彼女の問い
海の香りに乗せて紡がれた離別の言葉に、魔女が目を細める。
「あの夜の選択を後悔したことはあるか、アレン」
「……わからない」
「私を解放しなければ、この島の住民は今も変わらず穏やかに暮らしていただろう。お前も妻を娶り、子供をもうけて両親と共に……」
「その仮初めの安寧を捨てたからこそ、この島の住民の何百倍、何千倍という数の人達をお前が救うのを、オレは隣で見ることができた」
「だが、それは『私が救った人達の敵対者を、私は救わなかった』という事実と表裏一体だ。それに……」
「仮初めの安寧であったとしても、この島の住民達は幸せだった。子供達はいつも笑っていたし、大人達も諍うことなく穏やかに暮らしていた。この歳まで生き延びたというのに、オレにはその罪を贖う術がついに見つからなかった」
彼の言葉に耳を傾けていたリュドミラが、視線を流して島を仰ぎ見る。そこには、アレンとともにかつて生きていた「ミラ」としての昔日が幻視できた。魔女としての視野が、石畳を競って駆け下りてくる二人の姿を浮かび上がらせる。
そんな彼女を見るアレンの瞳孔はいまや白濁していて、それ故に内面まで見透かす様だった。
「気付いていないかも知れないけれど、最近、お前にミラを強く感じる」
「……そうか」
「覚えているかな。かつて彼女はオレに『離さないで』と言った」
「あぁ、その記憶はいまも私と共にある。あの日からずっと」
自らの老体に視線を落とすアレン。霞んだ彼の両眼にも、痩せ細った腕に浮かぶ歪に大きな浮腫が見て取れた。
呟きが、意図せず自嘲の色を帯びる。
「その約束はもう、果たせそうにない」
共に島を離れた当初はおよそ表情らしき物がなかった魔女だったが、半世紀近くを経たいま、その彫刻の様に端整な相貌が困惑の微笑に歪む。
「その病、私ならば癒すことも出来ると言ったはずだが…… お前はそれを望まないのだろうな」
いまや老境に達したアレン、その乾いた頬から口元へと深く刻まれた皺を水滴が伝い落ちて、白い砂浜を濡らす。
「お前と共に永遠を生きるなんて、オレにはとても出来そうにない。頼む……」
彼の痩せた膝が、静かに砂浜に落ちる。
「ミラに、会わせてくれ」
懇願する眼差しをはぐらかそうと逸らした視野に、数羽の海鳥が舞うのを捉える。互いの言葉が意味するところを誤解するには、彼らが共にした年月は長過ぎた。
目蓋を落とした魔女の内側を焦がす、少女の記憶。それは彼女自身のものではないにも関わらず、手放すことが叶わない呪い。初夏、昼下がりの磯場、海を背に少年に向かって片腕を伸ばして、言葉を紡ぎ、踵で蹴った岩の端。
日差しにぬかるんだその感触。それはあまりにもまろやかで、まるでこの島そのものが……
白砂に足跡を残しながらゆっくりと近付いてくる、幼馴染の少女。フードを脱ぎ去って露わになった白髪の下、美しく澄み切った相貌に紋様が浮かんで輝く。これまでも幾度となく目にしてきたそれは、時には彼女の身を這い回って絡み付く蛇の様にも見えた。
だが、いま彼の朧な視野を白く覆う滑らかな掌。
そこに映って明滅する、それはむしろ。
「アルキ……ナティア」
幼少期からいつも身近にあって、紅い花を揺らしていたその樹影。島に根を張り、しなやかに空へ伸びるその姿を目蓋の裏に浮かべながら。
午後の日差しの温もりを溜めた白砂に、アレンの肩が沈んでいった。
ーーーーーー
彼女にとって、人間というのは不思議に満ちた生物だった。
男は愛しい女を守る為に他の女が愛した男を屠り、女は我が子を救う為ならば他者の子を手に掛ける事も厭わない。無垢に映る子供ですら、自己の欲求が命ずるままに他の子供を虐げたりする。
なぜだ。
自分達の愛が内包する矛盾に、その破綻に誰しもが気付きながら、頑なに目を逸らして生きている。彼らは矛盾する本能の内にしか存在できないとでも言うのか。
そして、それはなぜだ。
砂浜に物言わぬ骸となって横たわる、白髪の老人。半世紀以上を彼と共に過ごし、いままたその記憶を取り込んだ。しかし、彼女の問いはやはり宙に浮いたままだ。
それならば。もう少し、問い続けてみるとしようか。
声ならぬ呟きに、彼女の内に存在する人格の半数以上が賛意を示した。
脱ぎ捨てたフードを再び目深に被った魔女リュドミラはアレンを振り返ることなく、翳した腕を翻して。
その白色の肢体を、故郷の島から搔き消した。
(了)




