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「メイドの格好をして床を磨かせても……やはり性格までは綺麗にならないらしいな。綺麗になるのは床だけか。……さて、困ったな」
静かに落とされたその一言に、マーサたちの背筋がぴんと伸びる。
ちょうどそのとき、階段を上ってきたダリアが私たちに気づき、すぐに丁寧な一礼をした。
「陛下、アウレリア様。……この者たちが、何か問題でも起こしましたか?お前たち!一体何をしたの!」
ダリアが鬼のような形相で睨みつけると、マーサたちの肩がビクンと跳ねた。
(……どうやら、相当“恐ろしい上司”として認識され始めているみたいね)
シルヴァンは冷たく目を細めながら言う。
「ダリア。こいつらはもっと厳しく躾けた方がいいぞ。俺がアウレリアをここで抱きしめていたら……“はしたない”と呟いた。まあ、独り言に聞こえる声量だったが、俺に聞こえた以上は愛する妻を貶されたのと同義だ。どう思う?この不敬」
「そうですね……万死に値するかと存じます!」
即答だった。さすがダリア。
「陛下がアウレリア様を大切になさるお姿は、私たち使用人にとっては眼福でございます。そして民にとっても、お手本となる理想の夫婦像。……ですから、この者たちには各部屋の“ご不浄”の掃除をさせ、自らの心を清めるべきかと!」
「うむ、ダリア。それが正解だな」
こうして、マーサたちは、広大な皇城に点在する“多数のご不浄”を、一日かけてすべて掃除する罰を申し渡された。
「ア、アウレリア様――いえ、皇妃殿下。どうか……お許しを……。つ、つい……つい口がすべってしまっただけなのです……!悪気は、本当に……!」
マーサは何度も頭を下げた。
「そうです。けっして、本心ではありません」
ハンナが涙目で許しを請い、最後にジーンが耐えきれず私の袖を掴んで縋りついた。
「反省しておりますので、どうか……!二度とあのようなことは、独り言でも言いませんので……」
私はやんわりと首を横に振った。
「これは私の一存では決められませんわ。あなたたちの直接の上司はダリアですもの。ダリアにお願いしてみたら、いかがかしら?」
「つっ……ダリア様、お願いします!本当に反省していますから、ご不浄の掃除だけは勘弁してください……私は名門侯爵家の四女ですのよ……っ。そのような場所を掃除したことなど、一度も……!」
マーサが屈辱に顔を歪めながらも、ダリアに頭を下げた。他の二人も遅れて頭を下げる。
「過去は過去!今のマーサは下働きの最下位メイドです」
ダリアはぴしゃりとマーサの言葉を遮った。その声音には一切の情けがない。
「反省していると言うのなら、態度で示しなさい。ならば、ご不浄の掃除です。この仕事を侮ってはいけませんよ。人のためになる、大切な仕事の一つです。さあ、張り切っていきましょう!」
その言葉と同時に、ダリアの後ろに控えていた大柄な侍女が、私にまぶしそうな微笑みを浮かべて丁寧に頭を下げた。
「カミラと申します。この度、皇帝陛下より皇妃殿下の専属侍女を拝命いたしました。誠心誠意お仕えいたします!」
そして次の瞬間、マーサとハンナをひょいっと両腕で抱え、そのまま肩に乗せ、ついでにジーンをずるずると引きずっていった。
「えっ……すごっ……。とても力のある侍女ですわね……!」
「あぁ、普通の男なら三人くらい一度に吹っ飛ばせるだろうな。アウレリアの専属侍女として、俺が選んだ。ダリア一人では負担が大きいと思ってね。父親は第一騎士団長で、カミラ自身も剣の腕が確かだし、帝国貴族としての教養も備わっている。アウレリアのそばにつけておけば安心だ」
(なるほど……本当に、安心だわ……。それにしても……こんなところまで考えてくださるなんて、私の旦那様は、本当に優しいのね……)
私は、また、胸がきゅんと締めつけられたのだった。
午後になり街へ向かう準備が整ったと聞いて、 私はシルヴァンに連れられて正面玄関へ向かった。そこに用意されていたのは、特別仕様の豪奢な馬車だった。黒と銀を基調にした車体には、職人が彫り上げた精緻なアルシオン帝国の紋章が輝き、陽光を受けると宝石のように静かに光を返していた。
「わぁ……素敵な馬車ですわね」
思わず声が漏れてしまった。
こんな立派な馬車は、見たことがない。
中に足を踏み入れた瞬間、ふわりと身体が沈み込むような柔らかなクッションが私を包み込む。
「とても……乗り心地がいいんですのね……!」
私が感嘆すると、隣に腰を下ろしたシルヴァンが、優しく目を細めた。
「アウレリアの体に負担がかかるような馬車に乗せるわけにはいかない。これは皇帝だけが使用を許されている特別な馬車だ。乗り心地が気に入ったのなら、これを皇妃専用にしよう。俺はどんな馬車でも構わないし、基本的に馬で移動することが多いからな」
その声音はいつも通り淡々としているのに、言っている内容は明らかに私を甘やかしすぎだと思う。
当たり前のように大切にされることが、まだ少し不思議に感じられる。ほんの数日前まで、私はグラディス王国で実の両親に虐げられていたのに……。
だから、胸に広がるこの温かさがどうしようもなく嬉しかった。シルヴァンに気づかれないよう、そっと自分の手の甲を指先でつねってみる。
夢ではないか確かめたかったのだ。
(……痛い。やっぱり現実ですわね)
「こら。大事な体を傷つけるな。綺麗な手が赤くなるだろう?」
小さく苦笑しながら私を咎めるシルヴァンは、つねってしまった手をそっと包み、何度も撫でてくれた。
そのたびに胸がきゅんと締めつけられて、心が静かにときめいていく。
「ごめんなさい……夢じゃないか、確かめたくて……」
「はぁ……俺の嫁、可愛すぎるだろ」
今度は、はっきりそう聞こえた。嬉しさがこみ上げて、私はそっとシルヴァンの肩に頭を預けて目を閉じる。頭を子供のように撫でられ、 まるでこの方に会うためだけに生まれてきたような気がして、ほっこりと心が和んだ。
しばらくまどろんでいると、外のざわめきが耳に入ってきた。馬車の窓から見える街並みはどこも活気に満ち、人々は皇帝の馬車に気づくと満面の笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げている。
(……私の旦那様は、民からとても慕われているのね)
その事実が誇らしくて、そんな方が自分の夫なのだと思うと、頬が自然とゆるんでしまった。
やがて馬車が静かに止まり、扉が開く。
目の前に現れたのは、金文字の“皇室御用達”の看板を掲げた大きな仕立て屋だった。




