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あなたのことは、もう好きではありません

作者: ゼン

 眠りは休息ではなかった。崩れた心を庇う為、体が強制した遮断の時間だった。

 目が覚めたときには、恋情より、疲れの方が先にそこにあった。



 頭の奥に鈍い痛みを抱えながら、シンディはとある一節を思い出していた──


『恋とは、目に映る相手が輝いて見えてしまう、厄介な熱病である』


 どこで耳にしたのか、見たのか、読んだのか。もう覚えていない。

 長く生きた誰かの教訓か、それとも恋に浮かされていた誰かの戯言だったのか。


 だが今なら、その意味がよく分かる。


 シンディは人の心を読めない。

 けれど、目の前の彼が考えている程度のことなら察せた。

 大方、「嫌で堪らないけど、親から見舞えと言われてるしな」とかだろう。その程度の思惑なら、当たらずとも遠くはない。

 早く帰りたい空気を隠そうともしない彼を前に、シンディは言葉にできない不快感を覚えた。

 さっさと帰ってほしい。


 加えて、今の自分は寝込んでいた影響で髪は乱れ、顔がむくんでいる。

 見舞い相手が誰であれ、会いたい姿ではない。

 昔の自分なら彼の訪問に喜んだのだろう。愚かにも。


 でも、今は──


「勘違いするなよ。父上に言われたから来ただけだ」


 ほら、やっぱり当たっていた。


「……」


 顔に大きなガーゼが張られているやつれた表情の少女を前に、こんな言葉を放てる男が一体この国に何人いるだろうか?

 失礼な人間はいくらでもいるが、ここまで心のない言葉を選べる者は多くない。

 そうであってほしい。


「ウィリアムズ子爵令息様。お見舞いをありがとうございます。どうぞ、お帰りください」


 シンディの声には、何の感情も乗っていない。

 息をのむ気配が部屋に広がった。いつもの「ジーク様」呼びではないからだろう。

 驚いている声の中には、思いやりのない男──ジーク・ウィリアムズのものも混じっている。


 予想していた反応ではなかったのか、ジークは言葉を失い、半開きの唇のまま動かない。その顔は、見続けるには不快なほど無防備で、ぐうっ、と嫌悪が喉元に込み上げる。

 視界に映すことさえ苦痛だ。


「あなたの気持ちは分かったのでもういいです。あと、香りがきつくて頭が痛むので、そのお花は持ち帰ってください」

「シ、シンディ……?」


 名前を呼ばれた刹那、胃が反応した。吐き気が込み上げ、思わず眉を寄せる。

 傍らにいたメイドがすぐに濡れた布巾を口元へあててくれた。柑橘の香りが淡く漂い、荒れた呼吸が少し落ち着く。

 掠れた声で「ありがとう」と伝えると、彼女は穏やかな微笑みを返した。それが嬉しい。たとえ仕事であっても、この対応こそ人としてあるべき姿だと思えた。


 だが、その安堵を壊すように、視界に再びジークの姿が入り込み、温もりに触れた心が一気に冷えていく。同じ空間にいるだけで吐き気がする。


「お嬢様は具合が悪いので、今日のところはお引き取りください」


 いつも穏やかな執事の声音が冷たく響く。

 小さな頃から仕えてくれている彼は、シンディの気持ちを察するのが早い。


「……お客様が、お帰りです、お見送り、して、差し上げて……」


 なんとか言い切ると、そこで思考は途切れ、シンディはメイドに体を支えられ眠りへ落ちた。


「シンディ!」


 意識の縁が薄れていく最中、焦った声が名を呼んだ気がした。


 残ったのは、空虚さだけだった。



 ◇◇◇



 シンディは、恋をしていた。

 見るもの全てに感謝を伝えたくなる病気を患っていたとも言う。


 その病原菌もとい、恋の相手はウィリアムズ子爵家の次男ジーク。学園では騎士科二回生に属する男である。

 彼の剣の腕は優秀で、将来は王族剣士隊に入るのではと囁かれるほど。


 加えて容貌にも恵まれていた。

 金髪に碧い瞳、甘い顔立ち。恋という名の幻想に弱い年頃の少女なら、心を掴まれても不思議ではない。

 そして彼自身、それを理解しているのか少女達に優しかった。いや、次第に、シンディ以外の少女達だけに優しくなっていった。


 シンディは、幼い頃、体が弱かった。

 一日の大半をベッドの上で過ごし、読書が趣味の大人しい子供だった。

 そしてジークの親とシンディの親が仲が良かったことから、『シンディを見舞うジーク』という構図が生まれた。


 幼い頃の彼は優しかった。

 体の弱いシンディに外の世界について教えてくれて、「元気になったら遊びに行こうね」と励まし、手を握ってくれた。

 嬉しかった。

 家族も使用人も優しかったが、ジークの優しさは格別だった。

 心の糧だった。

 あの頃は幸福だった。


 シンディは少しずつ体調の良い日が増えていった。父の事業が拡大し、海外からの薬が手に入りやすくなったおかげだ。


 庭でのささやかなピクニックの折、体調が良くなってきたことを伝えると、ジークは心から喜んでくれた。

 その彼の喜びように、シンディは嬉しくて泣いてしまったことを覚えている。

 人は嬉しいと思った時にも涙が出ると知ったのは、この瞬間だ。


 そんな仲の良い姿を見た互いの両親達は、十二を迎えた年にジークとシンディの婚約を結んだ。

 とはいえ、口約束だが。


 婚約式をせず婚姻へ進むことが珍しくない時代である。

 互いの両親もそうだった為、二人も口約束だけで十分と判断されたのだ。



 十七になる頃、学園生活の許可が下りたシンディは、経営学科へ中途入学した。


 同級生より二年遅れての入学は、友人関係を築くには難しい条件だった。

 必要な学びは家で済んでいた為、授業には困らなかったが、友達の作り方だけは分からなかった。


 だからこそ、ジークに励ましてほしいと思った。

 あの頃のように、「頑張って」と手を握ってほしかった。

 この頃にはジークと会う機会がほとんどなく、学園で会える日を心待ちにしていたのだ。


 だが、彼との再会はシンディの予想したものではなかった。


「ジーク様、この方はどなたですか? お知り合い?」


 彼に会いに行ったとき、隣には見知らぬ女子生徒がいた。


「あー、うん。親同士が仲良いんだ。幼馴染ってやつ」


 婚約者だと紹介してくれるだろうと思ったジークはシンディのことをそう言った。

 そのとき向けられた冷たい視線は、今も忘れられない。


 ジークの言ったことは、嘘ではない。嘘ではないのだが……。

 シンディはとてもショックを受けた。


 それでも幼い頃の想い出が期待へと形を変えていた。

 この年齢の男子は恥ずかしがりだと聞いていたことも、シンディの心を支えていた。

 たとえ自分にだけ態度が冷たかったとしても。


 しつこいほど付きまとっていたつもりはなかった。

 月に一度手紙を書き、見かけた際に挨拶へ向かう程度だった。


 しかし、それはしつこいと言われる部類だったようだ。


 彼はシンディの手紙を科の友人たちに見せて嗤っていた。

 そのことを教えてくれたのは、モニカ男爵令嬢だ。

 さらには、信じられないと戸惑うシンディを現場へ案内してくれた。


 ジークは本当に嗤っていた。


 ……迷惑だったなんて知らなかった。


「婚約は口約束だと聞きました。あなたの我儘で結んだものとも聞いています。どうか、彼を自由にしてくれませんか?」


 モニカが濡れてもいない目元をハンカチで拭った直後、「きゃああああ!」と大袈裟な声を上げてよろけた。

 このとき、モニカの狙いが分かった。

『被害者になるつもり』なのだ、と。シンディを『モニカを突き落とした犯人』に仕立て上げるつもりなのだ、と。


 のんびりだと言われることはあっても、それは気質の話。『察しが悪い』わけでも『愚鈍』なわけでもない。

 彼女は、わざとらしく階段の縁に立っていた。視線だけで足元を確かめ、落ちても怪我をしない位置を測っていた。


 シンディにはそんな器用な真似はできない。転べば本当に怪我をする。

 それでも構わなかった。モニカを悲劇のヒロインになどさせない。そう腹の底で決めた。大人しい自分に、こんな気持ちがあるなんて初めて知った。


 場所は長い石階段の前。


 モニカの手首を、シンディは意地で掴んだ。

 そのまま引き寄せ、勢いを利用して体を捻る。


 視界が回転し、気づけば立ち位置は逆転していた。


「えっ!? 何で!?」


 モニカの声には驚き以外の色が混じっていた。だが、シンディが意味を考える余裕はなかった。

 もうジークはシンディの知る彼ではない、ということしか分からなかった。



 ──ここで冒頭に戻る。


 誤算だったのは、予想以上に事態が大きくなったことだ。


 石階段から転げ落ちて、体を(したた)かにぶつけたシンディは自分が十日ほど眠っていたことを知らされた。


 その間に、事態は『貧血による転倒』として片付けられていた。

 モニカが震える声で「倒れそうな彼女に手を貸そうと思ったのですが……間に合わなくて……」と泣き崩れ、周囲はそれ以上追及しなかったのだ。

 いや、学園は貴族同士の争いを避け、正式な調査すら行わなかった。


 目が覚めてそれを聞いたとき、自分でも驚くほど、何も湧かなかった。

 怒りも、悲しみも、悔しささえも。全部、落ちていく途中で置いてきたらしい。

 だからなのだろう、二種類の意味で目が覚めた。


『恋による盲目』が消えた世界も美しく見えるのに、あの男だけは腐った花束のように視界の隅で悪臭を放っている。


 それからは淡々と進んだ。

 口約束の婚約は、正式に解かれた。


 ウィリアムズ夫人には考え直すように長い手紙や見舞いで説得されたが、ジークの行いや恋人モニカの存在を伝えると、彼女は泣く泣く諦めてくれた。


 ジークの母ウィリアムズ夫人はシンディのことを娘のように可愛がってくれていたので、シンディも胸が痛んだ。

 けれど、結婚は慈善活動ではないし昨今は恋愛結婚が主立っている。


 もちろん政略結婚もあるが、それでも候補の段階から相性を確認する。

 かつては政略結婚ばかりで、家庭が破綻する例が山ほどあったという。

 だから今は、相性を確かめたうえで結婚を決める時代なのだ。先人の知恵とは尊い。そこには経験から生まれた重みがある。


 シンディはジークと相性が悪いことが分かったので結婚はしない。そう結論を出した。


 こうしてシンディは、自由の身となった。


 学園へ通う理由も、もうどこにもない。

 頭がお花畑時代のシンディの目的はジークに会いたいが為の登校だったから。

 それに友達もできず、授業内容もすでに学んだものばかり。今となっては行く意味がない。


「留学でもしようかな」と、ぽそりと呟けば、翌日には海外の学校の案内書が用意されていた。

 本当にシンディに甘い両親である。

 言うまでもないが、兄姉も甘いし、メイドも甘いし、執事も甘い。



 案内書を読んでいると来客が知らされた。


「え? ウィリアムズ様が?」

「どうされますか?」

「……断れない?」


 シンディは眉をわずかに寄せ、寝巻きの裾を握りながら小さく息を吐いた。


「着替えるにも時間がかかるでしょうし」

「ジーク様は、お待ちすると仰っています」

「……私が会う必要があるの?」

「ありません。お嬢様のお考えがすべてです。『会わない』と仰ってよろしいのですよ。お嬢様のお好きなようになさいませ。……どうなさいますか?」


 執事の声音は穏やかだが、意思ははっきりしていた。断ってもいい、と。目が語っている。


「……会いたくない」


 それは疲れ切った心の底から出た静かな答えだった。


「かしこまりました」


 口約束の婚約がなくなって以来、ジークはなぜかシンディに会いに来る。

 会いに来ると言っても、シンディに会う気はないし家にも上げていない。許可が下りない彼は門の前に突っ立っているらしい。


 ある雨の日、門前に立つジークに心を動かされた両親から「一度くらい会ってあげなさい」と言われ、実際に会おうとした。

 しかし、部屋のドアノブへ手をかけた途端に倒れて以来、両親はジークと会うことを勧めなくなった。

 娘が丸一日眠り続けたのだ。両親が態度を変えるのは当然の結果だろう。

 体が拒否反応を示すのだから、彼との再構築はあり得ない。

 それに謝罪も受け取りたくない。

 謝罪を受ければ、許さなければならないから。


 シンディは、許さないと決めているわけではない。

 けれど、許せるほど心は追いついていない。たとえ許す日が来るとしても、それは今ではない。それだけだ。

 ウィリアムズ夫人への手紙にもそう綴った。だから、ジークがここに来る意味はない。


「そう仰ると思われてるのか、ジーク様よりお手紙を預かってます」

「……」


 受け取っても、すぐには読まない。

 それ以前に封を切らないときもある。むしろ読むほうが珍しい。ジークからの手紙など、読みたいはずがない。

 そんな自分を、シンディは性格が悪いと感じ、落ち込んだ。


 ……こんなことを思う自分ではなかったのに。


 読まないくせに、彼からの手紙を大事に仕舞っている自分も嫌だった。


 ◇


 ヘザーがカタログを覗き込みながら、明るい声を上げた。


「ここの学校が一番制服が可愛いと思います」


 すかさずパロマが別の冊子を開き、対抗するように言う。


「お嬢様、こちらの学校の方が素敵ですよ。見てください、白を基調としたものに金ボタンですって!」


 それを聞いて、シンディはぽつりと呟く。

「でもその学校は、共学だし……」


「もうっ! お嬢様ったら。共学の方が絶対いいですよ? 素敵な殿方との出会いがありますし」

 ヘザーが勢いよく身を乗り出す。


「……私に、素敵な出会いなんてあるわけない……」


「絶対あります!」

 シンディの言葉をかき消すように、パロマがすかさず大きな声で応じる。

「そうですよ、私達のお嬢様ですもの!」

 ヘザーも調子を合わせる。


「うちのお嬢様は世界で一番可愛いです!」

 パロマがにっこり笑って胸を張る。


「……ふふ、ありがとう、二人とも」


 お世辞だと分かっていても、自信満々に言い切るメイドたちの気安さが、今のシンディには心地よかった。


 最初は、ただ少し現実逃避したかっただけ。

 気分転換のつもりだった。それは両親も、屋敷の者達も分かってくれていた。

 けれど案内書をめくるうちに、ほんの少しだけ心が前を向いた。

 遠いどこかで、自分を変えられるかもしれない予感がしたのだ。

 ……逃げたい、という気持もある。

 誰も自分を知らない国は魅力的に感じた。



 ◆◆◆



 一方のジーク・ウィリアムズは、何十回目かの面会を断られ、とぼとぼと帰路についていた。

 あの日、見舞いに訪れた際、シンディの父と母が向けた眼差し。失望と静かな怒り。

 それが今も胸に刺さっている。


 婚約破棄の知らせを受けたあとも、母は何度かシンディのもとを訪れたと聞く。

 そして今日、母が何も言わずに視線を逸らした瞬間、嫌でも理解した。

 自分は、取り返しのつかないことをしたのだ、と。


 シンディにだけ態度が違ったのは、『意識していたから』だけではない。

 傷つく彼女の表情を見るたび、優越感を覚えていた。

 愚かで、醜い自己満足。

 優位に立ちたかった。好かれているのは自分で、彼女が離れるなんて考えもしなかった。少しやり過ぎたかと頭をかすめても、周りが笑ったから、そのままでいいと思った。彼女が、自分を拒む未来など考えたこともなかった。


 自分に置き換えたらひどい話である。だから、謝りたいと思った。それに、謝りさえできれば、優しい彼女なら許してくれるはずだ。


 だがその頃には、学園長への証言書と教師達の報告によって、ジークの評判は正式に『問題のある人物』と記録されていた。


 ジークは「明日こそは」と拳を強く握りながら決意した。

 しかし、何十回目かの決意を固めた翌日も、門の前で断られた。

 その次の日も、そのまた次の日も。


 彼女からの手紙を期待したが、ポストには風の音だけが通り抜けるだけだった。



 やがて半年が過ぎ、執事から冷たく告げられた。


「お嬢様は、本日ご出発なさいました」


 言葉の意味がすぐには理解できなかった。

 それが、もう彼女には会えないということだと気付くのに、数秒の沈黙を要した。

 息が詰まり、視界がぐにゃりと歪む。


 留学だと? なぜ。どこへ。どうして、何も告げてくれなかった?

 いいや、当然だ。ジークに告げる義理など最早ない。



 打ちひしがれるジークのもとに、モニカが現れた。


「ジーク様、最近浮かない顔をしてどうされたのですか?」


 かつては愛らしく見えたその仕草が、今では薄っぺらくて仕方がなかった。


 なぜ、もっと早く気付けなかったのだろう。


 いや、どこかで気付いていた。気付いていたが、見て見ぬふりをした。


 その代償は、あまりに大きかった。




 ◇◇◇




 季節は移ろい、春。


 シンディは、北方の王国サン・ヴェリスにある王立教育学院の寮にいた。


 この地は、シンディの治療薬が生まれた場所である。

 ここを選んだ理由を人に説明するときは、そう言うつもりだ。


 ……けれど本当の理由は言う気になれない。元いた場所から少し離れたかっただけ、なんて。言えるはずがない。


 空気は澄み、風が優しく肌を撫でる。

 高い塔を備えた校舎には鐘の音が響き、制服は白と金。

 メイドたちが選んだ通り、可愛くて気品ある装いは、鏡の中の自分を少しだけ誇らしく見せてくれた。


 最初の数週間は、言語の違いや文化の差に戸惑いはしたものの、学院の人々は驚くほどに親切だった。


 特に、読書室でたまたま声をかけてくれた文学科の青年、ノア・エルクレインとは気が合った。


 ◇


「──主人公が過去のことに傷付きながら逃げたことに後ろめたさを感じているけど……そんなことないのにね」

「でも逃げたことは、後ろめたいことだよ」

「まあ、人それぞれだよね。でも僕が思うに、自分の為に前を見るとか、自分を大事にすることって、案外難しいよ。大事な人を大事にするほうがまだ簡単だと思う」


 ある日、読んでいた本の感想を語り合う中で、ノアがふと口にした言葉が胸に残った。


 正直に言えば、泣いてしまい、彼をひどく狼狽させた。


 泣くつもりなんてなかった。

 あれはただの本の感想のはずだったのに、堰を切ったように涙が出た。


 ノアは何も聞かなかった。理由を探ろうとも、慰めようともしなかった。ただ、そばにいた。

 その沈黙に、責められたわけでも、許されたわけでもないのに、不思議と息ができた気がした。


 あの言葉で救われたのか、それとも自分の中の何かがようやくほどけたのかは分からない。

 ただ、あの日を境に世界が少しだけ柔らかく見えた。



 時々、夜に昔の夢を見る。

 子供の頃のジーク。庭で遊んだ日。手を握られた温もり。


 その夢が終わる頃、言葉にできない想いが胸を占めた。



 シンディは、ノアのくれたしおりを手に取りながら、ベッドからゆっくりと起き上がった。

 香り付きの手紙が引き出しに仕舞われたままでも、今はもうそれほど心が痛まない。完全に忘れたわけではない。まだ、触れれば痛む場所だ。


 けれど、あの日ノアと言葉を交わしてから、その痛みは少しずつ形を変えている気がする。


 彼を好きだった気持ちを忘れたわけではない。

 それが過去のものだと、ようやく思えるようになってきた。

 もう、振り返る為ではなく前を見る為に呼吸ができる。


 そんな日が来るなんて、昔の自分は想像もしなかった。


「そろそろ、図書館に行こうかな。私もあの本を読んでみたい」


 窓から差し込む光の中で、シンディは小さく笑った。




 ◇◇◇




 それから数年後。


 シンディは、王立学術院付属の研究寮に籍を置いていた。

 経営学を学んだのち、療養中に親しんだ薬学にも関心を抱き、今はサン・ヴェリス王国の医学研究機関で貴族支援による客員研究員として名を連ねている。


 表向きは『名家の令嬢が学術文化に資金援助をしている』体裁だが、実際は、自身が研究内容に目を通し、意見を述べ、論文の草稿を直すこともある。

 何より、勉学の中に身を置く今が心から楽しかった。


「この論文、見てもらえる? 君の視点は的確だから」


 声をかけてきたのは、ノアだ。今は正式に学術院の講師となり、共に研究に携わる同僚だ。


「うん」


 シンディは微笑んで頷いた。

 あの日、読書室で初めて会ってから、ずっと変わらず距離を守り、心を気遣ってくれた人。

 互いに踏み込みすぎず、それでも寄り添い合う時間の中で、いつしか彼はかけがえのない存在になっている。


「今日の昼食、庭園でどうかな。マロニエが咲いているって、生徒が教えてくれたの」

「へえ、いいね。……というか……」

「? なあに」

「今日は何か特別な日かな?」

「どうして?」

「顔が明るいから」


 ノアの言葉に、シンディは小さく笑った。


「そうだね。……区切りがついた日かも」


 昔の手紙はもう、どこにも残っていない。

 胸を引き裂いたような思い出も、今では波のように遠ざかっていく。


 ──今、隣にいてくれる人とともに、未来を歩いていける。

 それが、何よりの救いだった。


 春の陽が、学術院の中庭を金色に染めていた。

 花が舞い、風が吹き抜ける。


 シンディの人生は、ようやく本当に『自分のもの』となった。


 ◆


 同じく、数年後。王都・旧騎士団区画の裏手。

 荒れ果てた石造りの訓練場跡に立つ男に、かつての面影はなかった。

『騎士科の星』と呼ばれた男が、今では物陰に身を潜めるようにして酒を呷っている。


 子爵家の次男、王族剣士隊候補──すべては過去の話だ。


 婚約破棄から始まったジークの転落は、止まらなかった。


 手紙を見せて笑っていたことや、学園での態度、階段の件。それらが『ジークは弱い者に残酷だ』という一つの評価にまとめられ、まるで判決文のように広まっていった。


 噂はゆっくりと、しかし確実に広がった。

 半年も経つ頃には、社交界で彼の名を庇う者はいなくなり、一年後にはかつての友人たちでさえ距離を置き始めた。彼らもあまりいい噂がなく、肩身が狭そうだった。


 シンディとの件が社交界に知れ渡ると、ジークの振る舞いは『冷酷』『卑劣』『身勝手』と噂され、貴族としての信用は失墜。

 剣の腕もあるはずだったが、試験では実力を発揮できず、結局騎士団には正式採用されなかった。


 モニカとの仲は続かなかった。

 ジークの名が社交界で忌避され始めると、彼女はあっさりと姿を消した。

 その後、別の貴族令息に取り入ったと噂されたが、長くは続かなかったらしい。婚約は破棄となり、理由は『虚偽の証言』。今ではどこかの地方都市で、名を隠して暮らしていると聞く。

 泣き落としと恨み言が武器の女は、もう誰にも信じてもらえないだろう。


 家からの援助は最低限に減らされた。貴族の名は残っているが、それを誇りと呼べるほどの価値はもうない。

 汚れ仕事の護衛依頼や、下級騎士すら嫌がる任務を引き受け、生計を立てている。

 社交界では名を出しても眉をひそめられる程度。

 忘れられてはいないが、思い出してほしい名でもない。


「……なんで、こうなった」


 自嘲気味に呟いても、返ってくるのは酔いの巡る鈍い頭痛だけ。


 謝りたい、やり直したいと何度思ったところで、届く先はもうない。


 ふと目を上げた先に、春の風に舞う花びらが見えた。

 あの頃、彼女の髪にも、同じように春が降りていた気がする。


 でも、もう思い出しても意味はない。


 人生に、『もしも』は残されていない。



 風が吹く。


 だがその風は、背を押すものではなく、ただ通り過ぎていくだけだった。




【完】

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