A78B08:ミクロコスモス / ミレニア
エイノマ王国領の南部に、貿易港と街の往復により踏み慣らされた広場がある。森林が左右への道迷いを防ぎ、木々の葉や年輪が前後への道迷いを防ぐ。輸送団が集まる地点、主に分かれ道や休憩所には、規模に応じた広場が生まれる。ここの文化では人間も大自然の一部として同じ獣道を使う。
窓口となる港の付近だけが文明らしい匂いを持つ。都会の権力者はわけもなく田舎国家への立ち入りを避けたがる。彼らに働きを見せつけるには、彼らに合わせた位置を用意してやる。要人や付き人たちを一角で寛がせる傍らで、アナグマが各地の連絡を取りまとめる。
ノモズを中心にした小グループがこの位置を要求した。信用のために見せられるうち、アナグマの拠点ではなく、アナグマが動いていい場所で、かつ巻き添え被害の可能性を抑えられる位置はここしかない。正確には、居心地を犠牲にできるならいくらでも増やせるが、老人の足腰では片道切符にもならない。
念には念を。退避の準備をさせていて正解だった。大聖堂の上空あたりから一直線に四人分の塊が落ちてくる。ノモズが茶と携帯食でひと息ついていたところに。老人どもがついでの外交話に花を咲かせたところに。「退避、伏せて!」クレッタのひと声を合図に、練習していた位置へ逃げ込んだ。石や枝でも当たれば致命傷になるから、全員が頭を低くした。土埃が舞う。目を開けられないし、呼吸器も露出できない。眼鏡と手拭いで守れるノモズを除いて。
「ノモズです。聞こえますか。生きていますか。やりましたか」
最初に立ち上がり、墜落した地を確認しに向かった。木々が折れたり、根に絡んだ土ごと盛り上がるなど、足場はひどい状況だ。森林の浅い範囲で済んで助かった。獣道ぎりぎりの、まだ広場と呼んで通せる位置からでもアナグマの三人が生きている様子を認めた。残る一人と石板へ目を向けた。奥に積み上がる土にもたれる形で、座る姿からは抵抗の意思も可能性も感じない。左腕を失い、素足はぼろぼろになり、最初に見せた尊大さまで手放した。
「キノコさん、無事でしたか」
半日ぶりの生の声だ。最初にキノコが上昇を経由して距離を取る。巨大な砲塔をノモズが隠れる物陰にした。
「まだやってない。この距離じゃ撃てない」
視界が悪い中、キメラとユノアも立ち上がった。二本の足で地面を踏みしめる感覚が久しぶりに感じる。散開し、次の手が誰へ来ても全滅を避けて横から叩ける。
「キメラだ。怪我はない。続行する」
「ユノア同じく。片付けよう」
ミレニアの手に刀はもうない。激突の衝撃で落としていた。それでも目が生きている。意思は落ちていない。この状況からでも何をしでかすか想像もつかない。決して油断をしてはいけない。優勢を得た今なら対話の余地がある。ノモズの出番だ。
「ミレニア、あなたの負けです。アナグマは生きるために各国を守りました」
勝利宣言で揺さぶる。言葉で意識を引き込む隙にキメラが歩いて近づく。小幅でゆっくり、何が来てもすぐに動けるように。たったの九歩の距離に二十歩、三秒の距離に三分もかける。不確かな状況で得られる確実さは最大の早さとなる。
「ですがミレニア、アナグマにはあなたを引き入れる器があります。アナグマの流儀に基づき、私は手を差し伸べます」
ノモズは右手を伸ばす。届かない距離でも見えれば意思が伝わる。応じれば話が進む。背後で眺める要人たちの反応は二分された。ノモズの正気を疑う者、ノモズの腹黒さを疑う者。言葉が友好的でも、目線がミレニアの手と目を捉えている。刺すチャンスを作る。あれはそのための右手だ。
ミレニアの後頭部が、背中が、ミクロコスモスから離れた。自分の体重を自分で支える。小さな一手でも次の行動があると意味する。キメラは構える。先に動けば隙に叩き込まれる。
巨大な衝撃の直後だ。虫も動物も押し黙り、人間も黙って見守る。風さえも木々に阻まれて沈黙する。さらに背後では豪奢な身なりの野次馬も息を潜めている。キメラに足音はない。誰かの呼吸が鼻腔を擦る音だけが大きく聞こえる。
ミレニアが口を開けて、吸って、吐いて、吸って、叫ぶ。
「うわーーー! なんだよなんだよ! アナグマも、エルモも、四つの統治者だって! 全部わたしが作ったのに! ずっと昔から用意したのに! ぽっと出の賎民が偉そうにして! ばかばかばか! うわーーーん!」
前屈みに右手をついて嗚咽を漏らす。体は大人でも、他の全ては子供のままだ。長い肢体や豊かな曲線が、普段ならば魅力を高める全身が、今は眼前の惨めさを増幅する。
キメラは慎重さを増した。背後から感じる戸惑いの色は不慣れの証拠だ。顔と手元が隠れている。次の行動を読む材料を隠し、次の行動を読む意思から隠れる。動揺をやめろ。たまらず言いかけたが、先に兆候を見つけた。叫ぶ。
「伏せろ!」
重なる形でユノアとキノコも同じく叫んだ。頼れる仲間だ。ユノアはノモズに飛びつき、物陰へ押し倒す。ほとんど叩き伏せる動きで頭だけは守る。倒れる痛みは攻撃よりは軽い。
膝の力を抜き、落下の勢いで肘を、頬を、土につける。音がひとつ、甲高く唸った。耳栓が間に合わない。空中戦用のバイザーが仇になった。風圧だけは受け止めてくれた。ミレニアの頭上で石板の表面が爆発した。中の機構が剥き出しになり、本当は石板ではないと誰の目にも明らかになった。髪の数本が引き抜かれた。もしわずかにでも遅れたら、引き抜かれるのは目玉だった。
ミクロコスモスの内部で妖しい光が巡るが、速度が徐々に落ち、やがて止まった。遠くで誰かが服が破れたと嘆く。アナグマの被害は至近距離のキメラが音での一時的な前後不覚に陥るのみに留まった。
「アナグマの人たち」
音くらいは判別できるころ、ミレニアが呟いた。つい数分前とは一転した落ち着きで続きを話す。
「私にもう手はない。負けだよ。どうにでもしていい」
返事はノモズが担う。耳からユノアの指を抜く。キメラはまだ万全じゃない。動きへ集中しても保たない。
「意思を聞かせてください。なぜこんな、大それた企みを?」
「決まってるでしょう。生きるために。私には国が、この大陸が必要だった」
ミレニアは再び背中を預けた。ミクロコスモスの内部で少しの光が揺らめく。傷に阻まれて動かない。
「アナグマは誰とでも対等です。あなたは生き証人です。歓迎できます」
「私が歓迎できない。対等な相手なんて、怖いよ」
ミレニアの目は空を仰ぐ。キメラはまだ立てない。
「本気で殺さないつもり?」
ミレニアが目線を下げる。キメラはミレニアがキメラを見た所を見る。その時、ミレニアの奥で背景が動いた。左脇腹に深緑の塊が見えた。キメラならわかる。カモフラージュだ。死角になる左から。腕がなくなった左を。筋肉がない柔らかな急所を。心臓まで一直線に貫いた。
土や植物と同じ色で、服の毛羽立ちと合わせて溶け込む。まつ毛を重ねて白目を隠す。この服装をキメラだけは見覚えがある。見せた覚えもある。
「キメラさん、お久しぶりです」
声を聞いたこともある。スットン共和国の側面を取るためにガンコーシュ帝国の特殊部隊が山間の経路を通る。待ち伏せ作戦に同行した一人だ。現地の土を油に混ぜ込み、顔にも服にも塗り込んで、背景と同化して隠れる。キメラが教えた通りの服装と戦術だ。
「ヨルメか。やってくれたな」
「もしかして、だめでした?」
「いや、助かった。ありがとう」
事前情報なしに斥候を発見するのは不可能に近い。人間の脳は風景に馴染んだものを風景の一部として処理してしまう。
「本当に、やってくれたな。前からユノアが見つけられないとぼやいてたよ。いい腕だ」
「あのユノアさんが! やりました、キメラさんの教えのおかげです」
ヨルメには必要ならやる決意があった。外見は可愛らしいが、彼女もやはりアナグマだ。キメラが教えた通りの偽装を用いて、味方も欺いて、予備の戦力として潜んでいた。キメラに肩を貸し、躊躇なく借りる。汚れた体は戦場では一流の証になる。平衡感覚を戻す助けになる。
すっかり緩んだ空気だが、中心には動かない体がある。老人たちを待たせている。ノモズの声が引き戻す。
「皆さん、戦争が終わりました」
これ以上の被害はなくなった。戦局は後始末に移る。壊れた道や建物を修理し、死んだ人間や動物を弔う。遺された人や物を集める。戦争と日常の間にはどちらでもない期間がある。ある者には書き入れ時、ある者には喪中、ある者には発表会、ある者には安堵。日数でも状況でもない。主観的な安心を共有して漠然と生きている。アナグマの外ではそれが日常だ。アナグマは再びはぐれ者になる。その前に『復興に尽力した』ナラティブを植え付ける。よりよい地位を確立する。
「キメラおねえちゃんも試して。装備が動かない。やっぱりそれが親機で、もう完全に止まったみたい」
膝の曲げ伸ばしで操作する。ついさっきまではこの操作で空中を駆ける爽快なひと時を始められた。
「動かないな」
再び地に足をつけて歩く。寂しいがそれでいい。夢を見ていたのと同じだ。空を飛ぶ夢から醒めてもがっかりなんかしない。たった一日の現実から醒めても、寂しがる理由なんかない。ないはずでも。
「キノは長く研究してたよな」
声色からの察知は、こうまで露骨ならキノコにもできる。
「そうだけど、平気だよ。わかってたから。や、仕組みまではわかんないから再現もきっとできないけどさ」
未知の発生源を眺める。すでに輝きも駆動音も失い、穴空きの箱も同然になった。ミクロコスモスはこの時代を生きる者の理解を超えた存在だ。処分するにも安置するにも、優れた技術屋が必要になる。具体的に誰かは、アナグマの誰もが一人を思い浮かべる。
「キノコさん、疲れの所ですので休みの後に、全ての源について、中身の分析と処理をお願いします。今回の件を記録し、決して誰にも繰り返させないために」
途中でキメラが割り込んだ。
「その意見はわかるが、ノモズが決める話じゃない。すべてが重すぎて、聞かせたくない話ではあるが、選ぶのはキノだ。他の誰にも指図は許さん。していいのは説得と協力だけだ」
ひと足お先のあとがき
来週(3月6日)で5章はおしまいです。
再来週(3月13日)のエピローグを以て完結です。
全82話、ご静聴ありがとうございました。
余韻までおたのしみください。




