不器用過ぎた男のこれから(後編)
使用人が掃除だけは欠かさず行っていたが全く使われる気配のなかった、そんな空き部屋と化した客間で、何かの際に貰ったものの使い道に困り放置されていた酒瓶を片手に持ちながら、宗麟はいつも通りの無表情を浮かべた。
「普段飲まないものなので良くわかりませんが、相応に宜しいと呼ばれる物を持参させていただきました」
その表情はいつも通りと呼ぶより、いつも以上に虚無的な表情と言って良かった。
一見すれば変化はない。
だが、目的だけがすっぽり抜け落ちた様な、そんな様子だった。
「お、良いね!」
宗麟の変化を気にせず、クロスは嬉しそうにそう答えた。
「酒を嗜む事は構いません。ただ……正直どうして飲むのか理解が……」
「まあまあ。宗麟の言いたい事さ、わかってるつもりなんだ」
そう言いながらクロスはきょろきょろと周囲を探し、酒を注ぐ為の盃を見つけそれを手にした。
皿みたいな形をした不思議な容器で、それは真っ赤でめでたげで。
その盃二つに、クロスは酒を並々注いだ。
「私自身今の自分の感情が良くわかりませんのに、クロス殿はわかると?」
「わかるとはっきりは言えねーぞ。自分の感情は自分だけのもんだ。だけど、同じ様になった奴を見た事はある。ようはあれだ。仕事とか役職とか、そういう自分を支えていたものがなくなって、自分を見失ったんだよ」
「自分を、見失った?」
「そう。特に、宗麟は生き残ろうと考えた事一度もなかっただろ?」
「ええ。確かに、ありませんでした。息子達か、別の誰かか。それらに後を引き継ぐ為に殺されると。よもや私を生かしたまま当主の座を継承するとは正直思ってすら、それも一番不出来な……いえ、ご当主様の悪口は良くないですね。聞かなかった事にしてください」
「おーおー生真面目なこった。むしろ悪口の方が喜ぶと思うけどねぇ」
「それでも、ご当主様に対して無礼な働きなど出来る訳がないので」
「その不器用さがまあらしいっちゃらしいわ」
「誉め言葉として受け取っておきましょう。……それで、自分を見失った私はどうしたら良いと? 正直、生きる意味がもう……。いえ、死ぬ理由もないので自害する気などもありませぬが……」
クロスはぐいっと、強引に盃を宗麟に持たせた。
「飲め。まずは飲め。良いから飲め」
「……あの、理由は?」
「酒を飲むのに理由がいるのか?」
「……飲んだ事がないのでわかりかねます」
「じゃあとりま飲め。俺は酒を飲むのに理由なんて考えん。酒は目的であり、原因であり、答えであり、問いであり、そして世界だ。つまり……悩んだら飲め! あ、体に合わないとかないよな? それなら別の手段考えるけど」
「……いえ。たぶん大丈夫かと。……」
宗麟は無表情で盃に浮かぶ液体を眺めた。
正直、こんな物飲んだところで一体何があるというのだろうかという気持ちは渦巻いている。
そう思いながらも、御前にいるのは賢者とも称された方。
きっと、何か深い意味があるのだろう。
そう思い……宗麟は盃に口を付け、その液体を流し込んだ。
水と同じ感覚で――。
それは、食事と呼ぶ様な優しい物ではなく、飲み物を飲むと呼ぶ程安らぐ事ではない。
それを表すなら、苦痛――。
喉が焼け、鼻に痛みが走り、目の奥に火花が出て……。
眉間に皺を寄せ、眉を落とし……宗麟の彫りの深い顔立ちが一層険しく変化した。
「どうだ?」
わくわくするクロスに反し、宗麟は非常に不愉快そうに呟いた。
「何とも言えない気持ちとなりました……。言葉に言い表せませんが……少なくとも、好意的と成れる要素は見つかりませんね」
「それは残念だ。俺にとっちゃ、こいつは命みたいなもんだけどな」
そう言って、クロスはくいっと盃を傾け一気に液体を流し込む。
宗麟はその様子を見て、酒瓶を持ちクロスの盃になみなみ注いだ。
「お、悪いね」
「いえ」
そう呟き、宗麟は再度盃を傾ける。
今度は、舐める様にちょっとだけ。
辛くはないが、辛い。
決して美味いとは思えない。
それでも……一つだけ分かった事があった。
「私は、心を殺し己を一振りの鋼である様生きて来ました。光があれば光を斬り抜き、闇があれば闇を切り払い……そうして、己の鋼がへし折れるまで、ただ鋼として生きていこうと……」
「まあ、そういう生き方をしていた様に見えたな」
「ええ。そういう生き方をしておりました。ただ……鋼であろうとしただけで、やはり私はただの魔物でした」
「その心は?」
「鋼であるなら、酒程度に苦しみはしませぬから」
「はは。いつかその苦しみが楽しくなる時が来る事を、酒飲みの先輩として祈ってるさ」
そんなクロスの言葉に宗麟は苦笑いを浮かべた。
「……少し、私という存在が綻びたからか……虚無以外何も感じなかった私が、疑問を抱ける様になってました。これも酒の魔力のお陰ですかね。……クロス殿。私の抱いた疑問を聞いて頂いても?」
「ああ。酒の肴として聞かせてもらおうかね」
宗麟はクロスの盃に酒を注ぎ、ぽつりぽつりと呟きだした。
「どうして、自分はこう生きたのだろうか。今になって思えば。そんな疑問が湧いてきました。無論、後悔などはありません。後悔なんてして良い様な、そんな甘い生き方したなんて気持ちは微塵も。ただ……息子の様に、どうして生きられなかったのだろうかという純粋な気持ちは湧いていますね。息子の様に、ご当主様の様に生きれば、きっと私の父も母も、この家にいたでしょうから」
「それは、後悔ではないと?」
「はい。後悔ではないです。ただ、息子は真っ当に、誰も殺さずに私を乗り越えました。もちろんクロス殿の援護もありましたが……」
「世辞は良いさ。わかってる。あの時の俺はオマケ程度でしかなかった事位、自分でわかってるさ」
そう言ってクロスは苦笑いを浮かべる。
あの時……最後の最後の瞬間、雲耀は確かに、壁を越えていた。
己という壁を越え、父という壁を越え、ほんの一瞬でも、宗麟を上回っていた。
何をしたのか、どういう事なのか、クロスにはわからない。
わからないが、雲耀が実力で宗麟を打ちのめしたという事は、間違いのない事だった。
「クロス殿は、雲耀の意味をご存知ですか?」
「いや? どういう意味なんだ?」
「雲耀とは非常に短い時間を表す言葉です。一瞬よりも短く、刹那よりも長い時間。雷鳴が駆け抜ける速度と同等、それが雲耀。息子は……ご当主様は、今までの様な温い剣ではなく、まさしく雲耀の一閃を私に放ったのです」
「……その名を体現した一撃をか」
「然り。それこそ、まさしく壁を破るという事。クロス殿が見ている壁そのものです」
「……そういうの、わかるのか?」
「ええ。わかります」
お互い一瞬無言で見つめ合い、言葉に困る前に盃を手に取り傾ける。
宗麟は、やはり渋い顔をしていた。
「後悔ではないんです。ただ……どうして、私は息子のした事が出来なかったのだろうと、今になって自問自答を繰り返しております。答えは見つかりそうにありませんが」
「そんなもんだ」
そう言ってクロスが宗麟の盃に酒を注ぐと、宗麟はお返しにクロスの盃に酒を注いだ。
「もう一つ。その事自体に後悔はないのですが……どうしてか、私の心にモヤの様な物が残っているんです。当主の座を譲った事でもなく、殺されなかった事でもない。そんな事気にもしてないはずなのに、何故か胸にもやの様な物が……」
クロスは酒を飲んだ後、苦笑いを浮かべその答えを呟いた。
「そりゃ、悔しいんだろ」
「悔しい……ですか? 何にでしょうか?」
「そりゃ、負ける事がだよ」
「しかし……私は負ける為に生きて来ました。その事に後悔もなく……なのに悔しいとは……」
「そりゃな宗麟、あんたがその武器を、刀を好きだからだよ。好きな物で負けたら悔しいのは当然じゃないか」
その言葉は、恐ろしい程にしっくりきた。
息子に負けた事が悔しいんじゃない。
自分のただ一つである刀で負けた事が、宗麟すら出来ぬ雲耀の一閃を息子に放たれ敗れた事そのものが悔しかったのだ。
「そうか。私は、刀が好きだったんですね」
今頃になって、自分の事が宗麟は理解出来た。
好きだったから、こんな虚無で使命しかない生き方も貫けた。
好きだからこそ、種族的特徴が露見した時、己が生涯を表すそれが刀の形をしていた。
そんな当たり前の事に、宗麟は今更に気が付いた。
「どうして、私はそんな簡単な事に気づきもしなかったんでしょうね」
「……世界が理不尽だと思うか?」
クロスの問いに、宗麟は首を横に振った。
「理不尽なのは、私という存在です。それを乗り越えてくれたのだから、そこは満足です。……剣術で抜かれた事だけが、ただ悔しいというだけで」
そう言って、宗麟は酒を舐める様に味わう。
ほんの少しだけだが、酒を楽しいと感じる気持ちが宗麟にも何となくだが理解出来た様な気がした。
クロスと宗麟がぽつぽつと話しながら酒を楽しんでいるその最中、ガラガラガラと障子が破れんばかりの音を立て、唐突に雲耀が姿を現した。
「おい! 酒なら俺も混ぜろよ! なにお前らだけで良い酒飲んでんだ!」
そう言って雲耀は盃ではなく、ガラスのコップを持ち、そのままぐいっと手を伸ばした。
「おう。早かったな」
そう言って、クロスが酒を注ぐと雲耀は一気に喉に流し込んだ。
「……ったー! なにこれうっま! まじでうめぇな!」
そう言って、雲耀はまるで子供の様な破顔した笑顔を浮かべた。
「……ご当主殿。襲名おめでとうございます。それで、まだ三時間程しか経っておりませぬが……儀の方は……」
「ああ。何か俺じゃ相応しくないとかみーんなが言って来たからさ……全員纏めてぼこって黙らせた。それで問題ないよな?」
宗麟は目をぱちくりさせた後、微笑を浮かべ頷いた。
「もちろんです。力を示す事こそが儀でございますから。ある意味、歴代の誰よりも相応しい事でしょう」
雲耀はニヤリと笑った後、どかっとあぐらを掻いてその場に座った。
「さて、ここでお開きって訳じゃないだろ? もう少し付き合ってくれよ。俺が当主になった祝いも兼ねてさ。……ぶっちゃけ当主なんて柄じゃないから今すぐでも辞めたいけど」
「なりませぬ」
宗麟の言葉にしょんぼりする雲耀。
それを見て、クロスはぷっと噴き出し笑って見せた。
「ところでさ、俺部外者だから制度良くわかってないんだけど、門番長で当主で、その里守? とかってのは兼任出来るのか?」
そう、クロスが尋ねると雲耀は答えず、そっと宗麟の方を見る。
宗麟は盃を置き、ぴしゃりと言い切った。
「正直に申しまして。兼任出来ませぬ。里守とは国家権力の力を捨てた存在。逆に、国家権力すらも悪であるなら打ち破る者でもある。ですので、門番と里守は兼任出来かねますね」
「……あー。どうするんだ雲耀?」
雲耀はそっと宗麟の方を見た。
「お好きな様に。門番長を辞めても構いませんし、里守とならず門番長を続けても構いません。両方辞め当主としての役目に集中なさっても、無論問題はありません」
「今更だけどさ、その当主の役目って何するの?」
雲耀は本当に今更そう尋ねた。
「家を導き、後続を育て里守とする事です。具体的に言えば……」
そんなしばらくは終わりそうにない業務的な会話をクロスを気にもせず宗麟と雲耀は始めた。
それはクロスにとって全く興味がない真面目な話題であり、クロスは会話に混ざろうとせず、聞こうともせず、少し距離を取り独りで酒を嗜む事にした。
真面目な話を好まない雲耀であっても、こればかりは逃げる事が出来ない。
だから、代わりにクロスが避けて酒に集中する事にした。
「……とりあえずさ、俺はいつになったら次の当主に後を任せられるんだ?」
「そうですな。……雷を斬る者が現れたらですかな」
「んな事出来る訳ないじゃん」
その言葉に、宗麟は苦笑いを浮かべた。
「御当主様は今後の事について不安であられるのですな?」
「そりゃそうだ。俺が当主とか無理だって思わね?」
「……では、一つご進言したい事が御座います」
「ん? 何か良い意見あるのか?」
「ええ。当主としての仕事を滞りなく進められ、尚且つご当主様にも利のある、そんな提案が」
「ほうほう。どんなだ?」
「緑音久芒のハク殿と祝言を挙げるのです」
雲耀は噴き出した。
前言撤回――クロスは酒を飲む手をそっと止め、耳を大きくさせ会話に集中した。
「はは、ぁ!? どうしてそうなるんだ!?」
「これから緑音式の里守の方針に切り替えるのでしょう? であるなら、知っている者を呼ぶのは道理では? 更に言うなら、緑音久芒のハク殿は御当主様の苦手でいらっしゃる事が得意で、その手の事を良く引き受けていらっしゃるので。実際門番長の仕事の大半は副門番長の彼女が行っていると聞きましたがどうでしょう?」
「うぐっ。……でも……流石にそれは……もう婚約は破棄した後だし……」
「おや。婚約破棄の理由は御当主様が遊びたいという理由なはず、御当主となられたのならもう遊ぶのは終わりとなるのではないでしょうか?」
「いや……そうだけど……流石にこんな理由で婚約破棄したのに今更受け直しては……」
「そこは、婚約破棄した方が誠心誠意頼み込むしかないのでは?」
「……いや、愛情とか俺達の間にそんなのは――」
「ですが、信頼関係はあるのではないですか? 長い事、門番長とその補佐として支え合った程度には。なのできっと受けてくれますよ? ……一生尻に敷かれる事になるとは思いますが……まあ、些事ですな」
その頃には、雲耀は何も言えなくなっていた。
それが本当に効果的で効率的で、そして上手く行く可能性があるからこそ、何も言葉にせぬまま冷や汗をだくだく流していた。
関係ないクロスは話に混じれない。
ただ……あまりにも面白そうな話を続けているので……とりあえず雲耀がいじられていると気付き憤慨するまでクロスは黙って茶々を入れず、話をデバガメし続けた。
ありがとうございました。




