人が「俯瞰」という時、二種類あるのではと思いついた話
『ガンダムとか履修したから物事を俯瞰して見る癖が付いたと自負している方』
この文言、知っている方いらっしゃいますか?
ある種有名ではと思ったのですが、数年前色々言及されていたように記憶していて確認したところ、その痕跡がなくなっていました。
電子の海の切ない、ある種の弊害です。
気楽に投稿し残せる反面、消すのも一瞬。
アカウントに紐づけられたデータは、その場所を退会する際にボタン一つで全部消えていきます。
それはもちろんのこと。
その場所自体、例えば無料の個人サイトを立ち上げるためのサーバーがサービスをやめてしまえば、そこを利用していた人々のデータは一挙に消える。
最近では、「SS投稿速報」https://sstokosokuho.com/が、個人サーバーだったのか消滅して騒ぎになっているのを、Twitter(現「X」)で目にしました。
さて、冒頭の文言ですが、とある方のポストがおそらく初出なのだと思いますのでご紹介を。
引用はじめ――
先月出た『ばくうどの悪夢』重版が決まったそうです。買ってくださった方、推してくださった方、本当にありがとうございます。
土俗ホラーが好きな方、地元を憎んでいる方、ガンダムとか履修したから物事を俯瞰して見る癖が付いたと自負している方に、心の底から楽しんでいただける長編小説です。
引用おわり―― 澤村伊智X(旧Twitter)
https://x.com/ichisawamura/status/1601137147825639424(参照:2025.11.8)
ある種の挑戦状的な(この文脈からするに、そう自負している方の認識をひっくり返すつもりで書いた内容ですよ、とも読めるので)この文言。
やはり揶揄と捉える方もいるようで、下記のように書いてらっしゃる方もいまして。
引用はじめ――
小説家の澤村伊智氏(『来る』の原作者です)がたびたび批判し揶揄する「ガンダムとか履修したから物事を俯瞰して見る癖が付いたと自負している方」になってしまいかねないからだ。
引用おわり――名興文庫のラノベ炎上芸について思ったこと1 nyapoona https://note.com/nyapoona/n/ne994afceaf0a(参照:2025.11.8)
前はチラホラ、それの何が悪い?! と言っているポストなども見た気がします。
私も、なぜそれがあまり良くないのだろう? と疑問に思って調べて、富野由悠季監督なども似たようなことをおっしゃっていたインタビュー記事にぶち当たり……があった気がするのですが、もう辿れなくなってしまいました。
もしかしたら夢かも。
ただ、個人的にこの疑問を考えながら、時に上記とあまり変わらない「ファンタジーを履修したから俯瞰する癖が身についた」「漫画を読んだから俯瞰できるようになった」「SFを見て俯瞰を習得した」etc.という内容を言う人を見つけ、観察してみたんです。
そうしてふと気づいたのが「視点という観点を忘れた俯瞰は結局、一つの視点からしか見ることが出来ていないのに、それに気付けなくなる危うさを内包する」という状態がある、ということでした。
私がみた人たちは、それぞれ違った人ではありますが、まず似通った言動をしていました。
とにかく他者の話に耳を傾けているそぶりがない。
なるほど、等という頷き返事は除外します。
思っていなくても、自分の中に相手の返事を取り入れ吟味するという動作なしでも発動できる言葉なので。
そうしてみると、異なる考えについて考察ないし自分の考えを組み立てる途中の発言、というのが他の人と比べて如実になかったのです。
自分が俯瞰したことが全て、という感じの発言の仕方、それも揃いも揃ってな感じでした。
こう書いてみるとあらためて、何か一つの事柄で俯瞰を取得したという自認、の何が危ういかの輪郭が見えてきます。
もちろん、漫画を読んで「自分が予測した相手の心理状態は、相手の思っていることとは違うかもしれない」という自覚を、獲得したという発達障害当事者の方の体験談もネットにはゴロンゴロンと、存在しているので……一概に言えない部分ではあります。
では、その「違うかもしれないという自覚獲得」と「危うい俯瞰」との違いは何か?
それは「視点の数」かなと。
どういうことかと言いますと。
「危ぶまれる俯瞰」というのは「(ガンダムや漫画などフィクションの、作者が見せたい部分をピックアップして作品に落とし込んで見せているある種思想的には単一視点)作品で得たと“強く自認“する思考には、他者視点それも複数という観点が抜け落ちる」んじゃないか、と私はみていて。
説明が難しいのですが「既に視点が固定されていて進んでいくのがほとんどの作品の常、それは作者がみて欲しい部分が決まっているから」というところを「まるで自分が色々な視点で見ているかのように錯覚している」と、結局のところ「筋書きの決まったことを、さも自分が予見して見続けていたかのように感じるどころか、そうできていると思い込むというか、結末(ないし因果)が必ずあるという思想が強く固定される」という、現象があるんじゃないかな、と。
これの何が危ういかというと「自分が客観性を持ってみていると自負している視点は、結局自分一人のものでしかなかったが、気付けない」のです。
誤った客観性、と言えるかもしれません。
例えば病気一つとっても、不摂生で起こるものもあれば(タバコは肺への影響が科学的に証明? されてますよね)、どうしようもないもの(これをすると癌になる、というような話はなかったかと)もあるかと思います。
ある人は「病気になるのは人生の行いのせい」と言いました。
さて、これは客観的な俯瞰をしてみた時に、妥当な言説でしょうか?
私にはそうは思えませんでした。
返して「自分が予測した相手の心理状態は、相手の思っていることとは違うかもしれない」という自覚を、獲得したという発達障害当事者の方の体験談。
恐らくはですが、前述の「違うかもしれないという自覚獲得」は、二つ目の視点を獲得できた瞬間、だったのかと思われます。
実際。
個々人で全く物事の見え方や見方は違うので、現実ほどそうそうフィクション作品のように結末というものは訪れないことも多いです。
区切りはついたとしても。
そして誰かがあなた楽しそうじゃないね、と言っても、ご本人はとても満足して楽しい、ということも普通に起きます。
価値観が違うので、何が勝ちで何が負けか、何が幸せで何が不幸せかが違うことも多いです。
一例を出すと、関東圏の人は「価格の多さ」が話にのぼり、関東圏の人は「価格の少なさ」が話にのぼる傾向があるそうです。
嬉しいのツボが違う好例ですね。
ドキュメンタリーや実際に親兄弟、友人などの話を聞くと、人生というものはフィクションのようにはいかないし、揺蕩うごとく、何が悪いとか諸々のすべてをすっ飛ばして、ただただタイミング的なものが壊滅的なこともあったりが普通だなぁと感じます。
意図的なクソ思考もたくさんあれば、またそれ以上に自分をより良く他者に優しくあろうと努力する姿勢も、また、それこそたくさんあったりもします。
ただ普通に過ごすのだって、その時間の使い方や、何をするかも本当にいろいろで多彩な世界があります。
同じ出来事を体験しても、それについての感想も様々です。
この多種多様な視点を「履修したから物事を俯瞰して見る癖が付いたと自負」した瞬間、もしかしたら捨て去ってしまっているのかもしれません。
その誤った客観性を、作家の先生は見抜いたのかなぁと思うと、その観察眼には舌を巻く思いです。
人を観察しそれを落とし込み物語を、今そこにあるかのように語って作品にするという作家さんの職業、またそれを続けるということの凄みを、感じます。
あなたが持っている視点、幾つですか?




