43 俯瞰視点
アルシオン帝国を追放されたシスター長とその取り巻き五人は、グラディス王国から渡された変装道具を巧みに使い、髪色も服装も立ち居振る舞いすらも変えて、それぞれ“別人”として帝国に潜り込んだ。
彼女たちは大きな商隊に紛れて国境を越え、泊まり歩く宿屋を拠点に、土地ごとに役柄を使い分けていった。夜の酒場では、遊び慣れた旅人の男に扮し、酒場の女たちへ軽口を叩きながら噂を落としていく。
昼の市場では、人当たりの良い行商人を装い、雑談に紛れ込ませるように皇妃への悪意を忍ばせた。祈祷所や井戸端では、近所に一人はいそうな“おしゃべり好きの気の良いおばちゃん”の声色で、同じ噂を繰り返した。
決して大声では言わない。
決して同じ場所に長くはいない。
決して自分たちが同一人物だと悟らせない。
「皇帝が皇妃を溺愛してると評判だが、何もかも、皇妃の言いなりらしいぜ。俺が思うに……魅了魔法という邪悪な魔法で操られているのかもしれないぜ……」
「おかしいと思いませんか? 皇妃が嫁いで来て、さほど時間も経っていないのに、こんなにも深く愛されるなんて……しかもあの硬派の皇帝陛下がですよ? 何かよからぬ魔法をかけられていたりして……そういえば、魅了魔法ってそんなことを簡単にできてしまうらしいですよ。あっははは!もちろん 断定はできませんがね」
「何て言うかねぇ、最近の皇帝は皇妃様べったりらしいよ?まるで悪い魔法にかかったみたいだってさぁー。危険な魔法……例えば……魅了魔法なんていうのを使われてなけりゃ、いいけどねぇ」
そういった皇妃に疑いを向ける発言を、次々と言い放ち、人々に疑惑の種をまいていく。シスターたちは淡々と、緻密に、各地へ種をまきつづけた。彼女たちの言葉は、どれもが「魅了魔法を使っている」と断定はしていない。だからこそ余計に噂として広まりやすく、人々の中ではやがて断定口調へと変質していく。 実に巧妙なやり口だったのだ。
一方、アウレリアは思い悩んでいた。
「シルヴァン、私のひどい噂が流れていて……民たちや貴族の中でも、信じ込んでいる人たちが多数いるようですわ。どうしたら良いのでしょう?」
「アルシオン帝国の民には、精神操作系の魔法はまったく効かない。前にもアウレリアに教えたよな?」
「はい、確かに……そのように伺いましたわ」
「だが、それを知っているのは皇族だけだ。大昔、この世界に戦が絶えなかった頃、我がアルシオン帝国は他国から精神操作の大規模な魔法攻撃を受けた。だが奇跡的に、我が民は誰一人として影響を受けなかった。むしろ、被害を装って反撃に転じ、敵を何度も退けてきた」
「……あぁ、分かりましたわ。耐性があると知られれば、敵が別の手段で攻めてくる。だから帝国民や貴族たちには“ただの奇跡”と伝え、本当の体質を隠してきたのですね?」
「その通りだ。だが、もう戦乱の世は終わった。小さな揉め事はあっても、あの血で血を洗う時代ではない。そろそろ真実を民たちに知らせる良い機会かもしれない」
かくして、その日のうちに、帝都をはじめ、各都市・各地方の領主館や神殿、広場の掲示板に、皇帝シルヴァン直筆の紋章が刻まれた重要告知が貼り出された。
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【皇帝陛下のお触れ】
アルシオン帝国の民よ。
近頃、皇妃アウレリアに関し、根も葉もない噂が各地に広まっていると聞き及んだ。よって、ここに明言する。
●本帝国の民は、古来より精神操作系魔法の影響を受けない体質を持つ。
いかなる魅了・支配・暗示の魔法であろうと、我らアルシオンの血を引く者には 一切通用せぬ。
これは帝国の長い歴史の中で示された、揺るぎなき事実である。
●皇妃が魅了魔法で皇帝を操っているという噂は、完全なる虚偽である。
皇妃の振る舞いは常に誠実であり、孤児院で明らかになった不正も、子を守るべき者たちが長年起こしてきた悪行を正しく暴いたにすぎない。
皇妃の行いは帝国の誉れであり、これを貶める行為は、帝国秩序を揺るがす重大な罪とする。
●今後、虚偽の噂を故意に広めた者は、厳罰に処す。
皇帝シルヴァン・アルシオン
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知識階級の学者や高位の貴族たちは歴史を紐解き、今回のお触れに深く納得していた。
しかし、噂に面白おかしさを求める者だけは、しつこくアウレリアのことを「魅了魔法を操る悪女」と呼びつづけていた。
自分自身が悪く言われるだけなら、まだ耐えられる。けれど、“ 魅了魔法を操る悪女に操られている愚帝”などという噂まで届いてしまえば、アウレリアとしては胸が痛む。シルヴァンに対して申し訳なく思う気持ちが募り、アウレリアは自然と気力が萎えてしまった。
その夜、噂に心をすり減らしたアウレリアを、シルヴァンは静かに抱き寄せ、初めて夫婦の寝室で共に眠った。帝国でも唯一アンドレだけが知る秘密――“人の心の声が聞こえる”という特殊な能力を、アウレリアにそっと明かした夜だった。
誰にも吐き出せなかった煩わしさや本音――愚痴のような弱さは誰にも言ったことがない。しかし、アウレリアだけにはそれを呟いた。
「辛いときは、一人で抱え込まず、夫婦で支え合っていこう」
そう言って口づけながら、どんな時でも自分だけは味方だと伝える。
アウレリアは驚きながらも、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(シルヴァンは、私だけに本当の気持ちを教えてくれる。私は彼に最も信頼される妻――家族になれたのだわ)
そう思えたことが、何より嬉しかった。




