A71B01:三十六人斬り / アナグマの暴力
約束の正午。昨日と同じく、トンガン山の頂から、黒い雲が噴き出した。
昨日との違いは、アナグマの備えがある。山の東側ではイセクが、大聖堂ではハキーンが、技術部を代表して役目を果たす。黒い雲は膨らみ続けて、大陸の東西に境界線を作った。
ハキーンからキノコへ、通信で声を届ける。大陸の中心からカラスノ合衆国の港町まで、遥かな距離へも声だけならすぐに届けられる。
「中間報告、予想通り雲よりも風船に近いようです」
「りょーかい。少し安心した」
キノコから隣のセイカへ、手を握って言葉より小さな単位を受け取る意思を伝える。
「異変はありません。お任せください」
「うん。頼りにするね」
周囲では草を刈る音だけが響く。身長を超える高さから、足で踏める高さまで。
まもなく昨日と同じ声が大陸のすべてに響いた。予告があった今日は注目が集まる。誰も食事中ではない。誰も調理中ではない。誰も書類を見ない。誰も作業をしない。街角で、窓辺で、広場で、屋上で、展望台で、荒野で、森林で、礼拝堂で、大聖堂で、あらゆる目が同じものを見つめている。
『皆様、おはようございます』
ミレニアの声だ。楽天的で、無邪気で、全てを味方と信じきった声。
『戴冠式を始めます。誰も傷つかない一つの国へ、私の秩序へ、代表の方からコメントをいただきましょう。大聖堂に送信機を送りました。どうぞ』
筋書きには味方がいたらしい。のんびり喋ればいいものを、もう少しだけ時間が必要になった。
サグナが受け取り、上を向いて話す。夜と同じ色で染まる。燭台の光が揺れる。
「まずは、こうして、お話の、機会を、ありがとうございます。宗教団体、エルモ、を代表し、サグナ、が僭越ながら、お話しします」
細かく区切り時間を稼ぐ。ひとつあたりは小さく、重ねて大きく。気づく前に次の言葉を送る。時間の認識を欺いて時間を奪う。アナグマの普段とは逆を実行する。
「私は、いえ私たちは、この日に、立ち会えて、とてもとても、光栄に、思います。この、ジャダリジモーレ大陸の、すべてが、この日のために、繋がっていたと、身をもって、味わう、私は、そのように、信じています」
サグナの視界の隅にある展望台が白く佇む。まだか。時間稼ぎもそう長くは保たない。
同時刻のガンコーシュ帝国南部、ユノアが低空から様子を探る。黒い雲の先端が稜線の先で不自然に落ちている。風船ならそうなりそうな形に。
「ユノアからノモズへ。変化なし」
同時刻のトンガン山東部、イセクが最初の工作を終えようとしている。爆薬は既に仕掛けてある。あとは起爆の前にやれるだけやっておく。上空からの声がやかましい。手元が暗い。環境としては最低だ。アナグマに来る前をさらに下回るとは思わなかった。
「光るきのこだ。少しでも役に立つか」
アズートが見つけてきた品で完全な暗闇だけは防いだ。隠れるためとはいえ、ろくな光源を使えないのは堪える。それでもアナグマにとっては上機嫌の糧だ。自分が知る範囲の外から出てきた、よくわからない存在のおかげで、目の前の問題が片付く。
「なんのために光るんだよ、そいつら」
「意味なんかない副産物だよ。人間が目的なく糞を垂れるのと同じでさ」
小さく笑いながら工具を引く。楽しい日だ。自分の小さな手が大陸の全てを握っている。
「よし、送れ」
イセクからアズートへ、アズートから短距離用の無線機を中継して、中継して、さらに中継して、手旗信号に変換して、再び無線機へ変換して、また手旗信号に変換して。大聖堂の展望台から観測した。ハキーンが手を伸ばして、真下にいるサグナへ。
黒い雲の支配権を奪った。
この段階に計画は二通りだった。成功か、失敗か。旗を振る知らせは成功だ。
「さて皆様に、もっとよい知らせが届きました。大陸を分断する黒い雲、ミレニアの技術を、アナグマのイセクさんが奪いました。ここからは私たちの時間です。ミレニアが掲げる一方的な優位の確立、すべてを敵に回すのと同義です。相互の関係を捨てては未来がない。抵抗します」
サグナが言葉を終えて、飛び出したハキーンに渡す。
「アナグマ技術部、ハキーンだ。この黒い雲の制御を奪った。風に流されるまで使ってくれ。アナグマの連絡員、頼むぞ。配った装置からも同じように言葉を伝えられる」
アナグマ諜報部が各地で旗を振った。カラスノ合衆国の電話機と同等の巨大な箱を背負い、声を上げる者の元へ向かう。
最初の一人とは最も勇気が必要になる。話題の移ろいをどの方向へ流すか、大役を担う。だから方針を背負う覚悟を持つ者が声を上げる。その繰り返しで信頼が積み上がる。
若い女が媚びた声で話す。
「アナグマの調査員、ノノでえす! 今日の私は、ガンコーシュ帝国の南西にあるノーブ村に来ました! 村長さんにお話を聞いてみましょう。おじいちゃん、どうぞ」
嗄れ声が続く。訛りが強いが、意志が伝わればいい。大雑把にでもいい。もっと後の誰かが軌道修正してくれる。
「俺ぁ片田舎で、野菜つくっで、こぢんまーり暮らすとるもんだ。ノノちゃんは孫みたいにちっこいのに、でっけえ荷物持で、ここまで健気に来てくれた。アナグマは俺らを見捨ててねえ。帝国の偉えもんが何言うかは知らんが、俺ぁアナグマ側に着くぞ。朝のうちに聞いた村のもんの賛成も、もう一度聞かせてくれ」
歓声が響く。ノノが一人一人の元へ走り一言ずつ貰う。
あまり時間を開けてはいけない。勢いをつけるために二人目三人目が続く。
「アナグマのユノア。私たちは決して、誰の駒にもならない。意思を曲げさせないし、屈させもしない」
「エン・ブレイドだ。かつてガンコーシュ帝国にいたが、死にかけを救われた身の私はアナグマにいる。不気味な連中が民を愚弄する様子を、歯痒くも眺めていた。今日、ようやく動ける。既に誰もが綻びの結果を見ている。その身で受けている。愚策は取り除く。声を上げろ、国民よ。私は期待している」
帝国での知名度が未だ高い名前が出た。諜報部が旗を振って位置を示し、その場へ走った者へマイクを渡す。最初に来たのは都市部の路上で、車に乗っていた男だ。
「私はガンコーシュ帝国のタクオジ、どこにでもいるタクシー運転手のおじさんだがね。ノーブ村は私の実家がある所で、聞き覚えある声はどれも信用する人のものだった。エン様はもちろん、ユノアさんも覚えていますよ。丁寧なお客様だった。連れの方々も、あれがアナグマなら、私はとんだ勘違いをしていた。真ん中にいたのびやかな子、彼女も元気に育ってほしい。そのためにはのびやかな環境が必要だから、声をあげました」
「こちらガンコーシュ帝国のヨー・クァール地区、僭越ながらヒイゴスが報告します。僕は製造業で、声を上げにくい人たちにケミカルライトを配っていました。エン様の話のあとから窓辺がどんどん光り始めて、どこのイルミネーションより輝いてる。すごい光だ。報告したので、僕もこれから加わりますよ」
「妻のリカです。運送業で、アイドルがゲリラライブをするトラックを走らせたこともあります。思い出しますね」
「帝国ばっかりの話だと思ってない? あたしはココ・デシカデン、スットン共和国の電子工場長だよ。いまアナグマの連中が運んでる通信機もいくつかはうちが協力したんだ。ミレニアの部下みたいな奴が余計なことを吹き込んだせいで、共和国はすっかりぼろぼろだ。帝国もだろ。やり返せるうちにやり返すよ。反撃を取り上げられるなんて、思うな」
「同じく共和国のモーデンズ。こっちは楽しくやってるんだ。横槍なんかお呼びじゃねえ」
「カラスノ合衆国、探偵のテクティと申します。厄介な案件を追ってたらミレニアに辿り着いてしまったから、実行力あるアナグマに片付けていただきたい。助力は惜しみません。頼みますよ」
ミレニアが言い返す。声色に慌てた様子が漏れ出し、さらに信用を落とす。
『民衆たち、どうしたんだ! 前に見た時はそんな奴らじゃなかっただろう! 私に従うんだよ!』
「言葉の途中で邪魔する、話にならん乱暴者だ。私も共和国には、幼少期だけだが世話になった。アナグマにも故郷を想う日はある」
通信を切りかけて、横から名前を聞かせろと指摘を受けた。その声も全土に届いた。
「アナグマのキメラだ。鹵獲した飛行ユニットで空中戦をする。勝ち目はあるんだ。あとは掴む」
その場でデモンストレーション飛行を見せた。すぐ近くにいた一般人がキメラの言葉を事実だと伝える。可視化された声が局地的な熱狂を全土まで拡散する。
「私はエディ、カラスノ合衆国の新聞社の中でも二流と言われるが、この件に関しては一番乗りだ。アナグマのユノアちゃんには、ものの見事に欺かれていたが、お説教もクビも後だ。まずは一面に載せる内容を持ち帰りなさい」
「カティと申します。議員のノモズさんの秘書のひとりで、本人は今ここにいないけど、応援します」
「こちらはアナグマの諜報部、スットン共和国担当のガガと申します。依頼に基づき声を届けます。あと、僕も戦いますよ。それでは、どうぞ」
「皆様ごきげんよう。スットン共和国の大統領、ヒュウ・ラッカです。共和国には最初に表面化させた責任があります。断じて傀儡にはなりません」
「共和国軍ナグレーン大佐と申す。力及ばす狼藉を食い止められなかった。後悔ばかりの中に彼らを誑かした大本が現れた。今度こそ殴ってでも止める」
「ガンコーシュ帝国、ハイカーンだ。ミレニアの言う通り、人間を駒にして使うのは気持ちがいい。よくわかるさ。ゆえに、俺様が駒になるのは御免被る。お前が俺様に従え。丁寧に扱うぞ。大事な駒がひとつでも減るのは惜しいし、駒が効く邪魔になるもの惜しい。いい返事を期待してやる」
「帝国軍、ムシシガ大佐だ。人の行いはほとんどが歴史上では誤差だが、今回ばかりは無視し難い差になる。特に資料を破壊した点はいただけない。共和国を唆したと聞いたがその正確さも、資料が必要になる」
「帝国軍、ゴビューノ少佐だ。資料を破壊し事実を隠す、そんな手段に頼る自体が誤謬の証左というもの。よほど正当性への自信がないのだろう」
「こちらアナグマのキビユ、カラスノ合衆国の商人宿、北部のほうにいる。この場は閑散としているが、常に人が出入りし動き続けている。きっとあらゆる地域で同じだ。この動きを押さえつけようなど、決して認めん」
「ガンコーシュ帝国の商人、ラダクーンだ。船ではよくもやってくれた。落とし前はつけさせてもらうぞ」
「カラスノ合衆国の商人、ウル・ニグスだ。『白蛇姫事件』のルーキエ・ニグスの父と言えば通るだろう。帝国では資料の破壊がどうとか言っていたが、ならば『白蛇姫事件』もそのひとつと考えるのが自然になる。ルーキエを返せないなら、見過ごす理由もなくなる。いい返事を期待するよ」
ミレニアが再び声を挟む。今度は意味を持つ言葉がほとんど抜けて、狼狽ばかりが全土に届く。すでに信用は地に落ちた。カルト団体イコカムの囲い込みも崩れた。ミレニアは一人になった。最初から一人だったのを思い知らせた。最後にただひと言『私は王だ。そのために生まれた』虚しく響いた。自信に満ちた楽観が消え失せて過去へ縋る。
泣き落としか。ここで手を緩めれば思う壺になる。目論見を逸早く察知してマイクを取った。
「アナグマのノモズです。重要な事実を話しましょう。内部でもお忘れの方がいましたから。アナグマは指導者を持ちません。アナグマは誰の支配も受けません。アナグマの誰が消えても機能は変わりません。ミレニア、あなたが目的を達成するには、アナグマの全員を殺す必要があります。ですが、アナグマは生きるための組織です。今日を生きる人間が明日も生きるための活動を続けてきました。私たちは必ず勝ちます。私はカラスノ合衆国の代議士としても活動していました。こうした危機に立ち向かうためです。騙していましたが、ミレニアへの勝利を以てお詫びとします」
「ノモズさんの秘書クレッタです。私は命の危機をアナグマに救われました。秘密の都合によりアナグマに加わりましたが、想像したような環境ではありません。ここは快適です。少なくとも、ミレニアが掲げた話よりは」
ノモズには秘書がもう一人いる。彼女はカラスノ合衆国での活動に長く付き従ったが、これまで一度として口を開かずにいた。通信機で運べるのは声だけだ。ノモズへの助力のためには、無口になる事情を捨てる他に手がない。
二流の編集部で、隣にはエディやカティがる。最前線にノモズがいて、クレッタもどうやら近くにいる。口を開く決心はチャンス自体が今だけだ。立ち上がり、受話器を取り、順番を待つ。隠し続けてきたテノールが響いた。
「私はラマテアと申します。ノモズさんのおかげで今をこうして生きています。ありがとう、そしてまた会いたい、せめて挨拶くらい。できることは何だってします。だから、だから」
久しぶりの発声に咳き込みながら、最後まで言おうとした。自分で受話器を置くまで周囲はただ見守った。ついに置いた後はカティと抱擁を交わす。
各地からの声は続く。
「きのだよ。アナグマの技術部のおかげで生きてる。ここに来るまでは寂しかったなあ。今はみんなのおかげで毎日がたのしいよ。それを黙らせたいでしょ。黙らないよ」
通信機を隣へ渡す。
「セイカと申します。故郷のスットン共和国マーアル地区では何の役にも立てなかった私が、アナグマでキノさんが適性を見出してくれました。おかげで私は生きています。敵対する意思には敏感なもので、迎撃します」
こうして話す合間にも、ユノアは周囲の声を聞き続けている。キノコの声に対して露骨に反応が増えた。多くは好意的で、たまに幼げな声まで動員した事実への嫌悪が混ざる。これまで築いてきた信用が活きた。
「あたしはとある独り身の婆さんだよ。きのちゃんのことはよく覚えてるよ。避難所暮らしの心細いときに、落とした荷物を拾ってくれたり、手が塞がった方に扉を開けたりしてたね。避難所の太陽みたいな子だ。頑張ってね」
「俺はエイノマ王国のディーヴィー。詳しくは言わん。戦うぞ」
「おれはアナグマの医者、治せるうち治すのが基本。おれは以上」
「アナグマのイナメだ。大聖堂の食堂にあるおいしいメニューは私が管理している。携帯食もだ。よろしく」
「エイノマ王国にいるヨルメです。生きてますよ、アナグマですから」
声が続く最後に、トンガン山での爆発音も乗った。土色の柱が天まで伸びる。
「こちらアナグマのアズート、敵の一部を破壊した。が、まだ動いてる」
「同じくイセク、奴は帝国側へ行った。頼むぞみんな」
全体への声を切り上げて、アナグマは個別の通信に切り替えた。すべての情報を中心となる三人へ送り、指示と声明はノモズが担う。スペアの二人、サグナとユノアを合わせて、全員がバラバラかつどうにか見える位置にいる。すぐに手を打てる。




