来ます」
クロスはゴブリンの説明を聞く前に、さっさとおやっさんの方に突撃していった。
「おやっさん。何してるんです?」
「……クロスか。これを見ろ」
そう言っておやっさんはクロスに自ら作った料理を見せた。
まるで高級料理の様に彩られた丁寧な作りの料理群。
野菜の盛り付けからデザートまで全てが繊細で、まるで芸術品の様。
強いて言うなら、少々以上に量が少ない事位が不満らしい不満だった。
「凄いっすね」
「……今のお前じゃ絶対に出来ん。しっかり見て外見だけでも覚えてろ」
「ういっす」
「……お前、変わった事が気になるんだよな?」
「あ、はい。そうですね」
「……んな事どうでも良いから俺の手伝いしろ! これを持て!」
そう言ってワゴントレーを指差し怒鳴るおやっさんに従い、クロスはおやっさんの後ろに付きワゴントレーを運んでいった。
「……あれ? 確かあのワゴン、おやっさん以外が運んだらいけないんじゃなかったか?」
ぽつりと誰かがそう口にするが、その声を聞くべき二体は既にこの場にはいなかった。
『あーっと! コースもまだ中盤なのに激しいデッドヒート! 冷静でなければ勝てないレースで、まさかの全員が冷静さを失い、いや冷静さを捨て獣の様な走りとなる! いつだれが事故ってもおかしくない程の激しさ!』
そんな叫び声と歓声を聞きながら、クロスはガラガラとカートを動かしおやっさんの背を見た。
食堂から外に出て、一体どこに運んでいるのだろうか。
そんな事を思っていると、おやっさんが賑やかな中聞こえるかどうかという小さな声で呟いた。
「お前、どこの所属だ?」
「はい?」
「言いたくないなら別に良いぞ」
そう、おやっさんが言葉にする。
どうやら、最初から全部バレていたらしい。
普段なら絶対に誤魔化すところなのだが……クロスはこのおやっさんの事を心の底から尊敬していた。
理由もないし、味方であるという保証もない。
だけど、無条件で信頼出来ると思う程度にはおやっさんの事を尊敬出来ていた。
「強いて言えば魔王様陣営ですかね」
「……わざわざ魔王様が俺らの事を探りに来てんのか?」
「いえ、事件に巻き込まれてないか的な感じです。別に疑ってはいないですよ。少なくともレーサーとか食堂の魔物達は」
「……なるほど。だから噂とか気になる事探ってんのか」
「はい。すいません騙して侵入して」
「構わん」
おやっさんはそれだけ答え、ガラガラと音を立てながらカートを引いて行った。
「……大体一週間位か。魔物二体分の飯を用意しろ。出来るだけ良い物食わせてやれなんて命令が来た。しかも運べとさ。面倒だから来いって言ったんだが……面倒な事にオーナー命令で断れんかった」
「それがこれですか?」
「ああ。……お前は何か情報掴んでないのか?」
「えっと、オーナー室の前に何かここの雰囲気に馴染んでいない殺気立った奴が見張りしてました」
「……ふむ。ちなみに言っとくが、お前も全く馴染んでないから俺達から見れば丸わかりだぞ?」
「まじで? どんなところがです?」
「鉄臭くないんだよ。バイクなんていじらない俺ですら長い事いたら鉄臭さが染み込む様な場所なのに」
「なるほど」
「そう。長い事ここにいる奴が見たら馴染んでいるとかどうとか分かるんだよ。……全く馴染んでいない別の鉄臭さがあるあいつらみたいにな……。お前がオーナー室で見たのって、あんな奴らだろ?」
そう言っておやっさんは倉庫の前にいる男達の方を指差す。
確かに、その男共はどこか普通じゃない鋭い殺気を放っていた。
オーナー室前で見たイライラした男と同じ様に。
ありがとうございました。




