ちょっとした日常(前編)
人間だった頃、魔王国がここまで平和な国だなんて考えてすらいなかった。
治安は良く、文化に優れ、芸術品を一般階級が買える位余裕があり。
それはクロスが考えていた魔物の生活とは正反対のもの。
完璧であるとは口が裂けても言えないが、それでも思っていたよりは遥かに素晴らしく、理想に近い。
人間の世界と比べて五倍……いや、十倍位は幸せな生活を皆が過ごせている。
特に食事情なんて……これを知ってしまえば、当たり前と思ってしまえば二度と人間界に戻れない。
魔王国の食事を、しかも魔王が食べる食事を経験してしまった今クロスが人間界に戻れば、きっと地獄の中にいるとしか感じられないだろう。
とは言え……繰り返すが、魔物の世界は理想に等しくはあるが決して理想郷ではなく、完璧からは程遠い。
旅をして歩いていると、こうして盗賊に出会う位には――。
「てめぇら! 有り金と食料置いていけぶへぇ――」
鬼の集団五体をその前口上を言い切る前に、クロスは抜き放ったショートソードで一瞬の内に全員気絶させる。
幾ら器用貧乏で上への道が遠いクロスとは言え、魔王討伐に最後まで参加し続けたクロスが盗賊に身を落とした程度の相手に負ける訳がない。
いや、そもそもの話元勇者の仲間のクロスに元魔王の騎士エリー、そして元蓬莱の里の里守である宗麟の三体を本気で相手にするなら軍勢と呼ばれる位の人数か砦位の準備が必要である。
「ん? こいつら刀持ってるな。蓬莱の里から数十キロ位は離れてるのに。……ああいや、蓬莱の里から逃げてきたからここに――」
そう言葉にしながら何かを考察するクロスへ唐突に矢が襲いかかる。
側面後方から高速で襲い掛かる十数本の矢。
その矢をクロスはそちらの方に向きもせず冷静に自分が当たるであろう矢だけを指で数本掴み、そして矢が飛んで来た方に一足で跳びそちらに隠れていた鬼達を気絶させた。
「とりあえず生かしたままにしたけど、エリーどうしたら良い?」
エリーは地図を取り出し近くの街の座標を指で差しクロスに見せた。
「ここに寄って放り投げましょう。縛って放置しても良いですがそこまで遠くないですし、何なら今日はここに泊まっても良いかと」
「そか。じゃあそうしよう」
そう言ってクロスは器用にロープを使って盗賊達をぐるぐると縛り上げ始めた。
宗麟はクロスのこういう所を見る度に、心からの敬意を覚え、涙を流したくなる様な、そんな気持ちに襲われる。
実力がある割に隙が多いという様な存在は意外な程に多い。
能力があったからこそ天狗になったのか、才能があるから失敗の経験が少ないからか。
長い事当主でい続け多くの門下生を指導してきた宗麟だからこそ、それは悲しい程に理解していた。
もし、そんな彼らが隙という欠点を正しく理解し強くなってくれたら、宗麟はもっと早く当主の座を降りられた。
とは言え、そんな状況だったのなら宗麟は今頃物言わぬ躯になっていただろうが。
ではクロスはどういう存在なのかと言えば、その正反対。
実力の割に、隙が少なすぎるのだ。
それはクロスの実力が低いという訳では決してなく、むしろ相当に高い。
蓬莱の里でなら軽く門番長になれるだけの実力はあるだろう。
だが、所詮その程度。
最終防衛を司る里守や頂点に位置する種族達と比べたらいろいろと足りない物が多すぎた。
だが、同じ位の実力者と戦ったらクロスは必ず勝つだろう。
その立ち振る舞い、残心、それらは宗麟から見ても格上と感じる程に完成している。
一体どれほどの地獄を潜り抜けたら、どれほど限界を超え続けたら非才なる身でそれだけの物が手に出来るのだろうか。
宗麟はクロスの培い蓄えて来た生涯があまりにも深すぎ、恐ろしく感じていた。
クロスの凄い部分はそれだけではない。
初めて来た蓬莱の里の料理をいともたやすく、それも高級料亭で食べ慣れている宗麟の舌を唸らせるレベルで作って見せた。
そんな即座に板前になれそうな技量を持つなんてのは、はっきり言って異常である。
それに加えて、今もロープで鼻歌混じりに鬼達を縛っているがそれもまた技量のいる行動である。
重い者は百五十キロを超える様な巨体の鬼達は気を失いだらんとしている。
そんな鬼達を軽々と動かし、同時に赤子でも出来るかの様に鼻歌混じりで恐ろしく複雑な結び目を作り縛り上げている。
そこまで行くともはや感動すら覚える。
確かに、クロスの実力は頂点から見れば型落ちと言っても良い。
だが、それは戦闘面で見た場合のみ。
それ以外の能力も踏まえて考えたら、宗麟から見てもその底が深すぎる。
それほどに、クロスは器用万能過ぎた。
だからこそ、宗麟の目にはクロスという存在はあまりにも悲しい。
たった一つを極める為生きたからこそ、逆にクロスという男の生き様の過酷さに、宗麟は物悲しさを覚えていた。
「宗麟さん。どうしたんです?」
エリーにそう尋ねられ、宗麟は首を横に振った。
「いえ。宿での食事ですと、クロス殿の料理が食べられないななんて贅沢な事を考えておりました」
誤魔化しながらではあるが、決して嘘ではない言葉。
その言葉に、エリーもはっとした顔となった。
「た、確かに……」
昼食後、夜はもう少し豪勢に行ってみようかなんてクロスが言ったからエリーと宗麟はすっかりその気になって期待していた。
「……いや、明日以降に期待すれば良いんですよね」
エリーは自分に言い聞かせる様そう言葉にした。
「別に良いけど日が後になればなるほど質は下がるぞ」
「どうしてですか!?」
くわわっと、掴みかかる様な勢いのエリーにクロスは怯える様両手を上げ首を横に振った。
「いや、単純に仕入れた食材やらが傷むから選択肢減るからだよ? 蓬莱の食事って鮮度が高くないと美味くない物が多いから。ごめんね俺さ、まだまともな料理蓬莱式のしか知らないから」
いまにも食い殺してきそうな様子のエリーにクロスはそう怯えた様子のまま伝えた。
「むむむ……」
「いや、むむむとか言われても困るというか……」
「……むぅ。宗麟さん。何か意見はないですか!?」
お前も同じ気持ちであろうと言わんばかりのエリーの言葉を聞いてから宗麟は少し考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「では、街の傍で野宿をし足の速い食材を消費して行くというのはどうでしょうか? クロス殿には料理をするという一方的な負担を押し付ける事になりますが……」
「いや別に構わないぞ? 俺も練習しておきたいし。ただまあ、明日になったら日持ちする物買いこませてくれ。その分今日を豪勢にするからさ」
クロスがそう呟くとエリーはぴたっと大人しくなり、そっと両手を胸の前で組み、祈る様な姿で柔らかく微笑んだ。
「私、クロスさんの騎士になって本当に良かったです」
「うん。別の時に言って欲しかったかな。でも喜んでくれてるなら嬉しいよ」
苦笑いをしながらも、それでも綺麗な子が自分の行動で楽しんでくれている事にクロスは得も言われぬ喜びを感じていた。
近場の街にて盗賊団らしき鬼達を引き渡し、お礼としてちょっとした小銭を受け取った後、クロス達は予定通り街傍でテント生活を始めた。
宿屋があるのに野宿するなんて変だなとエリーは提案に乗りながらもそう思っていた。
思っていたのだが、同じ様に街の傍でテント生活を行う存在は意外な程に多かった。
見える範囲だけでも十位のテントはあるだろう。
「……なんか、ちらほらテント見えますね。どうしてでしょう?」
エリーがそう尋ねるとクロスは調理をしながら答えた。
「宿が取れなかったとかそういう事情だろ。宗麟、もすこし火力足してくれないか?」
鍋下にある火を指差しそう言葉にすると、宗麟は頷き小さな枝を数本ゆっくりと放り投げた。
「宿がないって……普通に空き部屋ありそうな感じでしたけど?」
「宿が全部埋まってるって意味じゃなくて、安宿から埋まって行くからそっちがないって事。ちょっとした来客が集まれば、安い宿から埋まっていく。そういう所に泊まろうと思っていた冒険者とか商人とかがあぶれるんだよ」
「? 別に普通の宿に泊まれば良いじゃないですか」
「それで赤字が出たら意味がないだろ」
「なるほど。経済的事情……確かにそれなら納得出来ます」
「例えばあっちにある巨大テントなんかはキャラバンだろうからさ、そこそこ人数が多くて宿が取れなかったか最初からテント生活を想定してたんだと思う。それと向こう奥にある小さなテントは確実に、最初から宿に泊まる気がなかったってわかるな」
「どうしてです?」
「テントの質がやべぇから。俺らの持ってる奴も安物とは言ったら怒られる程の高級品だが、あっちのは群を抜いてやばい。使い慣れてるし設置や場所取りも良い。冒険者か何かはわからんが間違いなくぱない奴らだ」
「ほうほう。色々な方が野宿してるんですねぇ……」
「おう。……という訳で、ちょっと俺行ってくるわ」
そう、まるでトイレにでも行くかの様な気楽さでクロスは言葉にした。
「……はい? あの、クロスさん? 一体何がどうなったらそんな事に……」
「袖摺り合うもって奴? 出来そうな奴とか何か仕事くれそうな奴とかと仲良くしておきたいじゃん。という訳で宗麟。後任せても良いか?」
クロスはオタマを宗麟に渡すと宗麟は無言で受け取った。
「委細承知」
「食べられる様になるまでには戻ってくる予定だけど戻ってこなかったら勝手に食っててなー」
そう言葉にし、クロスは手を振ってぴゅーっとどこかに飛び出していった。
色々と言いたい事もあるし、突っ込みたい事もある。
だけど、エリーがまず聞かなければならない事は、クロスの事ではなく……。
「えと、宗麟さん。料理、出来るんです?」
いつもの射殺しそうな眼差しのまま鍋を混ぜるシュールな様子の宗麟に、エリーは尋ねた。
「クロス殿の前で出来ると口が裂けても言えぬ程度の恥ずべき身です。それでもまあ、後は煮込むだけであるならその位は」
「ああ、はい。そう、なんですね……」
エリーは何とも言えない敗北感を覚えながら、せめて配膳位はとそっと三体分の食器を並べ用意した。
クロスはまず、巨大テント三つで形成された大キャラバンに突撃してみたものの、あっけなく門前払いされた。
一応、キャラバンのトップらしき女性と会う事は出来た。
長い黒髪でどこかエキゾチックな色気を持った、まるで水着を着たみたいな恰好の美女。
正直眼福だった。
その美女は長いキセルを加え、ゆっくりと息を吐きながらこう吐き捨てた。
「ごめんなさい。私そこいらにいる雑草と話す事を楽しむ様な、そんな稀有な趣味は持っていませんの」
流石にこれは取りつく島もないと思い、クロスも静かに退散した。
少しだけ、見下されたあの目にゾクゾク来た事は誰にも言えない自分だけの秘密としながら。
そしてクロスはもう一つの目的地である恐ろしい程に高級なテントの傍まで移動し、大きな声で呼びかけた。
「すいませーん!」
テントは即座に反応を見せ、若い細身の男が中から姿を見せる。
申し訳程度の皮鎧という普段着に毛の生えた程度の軽装をする男は腰に携え鞘に納められた剣を手に持ち、いつでも抜けるという用心した様子でクロスに話しかけた。
「はい。どうかしましたか?」
あくまで落ち着いた様子で、だけど威圧する様なその男は鋭い目で尋ねた。
その相手に対し、クロスはぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。丁度近くで泊まっているのでちょいと挨拶にと」
「そうでしたか。それは失礼。ただ、少し込み合っていてまだ中にはちょっと――」
「良いではないですか。わざわざ挨拶に来て下さったのです。中に入ってもらいましょう。私もお話したいですし」
そんな女性の声がテントの中から響いた。
それを聞いた目の前の男は苦虫をかみつぶした顔をした後、そっと横に避けテントの入り口を開けた。
「という事ですので、宜しければどうぞ」
その言葉に頷き、クロスはテントの中に入っていった。
一点目。
男が着ているのはいかにも街を中心に活動する冒険者らしい革鎧なのだが、男はそれに一目でわかる程着慣れていない。
おそろしく似合っていない上に新品で汚れが見えない。
男のその只ならぬ風格は冒険者見習いのそれでは決してないにもかかわらずだ。
二点目。
冒険者は確かにゴロツキが多い。
クロスが知る人間の世界で冒険者とはロクデナシの代名詞であり九割が駄目人間で構成されていた。
魔物の世界だとそれよりマシではあるらしいが、それでも、冒険者とは他者との交流やコネで生活する職業である。
そんな冒険者であるなら、決して初対面の相手に対して剣を掴み続け、静かに脅す様な態度は取らない。
そして三点目。
最初に出て来た男のピリピリした殺気。
それは何か大切なものを護らんとするからこその殺気、まるで母獣が子を護ろうとする様な殺気だった。
冒険者に擬態した、大切な何かを護る謎の男。
もうこの時点で厄介事の予感しかしていない。
にもかかわらず、クロスに帰るという選択肢はなかった。
自由で、破天荒で、後先考えないで。
そんな風に今度は生きたいと、クロスは考えている。
だから素直に、好奇心に従いテントを開け、その女性と対面する。
腰より下に来る程長い白髪が特徴的なその若い女性は、クロスを見てからにこりと微笑んだ。
ありがとうございました。




